Month: November 2017

連山車 – Wikipedia

連山車(れんだし)は、福島県福島市で、毎年10月の体育の日を含む3連休に、福島稲荷神社例大祭のいち催しとして行われる。その例大祭2日目の日曜日に行われる福島の代表的な催しである。 福島稲荷神社例大祭については、通称「秋祭り」「福島祭」と呼ばれ、かつて祭日に伴い10月9・10・11日に行われていたが、 2000年からハッピーマンデー制度により、体育の日を含む3連休に変更になった。 江戸時代の頃に福島城下の総鎮守の祭礼とされ、福島城下七町(柳町、荒町、中町、本町、上町、北南町、馬喰町)[1]を中心として、奥州街道や神社境内を練り歩いた。七町に限っては福島城に山車が入って城主に拝謁する事が許され、入城する順番も決められていた。年々贅沢で派手になってきたことから、お上より中止の命令が出された年もあったほど、盛大に行われていた歴史を持つ。 旧来、福島市の多くの町会は、それぞれ山車を保有し、町会ごとにばらばらに引き回していたが、青年有志が1か所にまとめることを発案し、福島稲荷神社例大祭に伴い行われたことが始まりである。開始当時は福島市都心部(旧福島村)の稲荷神社氏子町内だったが、段々参加する町会が増える。連山車に限っては、氏子町内外からの参加があり、現在23基の山車が引き回される。現在、福島秋祭り連山車実行委員会が主体となって運営を行っている。 連山車は、2日目の日曜日に行われ、山車が栄通り(駅前通り)に一堂に会し、太鼓の披露や観客に向けての振る舞いが行われる。 山車は破風屋根の曳き山が多く、提灯が飾り付けられている。 町会によっては奥州街道(旧国道4号)や国道13号等の交通量の多い道路を使用する上、街なかの道路は狭く追い抜きなどもしにくく車が連なるため、期間中の自動車の通行には注意が必要である。路線バスや高速バスにも影響を及ぼす場合があり、公共交通利用者は、その点を頭に入れておく必要がある。 参加町会(五十音順) 荒町 大町・上町 太田町 置賜町 上浜町 北町 天神町 豊田町 中町(中町・杉妻町) 万世町 三河町(三河北町・三河南町)

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白昼夢 (江戸川乱歩) – Wikipedia

『白昼夢』(はくちゅうむ)は、1925年(大正14年)に発表された江戸川乱歩の掌編小説、ショートショート[注釈 1](犯罪小説)。博文館の探偵小説雑誌『新青年』の1925年7月号に掲載され、『D坂の殺人事件』に始まる6ヶ月連続短編掲載の6作目(『指環』と同時掲載)にあたる。雑誌掲載時は『小品二篇 その一 白昼夢』のタイトルであり(その二が『指環』である)、書籍刊行にあたって現在のものに改題された。 書籍刊行としては1926年1月の『創作探偵小説集第二巻「屋根裏の散歩者」』(春陽堂)が初。 執筆背景[編集] 1925年当時、専業作家になることを決めた江戸川乱歩は編集長・森下雨村の企画による『D坂の殺人事件』(1月号)に始まる『新青年』での6ヶ月連続短編掲載を受け持った。ところが、2作目『心理試験』(2月号)にして種切れで悩み、3作目『黒手組』(3月号)、5作目『幽霊』(5月号)は自ら愚作、駄作と呼ぶほどの出来で書く気力を失ってしまった。そこで1回休載を挟み、掌編2作の同時掲載として『指環』と共に執筆されたのが本作である[注釈 2]。 乱歩は小酒井不木から屍蝋の作り方を聞いたことと、当時、有田ドラッグという全国にチェーン展開していた薬屋が生々しい蝋細工の皮膚病人形を飾っていたことを結びつけて着想し、本来は被害者を屍蝋にして保存するという筋の推理小説を書くつもりでいた。しかし、ものにならず、本格ものとするには不自然な部分を気違いめいた文章で誤魔化したような形となり、結局、狂人の幻想という掌編小説となった。このため本格探偵小説を志向する乱歩にとっては同時発表の『指環』と共に自信のない作品であったが、読者の反応は好評で、『屋根裏の散歩者』『人間椅子』と共に、自分を純粋推理小説から離れさせた初期の一作だと乱歩は回顧している。 あらすじ[編集] 「あれは、白昼の悪夢であったか、それとも現実の出来事であったか。」の一文から「私」の独白が展開される。 晩春の蒸し暑い日の午後、「私」が道を歩いていると、ある男の演説を群集が笑いながら聞いているのに出くわす。40歳ほどの身なりの良い男の演説内容に興味を持った私が話に耳を傾けると、それはおそろしい殺人の告白だった。男は浮気性の妻を殺害して遺体を長期間、水に漬け、屍蝋にしたという。そして私[注釈 3]は人殺しだから巡査に見つらないように用心にしなければならないなどと嘯きながら、とてもいい死体の隠し場所を見つけた、死骸は俺の店先に飾っているので「ほら、見てごらん」と言う。 「私」がハッとして後ろを振り向くとはたして薬屋があり、男は薬屋の主人とわかる。そして店の奥にはガラス張りの中に人体模型があるのが見え、店舗に入って「私」はまじまじと確認する。それは一瞬、ニッコリと笑うだけのただの女の蝋細工の人形にも見えたが、蝋の肌の奥に見える黒ずんだ皮膚や産毛など、「私」はそれが確かに人間の死体であると確信する。「私」は驚いて店から飛び出すが、群集は誰も薬屋の話を真に受けず、警官すら笑いながら話を聞いていた。 光文社文庫『江戸川乱歩全集第1巻 屋根裏の散歩者』(2004年) 岩波文庫『江戸川乱歩短篇集』(2008年) 文春文庫『江戸川乱歩傑作選 蟲』(2016年) 新潮文庫『江戸川乱歩名作選』(2016年)

