Month: May 2018

ウォード=高橋恒等式 – Wikipedia

原文と比べた結果、この記事には多数(少なくとも5個以上)の誤訳があることが判明しています。情報の利用には注意してください。正確な表現に改訳できる方を求めています。 場の量子論において、分配関数の間のウォード=高橋恒等式(Ward–Takahashi identity)は、理論の大域的対称性や局所的対称性から従い、繰り込みの後でも有効となる等式である。 量子電磁力学のウォード=高橋恒等式は、元々はジョン・クリーヴ・ウォード(英語版)(John Clive Ward)と高橋康(Yasushi Takahashi)により電子の波動函数繰り込み(英語版)(wave function renormalization)と形状因子 F1(0) とを関係づけるために使われ、摂動論のすべての次数において紫外発散(英語版)(ultraviolet divergence)が相殺することを保証する。その後、摂動論の全ての次数におけるゴールドストーンの定理の証明の拡張などにも用いられた。 より一般にはウォード=高橋恒等式は、古典論においてネーターの定理により連続対称性からカレントの保存則が従うことの量子論におけるバージョンである。場の量子論ではそのような対称性は(ほとんど)常にこのように一般化されたウォード=高橋恒等式を意味し、量子振幅のレベルでの対称性を課す。ここで一般化されたウォード=高橋恒等式と呼んでいるものと本来のウォード=高橋恒等式とは、例えば、ミカエル・ペスキン(英語版)(Michael Peskin)とダニエル・シュレーダー(英語版)(Daniel Schroeder)の教科書 An Introduction to Quantum Field

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米倉氏 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “米倉氏” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2009年4月) 米倉氏(よねくらし) 武田氏の一族の米倉氏[編集] 米倉氏(よねくらし)は、清和源氏・甲斐源氏の一族。平安時代後期に甲斐国八代郡小石和筋米倉村[注釈 1]の地へ土着し、米倉氏を称する。支族に石橋氏がある。 出自[編集] 武田系図によれば、「奈胡十郎蔵人義行-義継-信継(米倉)」とある。奈胡義行は源清光(逸見清光)の子である。代々甲斐源氏の一族甘利氏に仕え、米倉の地から宮脇へ移住したという。 戦国期に米倉忠継は武川衆の隊長となり、『甲陽軍鑑』によれば重継(丹後守)は信濃侵攻において甘利氏の旗下で活躍し、足軽大将になったという。重継は天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて戦死する。 武田氏の滅亡後は成瀬正一の庇護を受け、徳川家康に仕えた。永時(清継)は徳川氏の関東入封に従い、大住郡(現秦野市)堀山下に2百石を与えられた(『寛政重修諸家譜』)。『風土記稿』同村の条には「領主米倉氏屋敷跡」が記されている。同地の蔵林寺は昌尹が先祖供養のため本堂庫裏を建立して中興した寺と伝え、初代から15代までの当主一族の墓石20基があり、昌純と昌尹が埋葬されている。 江戸時代中期に取り立てられ、武蔵国六浦(金沢)1万2千石の譜代大名となり、明治時代には子爵となった。 歴代当主[編集] *米倉政継の代までは「継」(つぐ)の字が、政継が昌純に改名して後は一時期を除き「昌」(まさ)の字が通字として用いられた。昌純の子・米倉昌尹の代からは近世大名として諸侯に列する。

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倉澤清忠 – Wikipedia

倉澤 清忠(くらさわ きよただ、1917年 – 2003年10月29日)は、東京都出身[1]の大日本帝国陸軍軍人。第一東京市立中学校(のちの東京都立九段高等学校)卒業[2]、陸軍士官学校航空分校50期卒業、最終階級は陸軍少佐。鉾田陸軍飛行学校研究部や第6航空軍で特別攻撃隊に携わった。 1934年 4月 陸軍士官学校入学[2]。 1935年 10月 士官学校予科を修了して本科に行く前に立川の飛行第5連隊に仮入隊[2]。 1938年 6月29日 陸軍士官学校航空分校50期卒業。少尉任官し、航空将校となる。 6月30日 飛行第5連隊付 11月 飛行第65戦隊付 12月 中尉に昇進。

