Month: December 2020

敷知郡 – Wikipedia

静岡県敷知郡の範囲(水色:後に他郡から編入した区域) 敷知郡(ふちぐん、ふちのこおり)は、静岡県(遠江国)にあった郡。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では概ね以下の区域にあたる。 浜松市 中区の全域 西区の全域 北区の一部(三方原町・根洗町・三幸町・大原町・豊岡町および大谷以外の三ヶ日町各町) 南区の一部(中田島町、寺脇町、福塚町、三島町以西) 湖西市の大部分(白須賀・境宿を除く) 古代[編集] 律令体制下における飛鳥・奈良時代の敷知郡は、大宝律令施行(701年)以前から成立しており、「渕評」(フチノコオリ)と呼ばれた。これは浜松市中区伊場の伊場遺跡群から出土した木簡から判明しており、遺跡群内の「城山遺跡」付近に郡衙があったと考えられている[1]。 近代以降の沿革[編集] 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。●は村内に寺社領が、○は寺社等の除地(領主から年貢免除の特権を与えられた土地)が存在。(2町2宿141村) 知行 村数 村名 幕府領 幕府領 1宿6村 ●舞坂宿、●馬郡村、●坪井村、長十受新田、●東市場村、岡崎村新田、新所村新田

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顧問 – Wikipedia

顧問(こもん、英語: adviser、counsel、of counsel)は、ある組織に関与し、意志決定を行う権限を持たないが、意見を述べる役職やその役職に就いている者のことである。オブザーバー、参与、カウンセルなどというときもある。相談役も同義の役職名称だが、やや栄誉職的なニュアンスが強い。 政党における顧問[編集] 政党において顧問を置く場合がある。自由民主党などで長老政治家を任命する場合が多いものの、かつての日本社会党では、議員歴がない元九州大学教授の向坂逸郎が顧問となっており、向坂は党内最大派閥である社会主義協会の代表でもあった。 日本において古いところでは、1927年に発足した立憲民政党が、若槻禮次郎(前首相・憲政会総裁)・床次竹二郎(政友本党総裁)・山本達雄・武富時敏を顧問にしている。 自由民主党[編集] 自民党ではまず顧問制度が置かれたが、国会議員として25年在職の表彰を受けた議員が自動的に委嘱され(そのほか首相・衆参両院議長も該当[1])、議員を辞めても退任しなかったため人数が膨大になり[2]、1980年に後述する最高顧問が創設されたこともあって有名無実化した。ただし、すぐに廃止されたわけではなく、奥野誠亮の自伝では1988年に25年在職の表彰を受けた際に自民党顧問になったとの記載がある[3]。一方、2018年現在自由民主党のホームページには、組織表にも所属する25年以上在職議員の紹介記事(たとえば保岡興治)にも「党顧問」という記載はなく、そもそも「顧問」の欄自体がない。 1980年に総裁・副総裁・衆参両院議長の経験者を有資格者[4]とする最高顧問が創設され、岸信介・三木武夫・福田赳夫・二階堂進らが就任して1980年代の政界に一定の影響力をもったが、1990年代中期に廃止された[5]。最高顧問は「有資格者の中から総裁が委嘱する」とされ、自動的に就任するわけではない[5]。岸信介の最高顧問就任は1982年であった[6]。 