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ネゴイウ山 – Wikipedia

ネゴイウ山[1](ネゴイウさん、ルーマニア語: Vârful Negoiu 発音 [neˈɡoju])あるいはネゴイ山は、ルーマニア中央部の南カルパティア山脈にある山である[2]。標高は2,535メートルで、モルドヴェアヌ山に次ぐ、ルーマニア第2の高峰である[3][1]。 ネゴイウ山が位置するのは、南カルパティア山脈のなかでも、結晶岩質の岩石からなるファガラシュ山群で、圏谷などの氷河地形が残り、急峻なアルプス的山容を示す[2][注 1]。 かつては、ネゴイウ山がファガラシュ山群の最高峰とみなされていた[4][5]。古くは、“Piatra lui Tunsu”(Tunsuの石)という名前で呼ばれていたという[6]。 ネゴイウ山頂へ至る登山道はいくつかあるが、登山者達に最もよく利用されるのは、トランスファガラシャン沿いに位置するバレア湖(英語版)から登る道である[7][8]。 ギャラリー[編集] ネゴイウ山の地形の3次元描画 ネゴイウ山(中央奥) 注釈[編集] ^ a b 『ルーマニアを知るための60章』明石書店、2007年10月10日、46-47頁。 ISBN 9784750326344。 ^

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川上未映子 – Wikipedia

川上 未映子(かわかみ みえこ、1976年8月29日 – )は、日本の小説家、詩人、元歌手。 大阪府大阪市城東区に生まれる。大阪市立すみれ小学校、大阪市立菫中学校を経て大阪市立工芸高等学校でデザインを学ぶ。高校卒業後は弟を大学に入れるため、昼間は本屋でアルバイト、夜は北新地のクラブでホステスとして働いた。 1996年、日本大学通信教育部文理学部哲学専攻科入学。 2002年、ビクターエンタテインメントより川上三枝子名義で歌手デビュー、アルバム『うちにかえろう~Free Flowers~』を発表。「未映子」と改名し音楽活動を行う。2004年にアルバム『夢みる機械』を発表。当時、プロデューサーに財津和夫がいたが、歌手として認められることはなかった[1]。 2005年に佐藤研二、坂本弘道、三木黄太からなるチェロユニット「COTUCOTU」を迎えて、「頭の中と世界の結婚」をビクターエンタテインメントより発表。 2006年11月、エッセイ『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』をヒヨコ舎より出版。自身のブログ「純粋悲性批判」(2003年8月29日夜明け前から2006年8月29日誕生日の夜まで)をまとめたもの。若島正が2006年のベストに挙げて高く評価。 2007年7月、処女作である『わたくし率 イン 歯ー、または世界』が講談社より刊行される。 2008年1月16日、『乳と卵』で第138回芥川龍之介賞受賞[2]。『文藝春秋』2008年3月号のインタビューでは春から聴講生として日本大学に通うと語った。4月に発売された『文藝』2008年夏季号にて中原昌也と「リリカルな瞬間は誰とも分かち合えないけれど…」と題した対談。 法政大学教授で文芸評論家の田中和生は2010年11月の自身のブログにおいて、『わたくし率 イン 歯ー、または世界』が津原泰水の『黄昏抜歯』のアイデアを盗用しているという津原からの指摘に対して川上が十分に対応していないという理由で、以後の自らの文芸時評の対象から川上を外すと宣言している[3]。 2011年11月26日、第1回日本大学プレミアムカレッジとして、大垣日大高コミュニティーホールにて「あのとき言葉はどう光ったか」と題した講演を行う。 2015年11月28日と29日、福島県郡山市で開催された文学講座「ただようまなびや

