Month: July 2020

子供たちの子供たちの子供たちへ – Wikipedia

『子供たちの子供たちの子供たちへ』(原題:To Our Children’s Children’s Children)は、イギリスのプログレッシブ・ロック・バンド、ムーディー・ブルースが1969年に発表した5作目のスタジオ・アルバム。自身が設立したレーベル、スレッショルド・レコードからの第1弾アルバムとしてリリースされた[3]。 アルバム制作中の1969年7月20日に人類初の月面着陸があり、バンドはそこから多大なインスピレーションを得た[4]。ジョン・ロッジによれば、バンドはNASAからロケット打ち上げ時の録音を借りているが、期待外れの音だったため「自分達でロケットの音を作ることに着手して、最終的には本物よりも本物らしい響きになったよ!」とのことである[4]。 「ジプシー」「キャンドル・オブ・ライフ」「太陽は輝き続ける」は、アルバム収録に当たって編集やクロス・フェイドが施される前のヴァージョンも残っており[5]、2008年のリマスターCDにボーナス・トラックとして収録された。 本作に先行して、1969年10月に「ウォッチング・アンド・ウェイティング」がシングルとしてリリースされるが、チャート入りは果たせなかった[4]。11月には本作がリリースされ、全英アルバムチャートでは44週チャート圏内に入り、最高2位を記録した[1]。アメリカでは1970年にBillboard 200で14位を記録し[2]、同年7月にはRIAAによりゴールドディスクに認定された[6]。 ハイアー・アンド・ハイアー “Higher and Higher” (Graeme Edge) – 4:06 子どもの眼(パート1) “The Eyes

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李河一 – Wikipedia

北朝鮮の政治家 李河一 리하일 生年月日 1935年??月??日 出生地 日本統治下朝鮮咸鏡南道 所属政党 朝鮮労働党 称号 金日成勲章、金正日勲章 最高人民会議代議員 当選回数 4回 在任期間 1982年11月 – 2003年8月 最高指導者 金日成(1948年

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影牢 〜刻命館 真章〜 – Wikipedia

『影牢 ~刻命館 真章~』(かげろう こくめいかん・しんしょう)は、1998年テクモから発売されたPlayStation用アクションゲーム。「刻命館シリーズ」の2作目にあたる。2008年12月24日よりゲームアーカイブスで配信された。 3Dマップ内で構築された館内で、主人公を操作してプレイする3Dアクションゲームである。主人公自身は攻撃手段を持たない代わりに部屋にトラップを仕掛け、それに侵入者たちをおびき寄せて倒すという従来のシステムを採用している。前作『刻命館』がシミュレーションゲーム的な要素の強い作品であったのに対して、本作はコンボなどを導入することによって、アクションゲーム的色彩が強くなっている。本作品にはマルチエンディングが採用されており、選択肢や行動によってエンディングが変化する。 前作の舞台背景を一部踏襲しつつもより細かく練り上げられたストーリーと一部エンディングでの衝撃的な結末、そして本作より後のシリーズに引き継がれる事となるトラップコンボシステムが人気を博し、売り上げ本数は同シリーズ中最大の約20万本となった[1]。 なお、当時放映されたテレビコマーシャルは、女子学生が自分の彼氏を罠に掛けるが、それがだんだんとエスカレートする内容となっている[2]。 システム[編集] 主人公の攻撃手段はトラップのみである。直接攻撃は一切行なえないため、罠が起動できない状態で敵と相対してしまった場合は逃げるしかない(ただし全ての敵キャラよりも移動速度がはるかに速く設定されているため、まず逃げ切れる)。一回のミッションで装備できるトラップは床・壁・天井それぞれの場所ごとに3種類のトラップとなっており、合計9つである(コンボとして組み込む場合は発動後に設置し直す必要がある)。各トラップにはチャージ時間があり、これによりすぐにトラップを発動させることはできない。トラップには相互に作用するもの(例えば、メガロックを落としてアタックウォールで押す等)や効果時間もあり、これを利用することで下記のコンボにつなぐことができる。 侵入者にダメージを与えるたびに”Ark”と呼ばれるポイントが加算される。このArkとはトラップを開発するために必要な材料になる。一度に得られるArkの量は、ダメージを与えた時のトラップの使い方によって変化する。ヒット数が多く侵入者に与えたダメージが大きいほど、大量のArkが得られる。同じダメージを与えた場合でも、ヒット数が少なかったり、連携攻撃の組み合わせがワンパターンだと、得られるArkは減少してしまう[3]。 種類[編集] 以下は傾向として多いものだが、冷凍による拘束など種類にはとらわれないものがある。 天井設置トラップ 天井に設置し、起動すると上からトラップが落下してくる。メガロック(巨大岩)のように凄まじい破壊力を持つものと、ガスやカビンなどの攻撃補助的なものがメイン。また、お笑い系トラップとしてタライとオオタライがある。 壁設置トラップ 壁に設置するトラップ。壁がせり出すアタックウォールや壁に引き寄せるマグネットなど強制移動効果のあるトラップと、矢が射出されるアロースリットのように投擲武器が飛び出すものがある。 床設置型トラップ 床に設置・起動させる。スマッシュフロア(対象を空中へ吹き飛ばす)やマグネットフロアなど強制移動効果のあるトラップと、ベアトラップ(トラバサミ)に代表される拘束型、ダメージと強制移動を行うマイン(地雷)系とがある。 隠しトラップ エンディングを見ることで合計6種の隠しトラップを開発できるようになる。他のトラップに比べ性能が高めに設定されている。

