樅型駆逐艦(もみがたくちくかん)は、大日本帝国海軍の2等駆逐艦、同型艦21隻[1]。 大正6年度(1917年)成立の八四艦隊完成案により計画された中型駆逐艦[14](2等駆逐艦)。この案では18隻が建造され[14]、続く大正7年度(1918年)成立の八六艦隊完成案で2等駆逐艦が16隻計画され[15]、そのうち3隻が本型で残りは若竹型に移行した[16]。 本型から1918年から建造が始まり、翌1919年末から1922年にかけて竣工した[17]。藤永田造船所と石川島造船所が新たに駆逐艦建造に参加している[18]。 設計は峯風型一等駆逐艦と平行して行われ、わずかに先行していた[19]。峯風型の小型版という形で[20]、船体形状などが峯風型と似ている[19]。兵装は峯風型と比べて主砲が1門、魚雷発射管が1基(2門)少なく、また機関出力が小さくなって[21]計画速力36ノット(峯風型は39ノット)としている[3]。 桃型や楢型では凌波性が不十分で、本型は峯風型と同じ艦橋前にウェルデッキを設けた形になった[19]。主砲3門は全て上甲板より1段上にあり、波の高い場合でも使用可能となった[19]。また、二等駆逐艦で初めて53cm魚雷を搭載した[19]。 3基のボイラーは全て重油専焼になった[19]。石炭燃焼艦では濃い煤煙によって発見される可能性が高くなり、重油専焼の方が夜戦などで有利だった[22]。タービンは二等駆逐艦で初めてオールギアードタービンを搭載した[19]。計画常備排水量は楢型と同じ850トン(英トン、以下同様)だったが、出力が21,500馬力(楢型は17,500馬力[6])となって計画速力は36ノット(楢型31.5ノット[6])に増大した[19]。 基本計画番号は「樅」など8隻がF37、「菊」など5隻がF37A、「蔦」など8隻がF37B[23]。 計画排水量は850トンだったが、実際には45トンほど超過していた[24]。(後期の艦ほど改正で排水量が増した、とする文献もある[18]。)排水量の増加は速力に影響があり[24]、例えば1920年(大正9年)3月、佐多岬沖で実施された楡の公試成績では排水量893トン、軸馬力23,165shpにおいて速力34.35ノットを記録している[25]。また、舵を切ったときに傾斜が大きく、復元力を増す必要もあった[26]。次型の若竹型(基本計画番号F37C[27])では排水量を900トンにするなど、これらの点が計画から盛り込まれることになった[28]。 主機械[編集] タービン形式については、最初の8隻のうち「樅」を初めとする4隻はブラウン・カーチス式を搭載、「楡」を初めとする4隻はジョン・ブラウンとパーソンズの設計の両方を参考に、三菱が新たに設計した高圧衝動式、低圧反動式のタービンを搭載した[29]。この背景には、日本海軍はタービン開発に熱意を持っていたが、ブラウン・カーチス式の製造権を持っていた川崎造船所は自力開発には消極的だった[29]。そこで日本海軍は三菱にその図面を渡し、新設計のタービンが作られた[29]。ブラウン・カーチス式が無事故で好成績を収めたのに対し三菱設計のタービンは故障が多く、結局、続く「菊」を初めとする7隻にはブラウン・カーチス式が搭載された[29]。また、その後に続く本型最後の6隻にはヨーロッパのタービン・メーカー各社のものを搭載し、実艦での比較実験を行った[30]。浦賀船渠製造の2隻にはキャメル・レアード社のパーソンズ式反動タービンを、藤永田造船所製造の2隻にはジョン・ブラウン社のブラウン・カーチス式を、石川島造船所製造の2隻にはエッシャーウィス社のツエリー(チェリー)式をそれぞれ搭載した[30]。キャメル・レアード社(会社のあるイギリスは第一次世界大戦の最中だった)製のタービンは外観の仕上げは粗雑ながら内部の重要部品は精巧に作られてあり、実艦搭載の運転では良い成績を収めた[30]。一方エッシャーウィス社は初めての船舶用タービンであって事故が続出する一方、その対策を行うことで日本のタービン技術向上にもなった[30]。 結局各艦に搭載されたタービンの形式と製造会社は以下の様になった[31]。 ブラウン・カーチス式 川崎造船所製 – 樅、榧、梨、竹、菊、葵、萩、薄、藤、蔦、葦 ジョン・ウラウン社製 – 蕨 ジョン・ウラウン社計画、川崎造船所製 –
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