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KISS IN THE SKY – Wikipedia

『KISS IN THE SKY』(キス・イン・ザ・スカイ)は、日本の歌手、MISIAの4作目のアルバムである。2002年9月26日発売。 移籍後初のアルバム。コピーコントロールCD仕様。 B’zの松本孝弘が「恋唄」と「Don’t stop music!」の2曲を楽曲提供し、ギターを演奏している。これは、以前から松本を尊敬していたMISIAが、松本のソロ・アルバム『西辺来龍 DRAGON FROM THE WEST』と『華』を聴いたのをきっかけにオファーをし、共演が実現した。提供されたメロディに歌を入れたデモテープを松本に送ったら、「このコラボレイトは大成功だと感じました」というメールを松本から頂いたという。 「Don’t stop music!」は、JAPAN FM LEAGUEのキャンペーンソングに起用された。 「飛び方を忘れた小さな鳥」は、エニックスのゲームソフト「スターオーシャン Till the

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日本とインドネシアの関係 – Wikipedia

日本とインドネシアの関係(インドネシア語: Hubungan Indonesia dengan Jepang、英語: Indonesia–Japan relations)は、第二次世界大戦後、歴史的、経済的、政治的つながりは特に緊密なものに成長した。日本はインドネシアの最大輸出相手国であり、また、国際協力機構(JICA)を通じて、インドネシアへの開発援助の主要な供与国である。 日本にとって、インドネシアは液化天然ガスなどの天然資源の死活的に重要な供給国である。両国はともにG20とAPECの加盟国である。 今日、インドネシアで働く日本人は11000人にのぼる一方、日本では約24000人のインドネシア人が働いたり訓練を受けたりしている。 インドネシアは東京に大使館を、大阪に領事館を設置している。日本はジャカルタに大使館を、メダン、デンパサール、スラバヤに総領事館を、マカッサルに領事事務所を設けている。 両国の比較[編集] 植民地時代の関係[編集] 「アジアの光ニッポン、アジアの守りニッポン、アジアの指導者ニッポン」を主張する3A運動のポスター(1942年) 日本軍によって訓練を受けるインドネシア独立派の若者 17世紀初頭、オランダ領東インド(現在のインドネシア)に初めての日本人の移住者が住み着いていたことが記録されている。 より大きな波は17世紀に到来し、朱印船は東南アジアで交易を開始した。また1764年から、日本人漂流民の孫太郎がボルネオ島南部のバンジャルマシンで中国系インドネシア人(英語版、中国語版)の下男として暮らし、1771年にオランダ船で日本に帰国している[24]。 明治維新ののち、1898年のオランダ領東インドの植民地の記録には、614人の日本人が住んでいたという記録がある(男166人、女448人)[25]。1909年、日本人の人口が増えたため、日本はバタビアに領事館を設置したが、最初の数年間の人口統計はむしろいい加減なものだった[26]。1920年代、沖縄の漁師が北スラウェシに定住し始めた。マナドには日本人のための小学校があり、1939年には18人の生徒がいた[27]。1938年、合計で6349人の日本人がインドネシアに住んでいた[28]。 第二次世界大戦[編集] 1942年、大日本帝国は東南アジアに侵攻した。日本はオランダ軍を破り、現地のジャワ人の預言者(en:List of

