Month: January 2018

秋雨 – Wikipedia

「秋雨前線」はこの項目へ転送されています。前線の種類については「停滞前線」をご覧ください。 秋雨前線の雲を捉えた衛星画像。前線は九州南岸から本州はるか南の小笠原諸島付近まで延びている。2008年9月29日(PD NASA) 秋雨(あきさめ)とは、日本において8月後半頃から10月頃にかけて(地域によって時期に差がある)降る長雨[1]のこと。秋の長雨、秋霖(しゅうりん)、薄(すすき)梅雨ともいう。 原因とメカニズム[編集] 季節が、夏から秋に移り変わる際、真夏の間本州一帯に猛暑をもたらした太平洋高気圧が南へ退き、大陸の冷たい高気圧が日本海や北日本方面に張り出す。この性質の違う2つの空気がぶつかる所は大気の状態が不安定になり、秋雨前線が発生する。梅雨前線と同じく、前線を挟んで夏の空気と秋の空気とが押し合いをしているため、前線は日本上空を南下したり北上したりする、こうして長雨が続く。 秋雨の原因となる高気圧は主に4つある。1つ目はシベリア高気圧と呼ばれる高気圧である。シベリア高気圧は冷たく乾燥したシベリア気団から構成されていて、高気圧から吹き出される風も冷たく乾燥している。2つ目は秋特有の移動性高気圧と呼ばれる高気圧である。移動性高気圧はやや温かく乾燥した揚子江気団から構成される。3つ目は太平洋高気圧で、温かく湿った小笠原気団から構成される。4つ目はオホーツク海高気圧と呼ばれる高気圧である。オホーツク海高気圧は冷たく湿ったオホーツク海気団から構成される。 梅雨から秋雨への移行[編集] オホーツク海気団と小笠原気団のせめぎ合う中で北上する梅雨前線は、平年で8月前半頃には中国の華北地方〜朝鮮半島北部〜北海道付近にまで達し、勢力が弱まって次第に消滅する。そして日本付近は小笠原気団からなる太平洋高気圧、中国大陸は揚子江気団からなる停滞性の高気圧に覆われ、東アジアのほぼ全域で本格的な夏が続く。 一方8月前半頃には、偏西風の強い部分(ジェット気流)が中国北部付近からオホーツク海付近にかけての地域に北上し、流れも弱くなる。しかし、8月後半頃になると、次第に偏西風が南下を始め、秋の空気もそれに伴って南下してくるようになる。 8月後半頃になると、太平洋高気圧が日本列島から離れたり近づいたりを繰り返すようになる。また、夏の間周りよりも相対的に気圧が低かった大陸の気圧が上がり始め、移動性高気圧やシベリア高気圧が勢いを増してくる。太平洋高気圧が離れたときには、そこに偏西風が入り込んで移動性高気圧と低気圧が交互にやってきて、晴れと雨が繰り返すような天気が訪れるようになる。このような天気が次第に増え始め、晴れ続きの夏の天気の間に雨がやってくるようになる。 これが秋雨の始まりである。8月後半頃から9月頃にかけて、北日本から順に寒冷前線が南下・東進するようになる。このような天気を経て、次第に低気圧とともに前線が発生し、停滞するようになる。 秋雨前線の南下から消滅まで[編集] 8月後半頃から9月頃にかけて、北日本から順に寒冷前線が停滞前線に変わり、停滞するようになる。停滞する期間は長くて数日間で、あまり長続きはしない。天気は周期的に変わることもあるが、全国的にぐずついた天気が多くなる。 10月前半頃になると、太平洋高気圧は日本の南に完全に後退し、秋雨前線の停滞は主に本州の南となる。9月後半頃以降、北日本から順に偏西風が上空に南下してくるので、ジェット気流が高気圧や低気圧を押し流すことで天気が移り変わりやすくなり、太平洋側では晴れが増えてくるが、日本海側では低気圧通過後、一時的に西高東低になるために冬に比べると短期間であるが時雨やすくなる。 10月後半頃になると、秋雨前線は日本の南にまで南下し、途切れ途切れになって弱まり、やがて消滅する。 このころには、日本列島付近を移動性高気圧と低気圧が交互に通過し、乾燥した晴れ→雨→西高東低(日本海側は時雨、太平洋側は乾燥した晴れ)→乾燥した晴れが短期間で移る典型的な秋の天気となる。 秋雨の経過とその特徴[編集] 東北地方の太平洋側に位置する仙台市の雨温図。梅雨に当たる6・7月の雨量は少なく、秋雨に当たる8・9月の雨量が多い。 九州北部に位置する福岡市の雨温図。梅雨にあたる6・7月の雨量が多く、秋雨に当たる9・10月の雨量が少ない。

