Month: May 2018

ホワイト・アルバム (カエターノ・ヴェローゾのアルバム) – Wikipedia

『ホワイト・アルバム』(原題:Caetano Veloso)は、ブラジルのミュージシャン、カエターノ・ヴェローゾが1969年に発表した、ソロ名義では2作目のスタジオ・アルバム。 1968年12月27日、ヴェローゾと盟友ジルベルト・ジルは理由も明らかにされないまま逮捕され、2か月拘置された後、ロンドンへ亡命するまで自宅軟禁を余儀なくされた[1]。そして、亡命の直前の1969年6月、ヴェローゾとジルの2人だけで本作のベーシック・トラックが録音され、その後ホジェーリオ・ドゥプラ(ポルトガル語版)の編曲により他の楽器がオーバー・ダビングされた[2]。オリジナル曲のうち「エンプティ・ボート」と「ロスト・イン・ザ・パラダイス」の2曲は英語で作詞された[1]。 Alvaro Nederはオールミュージックにおいて5点満点中3点を付け「アルバムの全体的なトーンは、ヴェローゾや他の同胞達が経験した憂鬱な時期を終始反映している」と評している[3]。 2012年にユニバーサルミュージックから発売された日本盤SHM-CD (UICY-94809) には、シングル「アトラス・ド・トリオ・エレトリコ」のB面曲「トルノ・ア・ヘペチール」等4曲がボーナス・トラックとして追加され、2015年の再発盤(UICY-76442)も同様の仕様となっている。 特記なき楽曲はカエターノ・ヴェローゾ作。 イレーニ – “Irene” – 3:51 エンプティ・ボート – “The Empty Boat” –

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ポスト・レイシャル・アメリカ – Wikipedia

ポスト・レイシャル・アメリカ(英語: Post-racial America)とは、脱人種的なアメリカ、または人種問題を克服したアメリカのことであり、人種による優遇措置や差別や先入観が自国内から消滅した状態を仮定した理論上の世界である。 アメリカ人の中には、バラク・オバマの大統領当選や異人種間の結婚が幅広く受け入れられる事によって、国全体が上述の状態になると信じている人達が居る[1]。一方でティーパーティー運動のように、そんな事は起きていないと論じるグループを信じている人達も居る[2]。 2010年1月にピュー研究所と全米公共ラジオ(NPR/ナショナル・パブリック・ラジオ)が共同で行った世論調査では、アフリカ系アメリカ人の39%が5年前より良い状態に居ると感じており、2008年の調査と比べて19%増加した[3]。一方でテレビ・ドキュメンタリー「Fair Game」(フェア・ゲーム/格好の標的)を作った俳優・映画監督のマリオ・ヴァン・ピーブルズのように、「アメリカ合衆国が人種問題を超えた社会になった」という考えに挑戦する人も居る[4]。 前史[編集] 就任後[編集] ^ Haq, Husna. (June 4, 2010). Interracial marriage: more than double the

