日本とキューバの関係 – Wikipedia

日本とキューバの関係(スペイン語: Relaciones Entre Cuba y Japón、英語: Cuba–Japan Relations)は、1929年12月21日に両国の間で外交関係が開設[1]されたことから正式に始まった。第二次世界大戦で一旦外交関係が中断されたものの、1952年11月21日に外交関係が再開された[1]日玖関係とも。

両国の比較[編集]

江戸時代(1603年 – 1868年)[編集]

支倉常長(慶長遣欧使節)の行程

文献で確認できる日本とキューバの交流は、豊臣秀吉の遺児秀頼が大坂城に未だ勢力を保っていた1614年までさかのぼる。1613年の秋に宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として仙台藩月ノ浦(現・石巻市)を出発した慶長遣欧使節が、太平洋経由でスペイン帝国本土に向かう途中の翌1614年7月23日、当時スペイン副王領ヌエバ・エスパーニャの一地方都市であったハバナに立ち寄って、8月初旬まで滞在した[10]。後年の話になるが、2001年、支倉常長にゆかりのある仙台育英学園がこの史実を記念して、創立百周年記念事業の一環としてハバナに支倉常長の像を寄贈した。この銅像は、彫刻家の土屋瑞穂が台座に仙台城石垣の石を用いて制作したものであり、同年4月26日には除幕式が行われた[11]

1620年8月、支倉の率いる慶長遣欧使節が、正使であった宣教師ソテロを連れずに帰朝した。支倉らが7年ほど外遊していた間に、日本では大坂に拠っていた秀頼が母淀殿らと共に自害して豊臣氏が滅亡、徳川氏の政道に異を唱える勢力が一掃され、キリシタン旧教勢力による内政干渉を断固排撃して内政干渉をしないキリシタン新教勢力のオランダのみと国交を結ぶことを基本方針とした鎖国体制が築かれつつあったため、旧教勢力の大国スペインの息のかかったソテロ[12]をマニラに置き去りにして帰朝せざるを得なかったのである[13]。1622年9月、慶長遣欧使節の正使を務めていたソテロが日本に密入国しようとしたところ、幕府に露見して捕らえられた。その翌々年の1624年、かつてキリシタン大名大村純忠が統治していた長崎の大村で焚刑に処された[14]。また、この年に日本はスペインとの国交を断絶し、キューバを含むスペイン副王領ヌエバ・エスパーニャとの外交関係も途絶した[15]。以後、江戸幕府が倒れるまで国交が回復することはなかった。

明治維新から第二次世界大戦終結まで(1868年 – 1945年)[編集]

正式な外交関係開設に先立つ約30年前の1898年、日本人農業移民がキューバに初めて入植した。1998年には、日本人のキューバ移住100周年を記念して様々な文化行事が催された[16]

1929年12月21日、日本とキューバの間で正式に外交関係が開設された[1]。しかし、1941年12月8日に帝国海軍がハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が勃発したことは両国の友好関係の破綻をもたらした。翌9日、キューバは早くも旗幟を鮮明にし、日本に対して宣戦布告した[17]。その後、日本とキューバは国交を回復させることがないまま、1945年8月に日本がポツダム宣言を受諾して降伏した。

国交再開から冷戦終結まで(1952年 – 1989年)[編集]

フィデル(左端)とゲバラ(右端)

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効したことにより、日本は国際社会の一員として復帰した。キューバもサンフランシスコ講和条約に署名した49ヶ国のうちの一国であり、同年8月12日にキューバ国内で同条約が批准され、11月21日には正式に両国間の外交関係が再開された[1]

1959年1月1日、フィデル・カストロを指導者とする革命勢力が、アメリカ合衆国や西側資本の強い影響下にあったバチスタ政権を打倒してキューバに革命政権を樹立した(キューバ革命)[18]。それまで親米反共のバチスタ政権により弾圧されていた人民社会党(後のキューバ共産党)は、以後、同国で唯一の政権政党となってキューバを統治することになる。フィデルと共に革命に挺身したチェ・ゲバラは、キューバでの革命成就のみを以て足れりとせず後にボリビアに渡航して更なる革命に身を捧げたが、オルトゥーニョ政権側の勢力に捕らえられて、裁判なしの大統領令により銃殺された。革命に殉じたチェ・ゲバラは、当時だけでなく21世紀になってもなお日本や世界でTシャツになるなどして愛され続けている[19]

キューバ革命の頃には既に資本主義陣営と共産主義陣営が互いに勢力争いをする冷戦構造が出来上がっており、資本主義陣営の盟主であるアイゼンハワー政権のアメリカはキューバでの共産主義政権の樹立を歓迎しなかった。アメリカは革命政権を承認しないだけでは飽き足らず、1961年にはキューバと国交を断絶して(以後、オバマ政権2期目の2015年まで断交が続く)、更には軍事力の行使や暗殺工作などの手段を駆使してフィデル・カストロ政権の転覆を企てた。しかしアメリカによるキューバの政権転覆計画はいずれも奏功せず、キューバの革命政権はソ連邦との関係を強化することで生き残りを図った。1962年の夏頃、ソ連邦からの軍事援助を受けたキューバに核ミサイルおよびその運搬手段が持ち込まれたことで、アメリカとソ連邦の東西対立は頂点に達した。キューバからアメリカのフロリダ州まで約150kmしか離れておらず、ケネディ政権のアメリカはキューバにおける核ミサイル基地の建設を断固として認めなかった。同年11月にソ連邦のフルシチョフ書記長がキューバのミサイル撤去に合意したおかげで、人類は核戦争を回避することに成功した(キューバ危機)。このように、アメリカとキューバとの間で深刻な対立があったにも関わらず、日本はキューバとの国交を断絶せず友好関係を維持する道を選んだ。