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ローエングリン – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ローエングリン” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年9月) 『ローエングリン』(独: Lohengrin)は、リヒャルト・ワーグナーのオペラ。台本も作曲者によるもので、ローエングリンの伝説に基づき、10世紀前半のアントウェルペンを舞台とする。以降に作曲された楽劇(Musikdrama)に対し、ロマンティック・オペラと呼ばれる最後の作品である。第1幕、第3幕への各前奏曲や『婚礼の合唱』(結婚行進曲)など、独立して演奏される曲も人気の高いものが多い。 作曲及び初演の経緯[編集] ワーグナーの自伝『わが生涯』によれば、1839年から1842年にかけてワーグナーはパリに滞在し、クリスティアン・ルーカス(Ch. Th. L. Lucas)の編集した、1838年出版の『ヴァルトブルクの歌合戦』(Wartburgkrieg)に触れて歌劇『タンホイザー』の着想を得る[1]。このとき、論文の続きにローエングリンにまつわる叙事詩についての説明があり、これを読んだことが発端とされる。 1843年、ヨハン・ヴィルヘルム・ヴォルフが編纂した『オランダ伝説集』が出版される。このなかにコンラート・フォン・ヴュルツブルクによる『白鳥の騎士』[2]が含まれており、ワーグナーはこれを読んだと考えられている。また、ルートヴィヒ・ベヒシュタインのメルヘン集に「白鳥にされた子供たちの物語」[3]があり、このモチーフもワーグナーは利用することになる。 1845年6月、マリーエンバートに温泉治療のために滞在中、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの叙事詩『パルチヴァール』やアルブレヒトの『新ティトゥレル』[4]の翻訳・再話、作者不明の叙事詩『ローエングリン』[5]に付せられたヨーゼフ・ゲレスの長大な序文(100頁近い「論文」)などを読んで、歌劇の構想を固める[6]。同時に、これらの知識は後の楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』や『パルジファル』の基盤ともなった。また、ヤーコプ・グリム『慣習法令集』や同『ドイツ伝説集』から、オルトルート像を創造したとされる。 1845年8月、台本の散文スケッチ完成。このときのスケッチには、第3幕でゴットフリートの姿に戻る白鳥の歌も書かれていたが、後にこれは取り消される。 1845年11月、前作『タンホイザー』のドレスデン初演。この直後に『ローエングリン』台本も完成する。同月、ワーグナーは友人たちを集めて『ローエングリン』の台本朗読会を開く。このとき同席した友人には、建築家のゴットフリート・ゼンパー、ピアニストのフェルディナント・ヒラー、作曲家のロベルト・シューマンらがいた。朗読は友人たちに感銘を与え、シューマンは、この台本が従来の番号付きオペラでは収まらないことを理解したという。

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鈴木おさむ – Wikipedia

この項目では、放送作家の鈴木おさむについて説明しています。同音異字の名前「鈴木修」の人物については「鈴木修」をご覧ください。 鈴木 おさむ(すずき おさむ、1972年4月25日 – )は、日本の放送作家、実業家。株式会社BSフジ番組審議会委員。 脚本家・作詞家・ラジオパーソナリティ・タレント・映画監督としても活動している。本名、鈴木 収(読み同じ)。ペンネームはすますま・すずき。 千葉県安房郡千倉町出身(現・南房総市)。スマイルカンパニー所属。妻は大島美幸[1]。 千葉県安房郡千倉町(現・南房総市)生まれ。千葉県立安房高等学校卒業、明治学院大学経済学部中退(2年次)[2]。 『夢で逢えたら』(フジテレビ)を見て、放送作家を志す。太田プロダクションの芸人採用オーディションを受け、審査員の1人として参加していた放送作家の前田昌平の目に留まり前田に師事する。前田からは「芸人さんの気持ちが分からないとダメだから、お前、オーディションを受けて、ライブに出てみろ」と言われ、太田プロのライブに参加していた。事務所のネタ見せ時には、土田晃之と同じオーディションを受けていた。 当時結成直後で無名のよゐこのライブが初仕事。『つんくタウン』(フジテレビ)の映画『まぐろのしっぽ おさむ大作戦』プロデューサ・総指揮・製作。テレビ・ラジオ番組から、舞台、映画の脚本・脚色、作詞まで手がける放送作家である。 以前は表舞台に出る機会は少なかったが近年は夫婦でテレビ、CM等での露出の機会が増えタレント活動も行っている。 SMAP・キャイ〜ン・ココリコなど複数の芸能人のブレーンとしてだけではなく、脚本家としても数々のヒット作を手掛ける。フジテレビでは荒井昭博と組み、様々な企画・コントを生み出している。 『めちゃ²イケてるッ』(フジテレビ)では『SMAP×SMAP』(フジテレビ)に力を入れすぎていると弄られて以降、すますま・すずきというペンネームを使用している。 2002年(平成14年)元日放送『第65回欽ちゃん&香取慎吾の新!仮装大賞』(日本テレビ)に草彅剛扮する「池の鯉」にエサをやる人の役で出演。香取慎吾の妨害にもめげず見事、20点満点を獲得。 2002年(平成14年)10月に「交際0日」で結婚した[3]妻・大島美幸との馴れ初めを描いた著書『ブスの瞳に恋してる』を出版。2006年4月から、稲垣吾郎と村上知子の主演でドラマ化された。 2012年(平成14年)9月3日、ちゃんこ屋鈴木ちゃんを開店(その後、2018年4月30日に閉店)。 2015年(平成27年)7月6日、自身のブログで育休(本人曰く父勉)のため一部を除き1年間休業することを発表した[4](そのため一時はすますま・すずき名義で担当していた『めちゃ×2イケてるッ』以外の全ての担当番組を一時的に降板していた)。