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河野義行 – Wikipedia

河野 義行(こうの よしゆき、1950年(昭和25年)2月3日 – )は、日本の著述家である。鹿児島県在住。 1994年(平成6年)に発生した松本サリン事件の被害者。事件後に警察およびマスメディアにより、事件の有力な容疑者であると見なされ報道被害を受けた。 現在は、オウム真理教事件及びメディア・リテラシーに関する講演を行う傍ら、著述家としても活動している。特定非営利活動法人リカバリー・サポート・センター理事。「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」(のりこえねっと)共同代表。 愛知県豊橋市生まれ。1973年、名城大学理工学部卒業。山岳写真家の河野齢蔵は妻の祖父にあたる。 1994年(平成6年)6月27日夜に発生した松本サリン事件に際して事件の第一通報者となった。警察から事件への関与が疑われ、長野県警は河野の自宅の家宅捜索を実施した。この捜索において農薬が発見されたことや、「河野宅において不審な煙を見た」との証言があり嫌疑が深まった。後に証言については虚偽と判明し、また農薬からサリンは合成できないことが判明している。 警察の捜査および情報のリークを受け、地元紙の信濃毎日新聞や主要な全国紙を含め、多くのメディアが河野を犯人と決め付けて扱った。河野やその家族は断続的に長野県警松本警察署からの取り調べを受けたが、有力な証拠が見つからず逮捕されることはなかった。 その後、山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)のオウム真理教施設周辺において不審な証拠が発見され、さらに1995年(平成7年)3月20日に発生した地下鉄サリン事件ののち、松本サリン事件もオウム真理教の犯行であることが判明し、河野への疑いは完全に解消された。 捜査当時の国家公安委員長であった野中広務は、長野県警から推定有罪的で執拗な取り調べがあったことなど、度を越していた河野に対する行為について直接謝罪。マスメディア各社も報道被害を認めて各種媒体に謝罪文を掲載、一部の関係者も直接出向いて陳謝した。一方、長野県警は遺憾の意を表明したのみで「謝罪というものではない」と公式な謝罪を行わなかった。長野県警本部長が当時の捜査の誤りとそれに起因する河野の被害について謝罪したのは、河野が長野県公安委員会委員に就任して以後のことであった。 公安委員就任以降の活動[編集] 2002年に長野県知事であった田中康夫の要請を受けて、長野県警を監督する長野県公安委員会委員を1期(3年[1])務めた[2]。 飯田市大王路の無職の女性(当時77歳)が2004年4月に殺害された事件(長野・愛知4連続強盗殺人事件)で、その長女が「犯人扱いされた」と訴えていた問題で、私人として長女宅を訪れ、長女らと約2時間半にわたって非公開で面談した。 飯田警察署で、長女に対して推定有罪と判断して、ポリグラフ(うそ発見器)をかけられたことや、誘導尋問などで強要された自白、深夜まで事情聴取を受けたことなどについて説明する長女に対し、松本サリン事件で一時被疑者扱いを受けた自身の体験を話した。面談後、「直接の謝罪は必要。市民にとって大きな負担となる捜査方法は改善すべき」として、県公安委員会で警察側に陳謝の要望があったことを報告すると約束。任意の事情聴取を何時間以内にとどめるべきかなど捜査の指針作成を提案する意向を示した。事情聴取のポリグラフについて、「一般市民には非日常的なことだが、警察にすれば日常的。そのギャップは大きい」と指摘した上で、「今後は県警が配慮してギャップを埋めていく必要がある」とした。この件に対し、長女は「話を聞いてもらって楽になった。」と話している[3]。 その後、生坂ダム殺人事件の長野県警の捜査ミス糾弾(他殺死体を自殺事件と断定したが、公訴時効成立後に覚せい剤所持等の別件で逮捕された犯人の任意の自白により殺人事件と判明)において、田中知事と対立し公安委員を更迭された(田中知事は犯罪報道被害者で冤罪被害者にもなりかねなかった河野が長野県警糾弾の先鋒になることを期待したが、河野は「当時の捜査において他殺と断定できなかった事はやむを得なかった」との判断をしている)。 妻はサリンによる被害により意識不明状態から回復せず河野が介護していたが、2008年8月5日に60歳で死去した。その死に際して、「長い間頑張ってくれて、ありがとう。今日は彼女が自由になる日。わが家にとって、事件が終わる日になると思う」とコメントを出した[4]。 報道被害に関する講演で全国各地を訪れていたなか、2010年8月、妻の三回忌を区切りに鹿児島市へ転居し、2014年7月には霧島市に移住した[5]。 オウムに対する姿勢[編集]

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セリエA (サッカー) 2015-2016 – Wikipedia

2015年, 2016年のスポーツ > 2015年, 2016年のサッカー > セリエA (サッカー) 2015-2016 セリエA2015-2016 (2015–16 Serie A)は、第1シーズンが行われて以来、84回目のセリエAである。ユヴェントスが5シーズン連続通算32回目の優勝を果たした。 2014-2015年シーズンの昇格・降格[編集] セリエAに昇格 セリエBに降格 セリエDに降格 2015-2016年シーズンのセリエAのチーム[編集] セリエA2015-2016のクラブ所在地 2015-2016年シーズンのセリエAのクラブ数は前年同様の20。 地域別のチームの数[編集] チーム数