最高顧問経験者が要職に就いた例は稀だが、土屋義彦が参議院議長退任後に埼玉県知事に就任した例、海部俊樹が1991年の首相退任後に最高顧問となった後、離党し新進党党首などの他党幹部を歴任した例がある。中止となった最高顧問の総裁擁立構想としては、1982年の「総総分離」での福田赳夫総裁擁立案、1987年の総裁選への二階堂進の出馬構想、1989年の福田赳夫と坂田道太の総裁擁立案があった。 最高顧問廃止後の旧資格者の要職就任例としては、1998年の宮澤喜一元首相による蔵相就任を皮切りとする、河野洋平・橋本龍太郎・麻生太郎の元総裁(元首相を含む)の入閣、さらに安倍晋三元首相の総理・総裁への復帰、谷垣禎一元総裁の幹事長就任などがある。河野は後に衆議院議長、麻生は副総裁を務めた。綿貫民輔は衆議院議長退任後もしばらく自民党議員であったが、後に離党し国民新党代表となっている。小渕恵三は副総裁を務めた後に間をおいて総理・総裁となっている。 政党内部の派閥・調査会・委員会、議員連盟などでも顧問を置く場合がある。中には現役の会長などを抑えて事実上の最高実力者となっている場合もある(自民党では清和政策研究会最高顧問時代の森喜朗や党税制調査会最高顧問時代の山中貞則など)。 自由民主党以外の政党[編集] 自民党以外の政党では最高顧問が政府・党の役職に就く例がある。公明党には常任顧問と特別顧問が存在し、2020年9月現在では神崎武法が常任顧問に、坂口力が特別顧問に就任している。日本共産党にもかつては名誉議長(宮本顕治らが就任)、顧問などがあったが近年名誉役員に一本化された。ただし共産党では議長も事実上の党首とみなされる委員長退任後に就任する、やや一線から引いたポストである。民社党では春日一幸らの委員長経験者が常任顧問に就任していた。立憲民主党にも顧問が存在し菅直人・野田佳彦の総理経験者2人が最高顧問を、岡田克也、郡司彰、海江田万里の前身政党党首経験者・副議長経験者3人が常任顧問を務めている。 かつては中国共産党に中央顧問委員会が存在し、1982年の設立以降「八老治国」といわれた長老支配を背景に鄧小平・陳雲といった大物政治家が主任(委員長相当)を務めたが、1992年に廃止された。 企業その他の団体における顧問[編集] 企業その他の団体が行う業務について、高度な意見を聞くために又は団体の信用を増し箔を付けるためにおかれる。内部の常勤ないし非常勤の顧問として、引退した役員(前社長、前会長)のほか、監督官庁で幹部を務めた高級官僚などの例もある(天下り)。1911年に済生会が創設された際には、山縣有朋・大山巌・松方正義・大隈重信・徳川家達・渋沢栄一など元老・元勲・旧幕府出身の有力者などが顧問に名を連ねた(総裁は皇族の長老で陸軍大将の伏見宮貞愛親王、会長は首相の桂太郎。[7])。外部の顧問としては、コンサルタント、会計士や弁護士などの専門家が顧問となることもある。また、役員を前提に入社した者が、株主総会までの間、顧問としての肩書きで仕事に従事することもある。大規模な法律事務所においては、引退したパートナー、裁判官、検察官若しくは行政官又は法学者,あるいはパートナーとアソシエイトの中間的な立場の弁護士などが顧問という地位を与えられることがある。この場合は、カウンセルやオブ・カウンセルなどとも呼ばれる。 暴力団における顧問・最高顧問などの役職は、当代の組長と先代組長時代同格以上であった者が、その格を維持したまま、当代組長の舎弟・子分以外の立場で組に残る際に与えられることが多い(通常であれば引退するか当代組長の舎弟となる)。 財務アドバイザー(financial advisor)[編集]