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イリジウム192 – Wikipedia

イリジウム192(Iridium-192、192Ir)は、半減期73.83日[1]のイリジウムの放射性同位体であり、β(ベータ)線とγ(ガンマ)線を放出して崩壊する。192Irの約96%がβ線とγ線の放出によって崩壊し、192Ptに変化する。β粒子の一部は他の192Irの原子核に捕獲され、192Osに変換される。この電子捕獲は192Irの残りの4%の崩壊に関与している[2]。 イリジウム192は通常、天然に存在するイリジウム金属の中性子放射化によって生成される[3]。 イリジウム-192は非常に強いγ線を放出し、距離30cmでのγ線の線量定数は約1.54μSv・h-1・MBq-1、比放射能は341TBq・g-1(9.22kCi・g-1)である[4][5]。 崩壊過程では0.2強~0.6MeVの間に主な7段階のエネルギー準位が観察される。 イリジウム192は、金属部品の欠陥を見つけるための工業用X線撮影におけるガンマ線源として一般的に使用されている[6]。 また医学においては、放射線治療、特に小線源治療における放射線源としても使用されている。 イリジウム192は汚い爆弾の原料ともされ、米国原子力規制委員会が追跡している、爆弾作成に充分な量の放射性物質が行方不明となったケースの多くを占めている[7]。 1971年には千葉県千葉市で非破壊検査用のイリジウム192が作業員の不手際により身元不明線源となり、知らずに拾得・接触した6人が被曝する事故が発生した[8]。 関連項目[編集] 参考資料[編集] ^ “Radioisotope Brief: Iridium-192 (Ir-192)”. 2012年3月20日閲覧。 ^ Braggerly, L. L.

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小山唯史 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年4月) 小山 唯史(こやま ただし、1948年1月5日[1] – )は、日本のジャーナリスト、評論家。総合月刊誌、週刊誌等を中心に政治、企業から各種社会問題、スポーツ、医療、人物論、インタビュー等で署名記事を発表している[2][3]。 目次 1 経歴・人物 2 著書(共著) 3 主な雑誌記事 4 脚注 5 文献 経歴・人物[編集] 千葉県出身[1]。東京都立墨田川高等学校[4]・早稲田大学 政経学部卒業[2][3]。