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稲井誠 – Wikipedia

稲井 誠(いない まこと、1981年8月 – )は、日本の薬学者(有機合成化学・医薬化学)。学位は博士(薬学)(静岡県立大学・2009年)。静岡県立大学薬学部講師・大学院薬学研究院講師。 財団法人上原記念生命科学財団海外留学ポストドクトラルフェローシップ研究員、徳島文理大学薬学部助教、静岡県立大学薬学部助教などを歴任した。 有機合成化学や医薬化学を専攻する薬学者である[1]。生物活性のある天然物有機化合物の合成に関する研究などを手掛けた[2]。上原記念生命科学財団の海外留学ポストドクトラルフェローシップ研究員を経て[3]、徳島文理大学や静岡県立大学などで教鞭を執った[3]。 生い立ち[編集] 1981年(昭和56年)8月に生まれた[4]。村崎学園が設置・運営する徳島文理大学に進学し[5]、薬学部の薬学科にて学んだ[5]。2004年(平成16年)3月、徳島文理大学を卒業した[5]。それに伴い、学士(薬学)の学位を取得した。さらに、静岡県により設置・運営される静岡県立大学の大学院に進学し[5][† 1]、薬学研究科にて学んだ[5][† 2]。2009年(平成21年)3月、静岡県立大学の大学院における博士後期課程を修了した[5]。それに伴い、博士(薬学)の学位を取得した[6]。 薬学者として[編集] 2009年(平成21年)4月、財団法人である上原記念生命科学財団により海外留学ポストドクトラルフェローシップ研究員に選任された[3][† 3]。アメリカ合衆国に渡り、コロラド州立大学にてロバート・ウィリアムズの下で研究に従事した[3]。日本に帰国後、母校である徳島文理大学に採用され[3]、2010年(平成22年)4月より薬学部の博士研究員として勤務した[3]。2011年(平成23年)4月、徳島文理大学の薬学部にて助教に就任した[3]。その後、母校である静岡県立大学に採用され[3]、2011年(平成23年)9月に薬学部の助教に就任した[3]。2016年(平成28年)10月、静岡県立大学の薬学部にて講師に就任した[3]。薬学部においては、主として薬学科の講義を担当し[4]、医薬品製造化学分野を受け持った[4]。また、静岡県立大学の大学院においては、薬学研究院の講師を兼務した[4]。静岡県立大学の大学院の一部には研究院・学府制が導入されており、大学院では薬食生命科学総合学府の講義を担当し、医薬品製造化学研究室を受け持った[4]。 専門は薬学であり、特に有機合成化学や医薬化学といった分野の研究に従事した[1]。具体的には、生物活性を有する天然物有機化合物の合成について研究していた[2]。また、天然物の生合成の経路について[2]、その解明を目指して機能性分子の創製を試みた[2]。そのほか、新しい合成反応の開発に取り組んだ[2]。学術団体としては、日本薬学会[7]、有機合成化学協会[7]、といった団体に所属していた[7]。 註釈[編集] 出典[編集] 関連項目[編集] 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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樅型駆逐艦 – Wikipedia