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新店渓橋列車火災事故 – Wikipedia

新店渓橋を渡る列車(1999年。参考画像) 新店渓橋列車火災事故(しんてんけいきょうれっしゃかさいじこ、中: 新店溪橋火燒車事故)は、1948年5月28日に、台湾の台湾省鉄路管理局(以下、省鉄路局)[注釈 2]縦貫線万華駅と板橋駅の間にある新店渓上の新店渓橋(現在の華翠大橋)を走行中の列車で発生した火災事故。 乗客が車内に危険物を持ち込んで火災を起こし、車両4両が焼損した。乗客の死傷者は、死者21人、重傷者40人、軽傷者36人。その他、43人が事故調査を経て死亡したと推定された[1]。 この記事では、UTC+9の標準時を基準とする(当時は夏時間採用[2])。 事故経過[編集] 客室内非常ブレーキ(参考画像) 1948年5月28日14時58分、第29次列車(11両編成)が万華駅を出発して板橋駅に向かう途中、新店渓橋に接近したところで突然9両目の三等車(車両番号22034)で火災が発生した。乗客は両端の車両に避難して、中には窓から新店渓(橋の下の川)に飛び込んだ者もいた[1][3]。 当時、列車の後方(貨物車両)にいた改札係の陳東昇は事故発生を知り、非常ブレーキを作動させたため、後方に避難した乗客が後ろの扉から安全に降りることができたが[3][1]、改めて発車しようとした際に、発火した車両と無事な車両を分離させる方法がなかったことから、依然として「制動(ブレーキ)」状態だった(運転手が、発火して壊れた連結部分を回復出来なかったことが理由であった可能性がある)。その後、火災を処理するために消防士を後方に派遣した[3]。消防士は、火災が8両目の後方に広がったのを見ると、急いで8両目と7両目の連結部分のフックを外して、前方7両を板橋駅に向かって再び発車させ、橋の上に残された4両が強い火勢のままに全焼してしまった[3][1]。 省鉄路局、台湾鉄路工会(中国語版)(労組)、中国国民党台湾区鉄路党部、台湾省政府社会処で結成された「新店渓橋傷亡旅客善後救済処理委員会」の統計によれば、乗客21人が死亡、40人が重傷、36人が軽傷。その他、家族が行方不明者として51人を届け出て、事故調査を経てそのうち43人がこの事故により死亡したと推定された[1]。さらに、車両4両が焼失(三等客車2両、二等客車1両、貨物車1両)して、荷物19個、小包38個、枕木118本も焼損した[3]。死因は溺死と焼死に大別され、火勢が強かったことから全焼した車内での焼死者は身元判別が困難なほどだった[1]。 台湾省で最初の大惨事と位置づけられただけではなく[1]、鉄道事故としては、2021年の北廻線太魯閣号脱線事故が起きるまでは長らく台湾で最も重大な列車事故とされてきた[4]。火災事故としても、1984年に103人が死亡し22人が負傷した台北県瑞芳鎮の鉱山事故による火災(zh)および、1995年に64人が死亡し、11人が負傷した台中市のレストラン火災(zh)に次ぐ規模となっている[5]。 事故処理[編集] 運行は翌日昼に再開された[3]。政府職員と議員が病院に慰問に訪れ、省鉄路局もまた従業員を動員して1日の収入を寄付した[1]。救済金についてては、犠牲者に台幣35万元が、障害が残った人に25万元が、重傷の旅客は医療費の負担がなく10万元が支給され、軽傷者もまた医療費が公費で負担された[1][3]。 台湾省参議会(中国語版)は、事故に対する徹底的な調査と責任の追及[6]、犠牲者への見舞金と負傷者への医療費の支給を要求した[1]。さらに政府に調査委員会の設立を要請して、省鉄路局には運行する車両の徹底的な検査と枕木の交換を要求した[1]。国民大会懇親会は車両火災事故の座談会を開き、当時の省鉄路局局長郎鍾騋(中国語版)を招請して事故処理の経過を報告した[1]。事故の原因は、乗客が樟脳またはガソリンを車内に持ち込み、火災を起こしたことだった[1]。 台北市双園区(現在の万華区)議員(zh)会会長の林打銅が同年の6月12日14:40に新店渓橋のほとりで追悼式典を執り行った。省鉄路局は10万元を補助して、また同日16:00から6月16日16:00まで龍舟競漕、超渡(中国語版)陰魂の活動が行われた[1]。6月25日には台北県板橋鎮(現在の新北市板橋区)でも追悼式典が開催され、板橋鎮鎮長の林燕清が主祭、省鉄路局副局長の修城が陪祭を務めた[1]。省鉄路局は追悼式典に列車で向かう家族に無料で乗車券を提供した[3]。 安全強化[編集] この事故が発生する16日前の5月12日にも、台北駅を発車した第29旅客列車では、三等客車内旅客の持ち込んだガソリンライターとその燃料用ガソリンにより別の旅客の麦わら帽に引火する事故が起きていた(死傷者はゼロ)。この事故により省鉄路局車務処は各駅と鉄道警察に対し、旅客が麦わら帽やそれに類するものを持ち込むことについての注意を促していた矢先の事故だった[1]。 その後、省議会で対策強化が提議されたこともあり[7]、省鉄路局は乗客の危険物持ち込みを禁止する運動を強化し、報告した乗客が徴収された罰金の半分を受け取り、さらに鉄路警察(現・内政部鉄路警察局(中国語版))が報告者に1,000元以上を支給できる奨励方法を策定した[1][3]。 注釈[編集]