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中枢性免疫寛容 – Wikipedia

中枢性免疫寛容(ちゅうすうせいめんえきかんよう、英: central tolerance)は、自己に反応する発達中のTリンパ球やBリンパ球を排除するプロセスで、ネガティブセレクション(負の選択)とも呼ばれる[1]。寛容とは、自己反応性のリンパ球を排除することで、免疫系が自己ペプチドを攻撃しないよう保証することである[2]。リンパ球の成熟(および中枢性免疫寛容)は、骨髄や胸腺などの一次リンパ器官で起こる。哺乳類では、B細胞は骨髄で成熟し、T細胞は胸腺で成熟する[1]。 中枢性免疫寛容は完全ではないため、末梢性免疫寛容(英語版)が、T細胞やB細胞が一次リンパ器官を離れた後に自己反応を起こさないようにするため、二次機構として存在する[3]。末梢性免疫寛容は、中枢性免疫寛容とは異なり、発達中の免疫細胞が一次リンパ系器官(胸腺や骨髄)から出て、末梢に運ばれる前に起こるものである[1]。 中枢性免疫寛容の機能[編集] 中枢性免疫寛容は、成熟したB細胞やT細胞が自己抗原を外来微生物として認識しないようにするため、免疫細胞が正常に機能するのに不可欠である[2]。より具体的には、T細胞受容体(TCR)やB細胞受容体(BCR)は、ランダムな体細胞組換えによって細胞内で作られるため、中枢性免疫寛容が必要となる[1]。V(D)J組換えと呼ばれるこのプロセスは、受容体の多様性を高め、B細胞やT細胞が新規抗原に対する受容体を持つ見込みを高めるために重要である[1]。接合部多様性(英語版)は組換えの際に発生し、BCRやTCRの多様性をさらに高める役割を果たしている[1]。ランダムなTCRやBCRの生成は、その高い突然変異率から、微生物に対する重要な防御手段となっている[1]。このプロセスは、種の存続にも重要な役割を果たしている。なぜなら、種の中でさまざまな受容体の再編成が行われ、少なくとも1つの種のメンバーが新規抗原の受容体を持つ可能性が非常に高まるからである[1]。 体細胞組換えプロセスは、免疫防御を成功させるために不可欠であるが、これは自己反応性につながる可能性がある。たとえば、体細胞の組換えに必要な酵素である機能的なRAG1/2(英語版)の欠如は、患者の血球に対して抗体が作られる免疫性血球減少症の発症に関連している[4]。ランダムな受容体組換えの性質により、自己抗原を外来性として認識するいくつかのBCRやTCRが生成される[2]。これらのB細胞やT細胞が活性化された場合、中枢性免疫寛容メカニズムによって死滅したり不活性化されたりしない限り、自己に対する免疫系攻撃を開始するために問題がある[2]。そのため、中枢性免疫寛容がなければ、免疫系が自己を攻撃してしまい、それは持続性を欠くもので自己免疫疾患を起こす可能性がある[2][3]。 中枢性免疫寛容の機構[編集] 寛容の最終結果は、自己抗原に反応しないが、ランダムに配置された受容体に基づいて外来の非自己抗原を認識できるような、リンパ球の集団の形成である[2]。重要なのは、リンパ球は骨髄(B細胞)と胸腺(T細胞)に存在する抗原に対してのみ寛容を獲得できることである。 この図は、骨髄におけるB細胞セレクションの過程を示している。 B細胞寛容[編集] 骨髄中の未成熟B細胞は、自己ペプチドと結合するとネガティブセレクションを受ける[2]。 正常に機能するB細胞受容体は、非自己抗原または病原体関連分子タンパク質(PAMP)を認識する[1]。 BCRの自己反応性に関する主な結果[1][2] アポトーシス(クローン欠失(英語版)) 受容体編集(英語版):自己反応性B細胞は、遺伝子を再配列することで特異性を変化させ、自己に反応しない新しいBCRを発達させる。このプロセスにより、B細胞は、アポトーシスまたはアネルギーになるようシグナルを受ける前に、BCRを編集する機会を得られる。 アネルギーの誘導(非反応性の状態) この図は、T細胞のポジティブセレクションのプロセスを示している。 T細胞寛容[編集] T細胞の中枢性免疫寛容は胸腺で起こる[1]。T細胞はポジティブセレクション(正の選択)とネガティブセレクション(負の選択)を受ける[2]。

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藤井康子 – Wikipedia

藤井康子 選手情報 フルネーム 藤井康子 国籍 日本 泳法 バタフライ・個人メドレー 所属 山田スイミングクラブ 生年月日 1950年7月26日 身長 165cm 体重 56kg 獲得メダル 競泳女子 日本 アジア競技大会