1984年11月20日、当時の日本共産党委員長不破哲三がキューバの首都ハバナでフィデル・カストロと会談を行った[20]。当時の国際情勢は冷戦が再び激化しており、共産主義陣営の盟主ソ連邦によるアフガニスタンに対する軍事介入をアメリカや日本など資本主義諸国が侵略であるとして非難する一方で、アメリカも共産主義政権が樹立されたばかりのニカラグアの反共の反政府勢力に対して憚ることなく軍事支援を行っていた(コントラ戦争)。フィデルは、不破に日本の政治や産業に対する諸事情について矢継ぎ早に質問を投げかけ、その一方で、ニカラグアの共産主義政権を倒すために反共勢力への軍事支援を含んだ内政干渉を躊躇なく行う米帝国主義への強い警戒心を吐露した。このフィデルと不破の会談は3時間15分にも及んだ。

冷戦終結後(1989年 – )[編集]

2016年11月25日、キューバを統治してきたフィデル・カストロが逝去[21]。同日中、岸田文雄外務大臣がまずブルーノ・ロドリゲススペイン語版英語版外相に宛てて弔電を送り[22]、同月28日には政権与党から岸田外務大臣のほか、岸信夫外務副大臣、薗浦健太郎外務副大臣、武井俊輔外務大臣政務官が在京キューバ大使館を訪ねて、弔意を表明した[23]。野党からは、共産党の委員長を務める志位和夫がキューバ大使館を弔問[24]。同じく共産党の不破も同大使館を訪問して「諸民族の自決権を語り合った32年前の会談、いまも深く心に刻んでいます。日本共産党 不破哲三」と記帳した[20]。同じく11月28日、古屋圭司日本・キューバ友好議員連盟会長が総理特使としてキューバへ赴き、現地で開催された葬儀に参列した[25]

文化交流[編集]

1968年1月、ハバナにおいて「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ問題についての国際知識人会議」(スペイン語: Reunión de intelectuales de todo el mundo sobre problemas de Asia, África y América Latina)が開かれ、日本からは松本清張・窪田精(文学)、山本薩夫・羽仁進(映画)、見砂直照(音楽)、本田良介・山本進(ジャーナリスト)の7名が参加し、窪田は日本の文化状況について報告した[26]

映画[編集]

キューバ革命の10年後、当時まだベトナム戦争の最中にあった1969年に、黒木和雄監督が史上初となる日本・キューバ合作映画『キューバの恋人』(スペイン語: La novia de Cuba[27]ラ・ノビア・デ・クーバ)を公開した[28]。舞台は1968年のキューバで、20代の津川雅彦がハバナを訪れる日本人青年役として主演男優を務めて、ジュリー・プラセンシア[29]がタバコ工場で働く女工であり民兵でもある現地人女性役として主演女優を務めた[30]。本作は自主上映により公開されたが、当時の日本で盛り上がっていた学生運動に水を差す映画であるという受け止められ方をするなどして興行成績は不調に終わり、黒木監督は膨大な借財を背負うことになった[28]

野球[編集]

野球は北米と極東アジア、カリブ諸国を除くとあまり人気がないスポーツだが[31]、日本とキューバでは共に野球の人気が高い。それゆえ、野球での両国の交流も深い。

1980年に日本でおこなわれた世界選手権では、日本とキューバとが優勝を争い、直接対決で1-0で勝ったキューバがそのまま優勝した。

1992年バルセロナオリンピックの野球競技で日本代表とキューバ代表が対戦して、キューバが8-2で日本を破った。両国とも決勝トーナメントに進出して、キューバが優勝を飾った。日本は台湾代表(チャイニーズタイペイ)に敗れたが、3位決定戦でアメリカ代表に勝って銅メダルを獲得した。2004年アテネオリンピック野球競技でも日本とキューバが対戦しており、両国の直接対決では日本が6-3で勝っている。両国ともに決勝トーナメントに進出したが、日本が準決勝でオーストラリア代表に敗退したため決勝トーナメントではキューバと対戦できなかった。アテネ五輪でもキューバが優勝して、日本が3位という結果で終わった。

2006年に開催されたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)第1回大会でも、日本とキューバの両国の代表が参加している。この大会では、両国ともに決勝戦まで進出しなければ決して対戦できない組み合わせのカードだったが、日本代表とキューバ代表は共に準決勝まで勝ち抜いて決勝戦で対決した。日本が10-6で勝ち、記念すべきWBC初優勝を飾った。敗れたキューバも、WBC初準優勝を勝ち取ったことになる。

2012年には、侍ジャパンマッチと銘打って日本とキューバの2ヶ国間で国際親善試合が開催された。この試合では、日本が2連勝して勝利している。

外交使節[編集]

駐キューバ日本大使・公使[編集]

駐日キューバ大使[編集]

駐日キューバ大使館(2012年7月)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]