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電気設備の技術基準の解釈 – Wikipedia

電気設備の技術基準の解釈(でんきせつびのぎじゅつきじゅんのかいしゃく)は、かつては原子力安全・保安院電力安全課により作成され、その後経済産業省産業保安グループ電力安全課により作成される、電気設備に関する技術基準を定める省令に定める技術的要件を満たすものと認められる技術的内容をできるだけ具体的に示したもの。 電気事業法に基づく経済産業大臣の処分に係る審査基準等についてにおいて、電気事業法に基づく経済産業大臣の処分についての行政手続法に基づく審査基準または不利益処分の基準の一部をなすものとして引用されている。 平成9年3月に『電気設備に関する技術基準を定める省令』が全面改正され、機能性基準化されたのに伴い、具体的な判断基準として、旧省令、告示の内容をふまえて、平成9年5月に制定、公表された。 その後、2011年(平成23年)7月に大規模に改正[1]された後、原子力安全・保安院の廃止に伴い、2013年3月14日に廃止の上、経済産業省商務流通保安グループ電力安全課より改めて制定、公表された[2]。条文は経済産業省の産業保安のページ告示等改正リストに掲載されている。 解説書等[編集] 『電気設備の技術基準の解釈』の条文ごとの制定根拠等を解説したものとして、経済産業省Webサイトの 産業保安のページに、(参考)として『電気設備の技術基準の解釈の解説』(平成28年9月23日改正)が公開されている。 また一般刊行された書籍としては、制定者自身による『電気設備の技術基準 (省令及び解釈) の解説 : 全条文の逐条解説書 平成23年版』、経済産業省商務流通保安グループ編 (初版) ISBN 9784889482409)[3]がある。 新解釈制定後の改正内容[編集] 2013年(平成25年)3月14日制定[4]  小出力発電設備だけではなく、使用電圧が低圧の太陽電池モジュールについても、第16条第5項二号の規定を適用可能とした。第16条第6項第五号を追加し、同条同項第一号の規定だけではなく、JEC-2470(2005)による絶縁耐力試験及び常規対地電圧の印加試験による確認方法も追加した。 2013年(平成25年)5月20日改正[5]  JIS規格改正への対応(第163条「バスダクト工事」等)、金属製水道管を利用した接地工事の改正(第18条、第19条)。 2013年(平成25年)5月31日改正[6]  第228条【高圧連係時の施設要件】の緩和。 2013年(平成25年)10月7日改正[7]  第46条ただし書きの取扱者以外のものが近寄れないよう措置した場所に設置する太陽電池発電設備用直流ケーブルの制限サイズの拡大。

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奈良県立御所工業高等学校 – Wikipedia

奈良県立御所工業高等学校(ならけんりつ ごせこうぎょうこうとうがっこう、英: Nara Prefectural Gose Technical High School)は、奈良県御所市にあった公立工業高等学校。 奈良県の高校再編により、2007年(平成19年)に奈良県立御所東高等学校と合併し奈良県立御所実業高等学校が新設された。同時に御所工業高校としての募集を停止し、経過措置として在校生(2006年(平成18年)4月入学生)の卒業まで存続され、2009年(平成21年)3月に閉校した。 歴史 1899年(明治32年)創立の「奈良県染色講習所」を前身とする。その後工業学校を経て、1948年(昭和23年)4月の学制改革により、新制工業高等学校「奈良県立御所工業高等学校」となった。その後、「奈良県立御所高等学校工業課程」、「奈良県立御所実業高等学校」(初代)を経て、1958年(昭和33年)に農業課程が分離し、再び「奈良県立御所工業高等学校」となった。2007年(平成19年)にはかつての農業課程を前身とする奈良県立御所東高等学校との統合により、「奈良県立御所実業高等学校」(二代目)が新設されたため、御所工業高校としての募集を停止し、2009年(平成21年)3月に110年の歴史に幕を下ろして閉校した。 設置課程・学科 全日制課程 4学科 校訓 「誠実・剛健・創造」 前史 旧制・工業学校時代 1899年(明治32年)10月1日 –

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