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大阪ニセ夜間金庫事件 – Wikipedia

大阪ニセ夜間金庫事件(おおさかニセやかんきんこじけん)は、1973年に起きた窃盗未遂事件。 1973年2月25日、大阪市北区梅田の三和銀行(現三菱UFJ銀行)阪急梅田北支店の夜間金庫に客が現金を投入したところ、金庫の表面が膨れあがり、不審に思った客が警備員に連絡。駆けつけた警備員と銀行職員が調べ、すぐにニセの夜間金庫と判明。近くにある本物の夜間金庫には、 御利用の御客様へ 鍵の折損事故に因り投入口開閉不能となりましたので、 誠に御足労ですが当銀行専用通用口の仮金庫迄御廻り下さい。 との、ニセの夜間金庫に客を誘導するために故障の張り紙がされていた。 ニセの夜間金庫はベニヤ板製で、客の投入した現金(2,576万円)でいっぱいになり割れてしまっていたが、外観はステンレスで装飾するなど一見ニセモノだとはわからない造りになっていた。ニセの金庫の材料入手先などから窃盗未遂罪容疑での犯人検挙へ向け捜査されたが、1980年に時効が成立した[1]。 犯人の犯行のアイデアとユーモアを感じさせる失敗から当時称賛され[2]、何度かテレビドラマ化された。 大丸デパート恐喝未遂事件[編集] 関連する事件として、1973年5月に大阪市の大丸デパートを恐喝した事件がある。この事件で使用したベニヤ板が同じ一枚の板を切ったものだったことが大阪府警科学捜査研究所の鑑定で判明したことから、犯人は大阪ニセ夜間金庫事件と同一人物であると見られている。 1973年5月1日に大丸デパートに3000万円を要求する脅迫状が到着。その脅迫状には5月4日にそごうデパートで小さな事件が起こると予告されており、実際にそごうデパートで新聞紙でマットに放火する事件が発生した。大丸デパート側は警察に届け出るとともに、脅迫状の指示に従って、社員に3000万円を運ばせることにした。社員は犯人の連絡どおりに動き、最後は神戸市三宮にある地下駐車場にある乗用車のトランクに現金入りのカバンを入れたところで、犯人からの連絡が途絶えた。 警察が現金を入れることになっていた車のトランクを調べたところ、現金の運搬役がトランクの蓋をさせた後に、カバンを地面に落として、釣り糸で引っ張って手元まで運べるような細工がしてあった。このトランクの細工に使われたベニヤ板がニセ金庫のベニヤ板と木目の流れ、カンナの歯こぼれ跡が一致した。 1983年9月、埼玉銀行春日部西口支店に同様の手口でニセ金庫がしかけられた。大阪の事件と同様、それまでに投入された現金袋でいっぱいになってしまい、金融会社社長が投入しようとしたところつかえてしまった。怪しんだ社長の通報により警察が駆けつけ、ニセ金庫と判明。しかしニセ金庫の出来は大阪の事件のものと比べて数段劣る出来栄えで、明るいところであればまず騙されないであろうというようなお粗末なものであった。ただし、この事件も未解決である[2]。 1986年9月、三和銀行麻布支店にもニセ金庫が出現した。焼肉店店主が、本来の金庫の『故障中』と書かれた札を無視して投入したところ正常に動作したため、いぶかしんで警察に通報、ニセ金庫と判明した。この事件も未解決である。 1995年12月、福島県川俣町の東邦銀行川俣支店に本店と支店の連絡用メールボックスに郵便受けに入れるよう指示する紙が貼られ、連絡業者が投入した780万円相当の小切手が盗まれた[3]。 2006年7月には、みずほ銀行銀座支店前に同様のニセ夜間金庫が置かれる事件があったが、こちらは犯人が自首し、解決している[4]。他の模倣犯と異なり、これまでのニセ金庫事件がいずれも木製だったために失敗していることから、金属製とした。たまたま警備員が巡回して発見したため未遂に終わった。 ^ <あのころ>偽金庫に現金投入させる 2500万円あわや2020年2月25日 共同通信社 ^ a

