ミケーネ遺跡の獅子門で撮影されたデルプフェルト(画面左上の穴から覗いている人物)。シュリーマンは獅子の岩の隣に立っている。 ヴィルヘルム・デルプフェルト(独: Wilhelm Dörpfeld, 1853年12月26日-1940年4月25日)は、ドイツの建築家、考古学者である。層序学的発掘と考古学プロジェクトにおける正確な図面の文書化の先駆者であり、ハインリッヒ・シュリーマンとともに伝説的なティーリュンスやトロイアの遺跡とされるヒッサリクの丘など地中海周辺の青銅器時代の遺跡を発掘したことで有名である。デルプフェルトは、シュリーマンのようにホメロスの作品で言及された場所の歴史的現実を提唱した。ホメロスの言及に関する主張の詳細は後の考古学者によって正確であるとは考えられていないが、それらが実際の場所と対応しているというデルプフェルトの基本的な考えは受け入れられている。したがって、彼の研究はこれらの歴史的に重要な遺跡の科学的手法や研究だけでなく、古代ギリシアの文化や神話に対する新たな公衆の関心にも大きく貢献した。 デルプフェルトはライン県(英語版)のバルメンに、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・デルプフェルト(ドイツ語版)とクリスティーン(Christine)の息子として生まれた。信念のあるクリスチャンであり有名な教育者であった彼の父は家族に深い宗教的感情を授けようとした。デルプフェルトは宗教学校でラテン語とギリシャ語の基礎教育を受けた。母親が死去した翌年の1872年、バルメン高校を卒業した。 1873年、デルプフェルトはベルリンの建築研究に参加し、有名な建築アカデミー(バウアカデミー)に入学した。同時に彼はベルギッシュ・マエルキ工業会社で働き始めた。デルプフェルトの父親は彼の研究に資金を提供することができなかったので、妹のアンナが彼にお金を貸し、休暇になるとデルプフェルトはライン川鉄道会社で建物やさまざまな建築物のスケッチを描いた。デルフェルドは1876年に優等で卒業した。 1877年、デルプフェルトは、リチャード・ボーン(英語版)、フリードリヒ・アドラー(英語版)、エルンスト・クルツィウス(英語版)の指揮の下、ギリシャの古代オリンピアの発掘調査の助手となり、後にプロジェクトの技術監督になった。このグループは特にプラクシテレスの無傷のヘルメス像を発見した。発掘調査によって発見された遺物を収蔵する場所が必要となり、デルプフェルトはフリードリヒ・アドラーとともにオリンピア考古学博物館(英語版)の設立に携わった。博物館は1885年に着工し1888年に完成した。こうした発掘事業は古代オリンピックの記憶を復活させることになり、後の近代オリンピック設立にも貢献した(1896年)。 1881年にオリンピアでの発掘調査が終了し、帰国したデルプフェルトは建築監督者の国家試験を受けてベルリンに落ち着くつもりでいた。家庭生活の準備をしていた彼は恒久的な収入源を必要としていた。デルプフェルトがハインリッヒ・シュリーマンと出会ったのはこの頃である。シュリーマンは国家試験に合格したばかりの彼をトロイアの発掘に参加するよう説得した[2]。1882年、デルプフェルトはシュリーマンの発掘隊に加わってトロイア遺跡を調査した。2人は最終的には良い友人となり、他の発掘プロジェクトでも協力を続けた。 1883年2月、デルプフェルトは大学教授のフリードリヒ・アドラーの娘アンナ・アドラー(Anna Adler)と結婚し、2人の娘エルゼ(Else)、アグネス(Agnes)と、1人の息子フリードリヒ(Friedrich Gustav Richard)に恵まれた。 デルプフェルトとシュリーマンは1884年から1885年までティリンス遺跡で発掘し、再び1888年から1890年までトロイア遺跡で発掘した。デルプフェルトはまた、1885年から1890年にかけてアテナイのアクロポリスで発掘し、ヘカトンペドン神殿(英語版)(古典期以前のパルテノン神殿)を発掘した。さらに1900年から1913年にアレクサンダー・コンツェ(英語版)とともにペルガモンで、1908年から1929年にかけてオリンピアで新たに発掘調査を行い[3]、1931年にはアテナイのアゴラで発掘を行った。 1912年に引退した後、デルプフェルトはさまざまな考古学的テーマに関する数多くの学術的議論に従事した。たとえば1930年代半ばには、パルテノン神殿の3段階の構成の性質に関するアメリカの考古学者ウィリアム・ベル・ディンスムア(英語版)との記念討論に参加した。1920年代の初めにはイェーナ大学で講義を始めたが、職業としての教育に満足せず、ギリシャに戻った。 考古学での優れた業績により、デルプフェルトは7つの名誉博士号を取得し、1892年に教授の称号を取得した。 デルプフェルトは1940年に彼の家があるギリシャのレフカダ島で死去した。彼はレフカダ島の東海岸にあるニドリ湾はホメロスの英雄オデュッセウスが住んでいた歴史的なイタケがあった場所だと信じていた。デルプフェルトはニドリ(英語版)の海岸と向かい合う半島先端部の聖キリアキ教会(Ekklisia Agia Kiriaki)近くの、ニドリの港を眺めることができる場所に埋葬された[4]。 ミケーネ文明の「トロス墓」の中で最も印象的な「アトレウスの宝庫」。
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