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フランス人形 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “フランス人形” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年6月) フランス人形(-にんぎょう)は、日本において西洋人形のうちの一部のものに対して用いられる名称。19世紀のフランスで作られた幼女形の人形を指したり、またロココ風の華麗なドレスに身を包んだ女性の人形を言う場合も多く、厳密に定義されているものではない。 薬局の店頭に飾られているフランス人形。日本では一般的にこのような様式の人形をフランス人形と称する。(2008年11月2日撮影) 源流はルネサンス期にさかのぼるとされる。15世紀のイタリアで優秀な彫刻家兼人形師により優れた人形が製作され、それがフランスにも波及して、貴族女性の衣服を宣伝するための等身大の人形が作られた。いわばマネキンのようなものであるが、これが後のフランス人形につながったとされる。もっとも、当時はこうした手の込んだ人形は上流階級のもので、一般庶民の子供の玩具として広まったのは19世紀半ば以降である。即ち、フランス語でプペ・アン・ビスキュイ(poupée en biscuit)、英語でビスク・ドール(bisque doll)と呼ばれるもので、頭部が陶磁器で作られた幼女形の人形である。これが本来の意味でのフランス人形で、従って収集家や研究者などはもっぱらこれをフランス人形と称する。同じ様式のものはドイツなどでも量産され、世界的に普及した。日本でも製造されている(サクラビスクと呼ばれる日本生産のビスクドール、市松人形のような和風の顔のドールもある)。 20世紀に入って、第一次世界大戦を境にヨーロッパの人形生産は衰退し、代わってアメリカで、セルロイドその他を用いた安価な人形が大量生産され、第二次世界大戦後は合成樹脂の発展によって新たな趣向の人形が普及するようになって、ビスク・ドール系の人形はほぼ消滅した。今ではアンティーク・ドールとしてマニア間で取引され、私蔵される程度である。 日本におけるフランス人形[編集] 日本では、第一次世界大戦でヨーロッパの人形生産が滞ると、ビスク・ドールを模倣したものを生産して海外に輸出したが、国内では、一部上流階級や富裕層以外は外国製あるいは外国風の人形を玩具や調度とすることはなかった。第二次世界大戦後、経済が復興して国民生活に余裕ができ、またアメリカ文化の強い影響により洋風化が進み、西洋風の人形を部屋に飾る事も当たり前になったが、一般には、フリルやリボンなどの装飾を多く用いたローブ・デコルテを着けたものを、生産国に関係なくフランス人形と言うようになった。実際には欧米で作られたものは、その顔立ちなどが必ずしも日本人の好みに合うわけではなく、日本でフランス人形として流通している、ややあどけなさを加えて日本人の嗜好に合わせたもの(文化人形のフランス人形など顔が布製のもの)の大部分は日本製であったと言ってよい。子供の玩具として用いられる事はなく、部屋の調度品とされる[1]。また、フランス人形の顔立ちや、古くから作られたということから、よくホラー漫画や映画に登場し、呪いの象徴として使われることも少なくない。 昭和初期のフランス人形[編集] 昭和初期のフランス人形とは、プレスされたマスクに顔を描き入れ、胴体や四肢を組み付けてドレスを着せたり飾りを付けたりしたものであり、フランス人形と命名したのは中原淳一とされる[2]。命名については、1932年(昭和7年)中原淳一が自ら作成した人形の初展覧会を銀座松屋で行うにあたり担当者と相談して決めた。ただし、フランス人形という言葉自体は童謡「おもちゃのマーチ」で既に歌われていたが、具体的な形状は知らなかったという[3]。