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コダック – Wikipedia

イーストマン・コダック(英: Eastman Kodak Company)は、アメリカ合衆国に本拠を置く、かつて世界最大の写真用品(カメラ、レンズ、写真フィルム、印画紙、処理剤)メーカーであり、現在は商業印刷の大手である[2]。一般的にはコダックの略称で知られている。 世界で初めてロールフィルムおよびカラーフィルムを発売したメーカーである。また、世界で初めてデジタルカメラを開発したメーカーでもある。写真関連製品の分野で高い市場占有率を占めることで知られていたほか、映画用フィルム、デジタル画像機器などの事業も行っていた。 カメラも、小型mmカメラ、中判カメラの設計製造、カメラ用レンズや眼鏡レンズ等の光学機器の設計製造も手掛け、35mm小型カメラの“コダックレチナ”、小型35mmでレンズ交換が可能な他、フィルムマガジンの交換も出来る高級機種の“コダックエクトラ”、中判機種では中型カメラの“コダックメダリスト”等の高級機種の製造発売がされ、自社製品のレンズが添えられていた。 カメラ用のレンズは、“コダック・エクターレンズ”、“コダック・コマーシャルエクターレンズ”の名称で、小型mmカメラ用レンズ、中型機種の中判カメラ用レンズ、大型機種の大判カメラ用レンズがそれぞれに発売され、自社製品のカメラ以外のメーカーが発売するカメラ用のレンズを供給し、フィールドカメラやビューカメラ用の中版カメラ用や大版カメラ用のレンズが発売された。 コダックのカメラ[編集] イーストマン・コダック社が発売したカメラの一部を、例として取り上げる。 35mm小型カメラ[編集] 35mm小型カメラの蛇腹付きの折り畳みカメラが、コダック・レチナの名称で発売された。自社製品のレンズである、コダック・エクターレンズが取り付けられていた。 コダック・エクトラ.小型の35mmカメラで、レンズ交換以外に、フィルムマガジンの交換も可能な高級機種である。複数の焦点距離を持つ、レンズが用意されていた。レンズはコダック・エクターレンズである。 中型カメラ[編集] 中判の画面を撮影出来る中型カメラには、コダック・エクターレンズが固定された、距離計連動レンジファインダーカメラの、Kodak Medalist Cameraが発売された。フィルムのサイズは120ブローニーフィルムと、同じ幅であるのだが、フィルムの巻き取りスプールが、薄い金属製で出来ていた620フィルムのサイズで造られているので、2020年現在発売されている120ブローニーフィルムは、スプールを620の物に巻換えて使うか、カメラのフィルムセット位置を削って、120ブローニーフィルムが入れられる様にして、使わなければならない。使用されている、コダック・エクターレンズが優秀なレンズであるので、使っている人も居る。 コダックのレンズ[編集] イーストマン・コダック社は自社製品のカメラに取り付ける物の他に、他社製品のカメラへのレンズ供給も行っていた。他に、どんな組み合わせでも、好みに合わせられるフィールドカメラや、ビューカメラで使用するレンズを作製しており、レンズ専門の光学機器メーカーが発売しているレンズと競って来ており、優秀なレンズが発売された。 中版カメラのハッセルブラッドカメラ1600F,1000F用にコダック・エクター80mm F2.8、コダック・エクター135mm

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