樅型駆逐艦(もみがたくちくかん)は、大日本帝国海軍の2等駆逐艦、同型艦21隻[1]。 大正6年度(1917年)成立の八四艦隊完成案により計画された中型駆逐艦[14](2等駆逐艦)。この案では18隻が建造され[14]、続く大正7年度(1918年)成立の八六艦隊完成案で2等駆逐艦が16隻計画され[15]、そのうち3隻が本型で残りは若竹型に移行した[16]。 本型から1918年から建造が始まり、翌1919年末から1922年にかけて竣工した[17]。藤永田造船所と石川島造船所が新たに駆逐艦建造に参加している[18]。 設計は峯風型一等駆逐艦と平行して行われ、わずかに先行していた[19]。峯風型の小型版という形で[20]、船体形状などが峯風型と似ている[19]。兵装は峯風型と比べて主砲が1門、魚雷発射管が1基(2門)少なく、また機関出力が小さくなって[21]計画速力36ノット(峯風型は39ノット)としている[3]。 桃型や楢型では凌波性が不十分で、本型は峯風型と同じ艦橋前にウェルデッキを設けた形になった[19]。主砲3門は全て上甲板より1段上にあり、波の高い場合でも使用可能となった[19]。また、二等駆逐艦で初めて53cm魚雷を搭載した[19]。 3基のボイラーは全て重油専焼になった[19]。石炭燃焼艦では濃い煤煙によって発見される可能性が高くなり、重油専焼の方が夜戦などで有利だった[22]。タービンは二等駆逐艦で初めてオールギアードタービンを搭載した[19]。計画常備排水量は楢型と同じ850トン(英トン、以下同様)だったが、出力が21,500馬力(楢型は17,500馬力[6])となって計画速力は36ノット(楢型31.5ノット[6])に増大した[19]。 基本計画番号は「樅」など8隻がF37、「菊」など5隻がF37A、「蔦」など8隻がF37B[23]。 計画排水量は850トンだったが、実際には45トンほど超過していた[24]。(後期の艦ほど改正で排水量が増した、とする文献もある[18]。)排水量の増加は速力に影響があり[24]、例えば1920年(大正9年)3月、佐多岬沖で実施された楡の公試成績では排水量893トン、軸馬力23,165shpにおいて速力34.35ノットを記録している[25]。また、舵を切ったときに傾斜が大きく、復元力を増す必要もあった[26]。次型の若竹型(基本計画番号F37C[27])では排水量を900トンにするなど、これらの点が計画から盛り込まれることになった[28]。 主機械[編集] タービン形式については、最初の8隻のうち「樅」を初めとする4隻はブラウン・カーチス式を搭載、「楡」を初めとする4隻はジョン・ブラウンとパーソンズの設計の両方を参考に、三菱が新たに設計した高圧衝動式、低圧反動式のタービンを搭載した[29]。この背景には、日本海軍はタービン開発に熱意を持っていたが、ブラウン・カーチス式の製造権を持っていた川崎造船所は自力開発には消極的だった[29]。そこで日本海軍は三菱にその図面を渡し、新設計のタービンが作られた[29]。ブラウン・カーチス式が無事故で好成績を収めたのに対し三菱設計のタービンは故障が多く、結局、続く「菊」を初めとする7隻にはブラウン・カーチス式が搭載された[29]。また、その後に続く本型最後の6隻にはヨーロッパのタービン・メーカー各社のものを搭載し、実艦での比較実験を行った[30]。浦賀船渠製造の2隻にはキャメル・レアード社のパーソンズ式反動タービンを、藤永田造船所製造の2隻にはジョン・ブラウン社のブラウン・カーチス式を、石川島造船所製造の2隻にはエッシャーウィス社のツエリー(チェリー)式をそれぞれ搭載した[30]。キャメル・レアード社(会社のあるイギリスは第一次世界大戦の最中だった)製のタービンは外観の仕上げは粗雑ながら内部の重要部品は精巧に作られてあり、実艦搭載の運転では良い成績を収めた[30]。一方エッシャーウィス社は初めての船舶用タービンであって事故が続出する一方、その対策を行うことで日本のタービン技術向上にもなった[30]。 結局各艦に搭載されたタービンの形式と製造会社は以下の様になった[31]。 ブラウン・カーチス式 川崎造船所製 – 樅、榧、梨、竹、菊、葵、萩、薄、藤、蔦、葦 ジョン・ウラウン社製 – 蕨 ジョン・ウラウン社計画、川崎造船所製 –

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円舞曲は白いドレスで – Wikipedia

『円舞曲は白いドレスで』(ワルツはしろいドレスで)は、さいとうちほによる漫画作品。 単行本は絶版となっており、文庫版全4巻が発行されている。文庫版には、続編『白木蘭円舞曲』(マグノリアワルツ)と3つの番外編も収録されている。本項では、続編と番外編についても述べる。 単行本は原作者デビュー時の短編漫画「剣とマドモアゼル」と「バンドラの箱」も収録されている。 連載情報[編集] 円舞曲は白いドレスで(『少女コミック』〈小学館〉1990年1号 – 1990年24号) ハネムーンはタイフーン(『少女コミック増刊』〈同〉1990年11月15日号) 紫丁香夜想曲(『少女コミック増刊』1991年9月15日号) 白木蘭円舞曲(『プチコミック』〈同〉1994年3月号 – 1994年2月号、全12話) 月下香小夜曲(『プチコミック』1995年11月号) あらすじ[編集] 円舞曲(ワルツ)は白いドレスで 1935年、洋服屋の娘・湖都には、ある夢があった。初めての舞踏会には、自分で仕立てた白いドレスを着て、初めてのワルツを運命の男性と踊る……。しかし、そんなささやかな夢も、男爵家の息子・将臣との婚約によって諦めなければならなくなる。 しかし、諦めていたイギリス大使館主催の舞踏会に行けることになった湖都は、会場でインド人とイギリス人のハーフのイギリス軍将校・サジットと出会い、初めてのワルツを踊る。しかし彼は、インド独立のためにイギリス軍の内情を探るスパイだった。湖都は、怪我を負った彼を匿い、怪我の手当てをする。将臣という婚約者がありながらも、湖都はサジットのことを忘れられなくなる……。 ハネムーンはタイフーン 駆け落ちした湖都とサジットの2人が上海行きの船で出会ったのは、サジットの異母兄・ナイジェルだった。 白木蘭円舞曲(マグノリアワルツ)

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