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七森中☆ごらく部 – Wikipedia

ニコニコ生放送日 放送時刻 公式 番組名 来場者総数 コメント数 2011年 06月12日 14:00〜20:00 TVアニメ「ゆるゆり」4000枚に直筆サインしちゃいます!を6時間生放送 19289人 63169 20:30〜21:00 三上、大坪、泣きの延長配信 2310人 7995 07月04日 22:00〜23:00 アニメ「ゆるゆり」放送直前!あかりとちなつの夜のなまゆりトーーク(仮) 9879人

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今井三子 – Wikipedia

今井 三子(いまい さんし、1900年2月20日 – 1976年1月9日)は日本の植物学者、菌学者である。 群馬県中之条町に生まれた。北海道帝国大学を卒業し、北大の助手、師範学校教授となり、1944年から北大助教授を兼任した。1949年から北海道学芸大学教授、1953年に横浜国立大学教授を務めた。 菌類の分類学、植物病理学の分野で貢献した。 アミガサタケ科のイモタケ属 (Imaia)やチチタケ属の種、Lactarius imaianusの学名に献名されている。 Sanshi Imai (1929) “On the Clavariaceae of Japan: I”. Transactions

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ピー・ウィー・マーケット – Wikipedia

ウィリアム・クレイトン・”ピー・ウィー”・マーケット (William Crayton “Pee Wee” Marquette) は、ニューヨークのジャズ・クラブ、バードランドの元司会者。アラバマ州モンゴメリー生まれ。マーケットは、身長が4フィート(およそ122cm)に満たず、おそらくは3フィート8インチ(およそ114cm)ほどであった。彼の声は、アート・ブレイキーの1954年のアルバム『バードランドの夜 Vol.1 (A Night at Birdland Vol. 1)』のイントロダクションで聴くことができる。ブレイキーがバードランドで録音した他のアルバムの中にも、『アット・ザ・ジャズ・コーナー・オブ・ザ・ワールド (At the Jazz Corner of the

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埼玉県立芸術総合高等学校 – Wikipedia

埼玉県立芸術総合高等学校(さいたまけんりつ げいじゅつそうごうこうとうがっこう)は、埼玉県所沢市三ケ島にある公立高等学校。 美術科、音楽科、映像芸術科、舞台芸術科の4学科からなる全日制の芸術系高校である。略称は「芸総」(げいそう)。 当校は日本初の普通科が存在しない単位制の公立高等学校である。各学科の一学年の人数は40人程度で、全校でおよそ500人の生徒が在籍している。 最寄りの小手指駅からバスで登校する生徒が多い。 教育課程[編集] 全日制、2学期制、単位制 かつては90分1単位の授業構成となっていたが、2008年より50分を1単位とした7限授業へと変更された ノーチャイム制を採用 選択科目制を採用し、受験に必要な科目や、学科内での専攻に合わせて授業を選択することが出来る 選択科目の比重は年次が進むごとに増加していく 大学を模範とする授業構成で、外部講師として関東圏の芸術系の大学などから講師を呼ぶなどして授業を展開している 学科内容[編集] 素描、絵画、日本画、油絵、彫刻、陶芸、ビジュアル・デザイン、クラフト・デザイン、美術史、コンピュータ造形、カートゥーン研究など ピアノ、声楽、弦楽器、管楽器、打楽器、合唱、合奏(吹奏楽、弦楽合奏)、重唱、ソルフェージュ、音楽理論、音楽史、演奏法、ピアノデュオ演習、オペラ研究、ミュージカル研究など 映像技術、映像概論、映像媒体論、イメージ表現研究、CGⅠ・Ⅱ・Ⅲ、ビデオ表現Ⅰ・Ⅱ、写真Ⅰ・Ⅱ、メディアコミュニケーション、シナリオ創作、映像鑑賞、アートアニメーションなど 演劇入門、劇表現、総合演習、戯曲創作、身体表現、クラシックバレエ・モダンダンス、日本舞踊、狂言、音声表現、舞台技術入門、民族舞踊、舞台音響研究など 施設と設備[編集] 普通校舎、特別校舎、運動場、体育館(卓球場、柔道場、トレーニングルームなど)、生徒ホール(学生食堂)、コンピュータ室など デッサン室、デザイン室、版画室、油絵室、彫刻室、陶芸室、木工室、日本画室など

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