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おとろし – Wikipedia

『化物づくし』の「おどろおどろ」(作者不詳)[1] おとろしは、佐脇嵩之の『百怪図巻』などの妖怪絵巻や、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』(1776年)にある日本の妖怪[2]。 江戸時代の『百怪図巻』(1737年,佐脇嵩之)、『化物づくし』(画家・制作年不明、加賀谷れい所蔵)、『化物絵巻』(画家・制作年不明、川崎市市民ミュージアム所蔵)、『百鬼夜行絵巻』(1832年,尾田郷澄、松井文庫所蔵)などの絵巻や、絵双六『十界双六』(国立国会図書館所蔵)、『画図百鬼夜行』では、長い髪におおわれ、顔に前髪をたらした姿で描かれている。いずれにも名称以外の解説文が一切なく、どのような妖怪を意図して描かれたかは不明である[1][2]。 『百怪図巻』、『化物絵巻』などの絵巻物、『十界双六』、『画図百鬼夜行』では「おとろし」、『化物づくし』では「おどろおどろ」、『百鬼夜行絵巻』では「毛一杯」(けいっぱい)の名称で描かれている[1]。 江戸時代の随筆『嬉遊笑覧』に引かれている古法眼元信が描いた「化物絵」に描かれていたとされる妖怪の中には「おとろん」の名称が確認できる[3]。 妖怪研究家・多田克己は、「おとろし」と「おどろおどろ」の名称の変化について、『化物づくし』では名前をくの字点(踊り字)を用いて「おとろ〱」と書いているため(画像参照)、これを「おとろし」と誤読したものとしている。ただし、「おどろおどろ」は「気味が悪い、恐ろしい」を意味する「おどろおどろしい」の名詞化した名であり、「おとろし」は「恐しい」の上方訛りであり、どちらの名でも意味において大差はないとしている[1]。ぼうぼうとした長髪のことを「棘髪」(おどろがみ)というが、多田や妖怪研究家・村上健司は、この意味も「おどろおどろ」の名に込められているとしている[2]。また、『百怪図巻』『画図百鬼夜行』のいずれも、おとろしを「わいら」と並べて描いており、「わい」が恐れを意味する「畏(わい)」に通じることから、「恐い(わいら)」「恐ろしい(おとろし)」を具現化した、2体で1対の妖怪とする解釈もある[4]。 絵巻物には名称以外の解説文が一切なく、それについての民間伝承を記載した書物も存在しないため、どのような伝承がされていたのかは不明である[1][2]。 昭和・平成以降の妖怪関連の文献や児童向けの妖怪図鑑でおとろしは、神社で不心得者や悪戯をする者を見つけると突然上から落ちてくると解説されている[5][6][7]。また、作家・山田野理夫は『東北怪談の旅』(1974年)に「オトロシ」と題し、福島県で一度も寺の参拝などをしたことのない不信心な者が、母の葬式に寺の門をくぐろうとしたところ、突然太い腕に捕まえられて吊し上げられたという話を収録している[8]。村上健司はこれらの解説にある内容を伝承に確認することは出来ず、石燕の『画図百鬼夜行』に描かれたおとろしの絵(鳥居の上に乗っている)から想像したことに過ぎない創作であると指摘している[2]。 秋田の伝承[編集] 妖怪画のおとろしとの関連性は不明だが、江戸時代の旅行家・菅江真澄『雪の出羽路』(1814年)には、 此さへの神坂を雲深くあるは小雨そぼふる夕ぐれなんど通れば、男は女に逢ひ女は男に往会う事あり、又ぬらりひょん、おとろし、野槌なんど百鬼夜行することありと、化物坂ともいふ人あり という坂道の話が記録されている[9]。同書で「さへの神坂」(さえのかみざか、道祖ノ神坂)は出羽国雄勝郡稲庭郷沢口村にあると記されている(現在の秋田県湯沢市稲庭町)[10]。 また、秋田県公文書館に所蔵されている秋田藩士の手によるものと考えられる肉筆本『久保田城下百物語』(作者・制作年不明)には、一つ目小僧が呼びに行く妖怪のひとつとして「長野坂檜山屋敷のおどろし」という頭部の巨大な人間のような妖怪が描かれている[11]。 ししこり[編集] 絵巻物などに見られる既存の妖怪画に詞書を添えて制作されたと考えられる妖怪絵巻『化け物尽し絵巻』(江戸時代,個人蔵・福岡県立美術館寄託)では、「おとろし」が「ししこり」(原文: しゝこり)として紹介されている(理由ははっきりしないが同絵巻は登場する全ての妖怪の名が変更されている)。詞書によれば、高さ8尺(≒1.8m)、8畳ほどの大きさで、口の広さは1丈1尺(≒3.3m)。豊前国の奈良林という村(現在の福岡県飯塚市綱分字奈良林か)に現れ、牛馬をすべてひと呑みに食ってしまった。山狩りの末、岩穴に潜んでいたところを竹槍でしとめられたという[12]。 参考文献[編集]

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