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オスロ市電SL95形電車 – Wikipedia

SL95は、ノルウェーの都市・オスロの路面電車のオスロ市電に在籍する電車。イタリアで製造された、車内の一部がバリアフリーに適した低床構造となっている部分超低床電車である。形式名の「SL95」は1995年に発注が実施された連接式路面電車(Sporvogn Ledd)を意味する[1][2]。 導入までの経緯[編集] 1990年代初頭、当時オスロ市電を運営していたオスロ運営主体公社(AS Oslo Sporveier)は、市電向けの新型電車の導入を検討していた。当初はスウェーデンのストックホルム向け車両との同時発注やチェコスロバキア(現:チェコ)のČKDタトラ製のタトラT7B5の導入などが計画され、後者については実際に試運転も実施されたものの、両者とも実現せずに終わった。その後、独自でオスロ市電向け車両を発注する形へと計画が変更され、欧州各地の鉄道車両メーカーとの間で交渉が行われた結果、1995年にイタリアのアンサルドとフィレマ(イタリア語版)のコンソーシアムとの間に新型電車に関する契約が交わされた。これに基づき製造が実施されたのがSL95である[3][4][5]。 構造[編集] SL95形は全溶接式のアルミニウム合金製車体を有する両運転台の3車体連接車で、車体両側に乗降扉が設置されている。編成内の4箇所に設置されている台車は全て三相誘導電動機(出力105 kw)が搭載されている動力台車で、1次ばねにはゴムばね、2次ばねには空気ばねが用いられている。制動装置としてオスロ市電に存在する勾配区間に適した回生ブレーキが採用されている他、台車にはディスクブレーキが、非常用として電磁吸着ブレーキが搭載されている[1][2][6]。 車内は全体の50 %が床上高さ350 mmの低床構造となっており、乗降扉のうち3箇所は低床部分に設置されている他、低床部分の乗降扉付近には車椅子スペースが編成内に2箇所設置されている。[1][2][6]。 車内(運転台付近) 屋根上の機器(2007年撮影) 最初の車両は1998年に落成し、当初は同年6月から営業運転を開始する予定だったが、製造工場の屋根が吹き飛ぶ事故が起きたことにより計画に遅れが生じ、実際の車両が完成したのは10月、営業運転を開始したのは翌1999年の5月30日となった。その後は2004年までに32両が導入されており、2021年現在は曲線半径が要因となり走行が出来ないマヨルシュトゥエン(Majorstuen)方面を除いた系統(13・17・18号線)で使用されている[7][8][9][10][11]。 一方、SL95は導入当初から複数のトラブルが報告されており、運行停止を余儀なくされる事態も幾度か起きている[3]。 騒音、冬季の機器の不良 – 2001年3月、オスロ運営主体公社はアンサルドの事業を受け継いだ合併企業のアンサルドブレーダに対し、設計値に対する機器の騒音の大きさや冬季に充電池や整流器が正常に動作しない問題を指摘し、騒音の要因であった主電動機の交換が実施される事となった。製造中であった車両に加え、既に運用に就いていた車両についても一時的に運用から外した上で機器の交換が2003年までに行われた[12][13][14]。 重量過多

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福山 (城下町) – Wikipedia

福山(ふくやま)は、備後国深津郡にあった福山城の城下町。現在の広島県福山市中心部。元和8年(1622年)頃に造られ、明治6年(1873年)に福山城が廃城されるまで、備後国の中心地として栄えた。 「福山」はほとんどが田畑や湿地帯に福山城築城と平行して新規に建設された街である。街の大部分は「総構え」と呼ばれる外郭に囲まれ身分毎に居住区域が分けられていた。南側と西側は藩士の居住する侍屋敷が大半を占め、町屋は東側から南東にかけて集中していた。城下への入口や北部の吉津川対岸など戦術上重要な場所には寺社地や足軽町が置かれ籠城時に防備を補間する役割を持っていた。侍屋敷は面積では町屋の約3倍を占めるが江戸時代を通じて構成に大きな変化はなく、他方、町屋は地子を免除して積極的に移住者を募った[1]ことなどから次第に範囲を拡大していき、築城初期に12町を数えた町は水野末期までに30町に増えたといわれる[1]。明治時代になると侍屋敷の多くは売却され農地などに転用されていったが、町屋の集中した城下東部は「本通り」を軸として福山市街の中心地となっていった。この町並みは昭和時代までよく残されていたが、福山大空襲によりほとんどが焼失して昭和40年(1965年)の区画整理により大きく姿を変えた。また、このときに町名も大幅に変更され江戸時代からの伝統的な町名はほとんどで廃止された。今日、辛うじて城下町の風情を残すのは空襲を焼け残った城北東側に位置する吉津町の周辺で旧上水道や城下町特有の「鍵の手」の道が残されている。 南西から見た福山市街(中央付近手前の山が福山城) 福山の誕生以前の様子については近年まで詳しいことは分かっていなかったが、平成14年(2002年)に市内の胎蔵寺にある釈迦如来像から古文書が発見されたことなどから、大きく研究が進んだ。かつては山並みの迫る北部を除いた大部分は海が間近に迫る芦田川のデルタ地帯となっていて、大部分が葦などの広がる荒涼とした湿地帯だと考えられていた[2]が、実際には平安時代末期頃には福山城西側周辺から市内本庄町にかけて「杉原保」と呼ばれ石清水八幡宮の所領となっており[3]、その中心地は地名などから現在の福山城周辺から木之庄辺りに存在したと考えられていて一帯は白子村という地名も存在した。また、近郊には芦田川を挟んで同様に古い歴史を持つ「草戸」(草戸千軒町遺跡)と呼ばれる村があり、深い関係があったようである。 鎌倉時代には備後国南部の国人である杉原氏が杉原保(杉原の氏は杉原保に由来すると思われる)を支配し、詳細な場所は不明だが同一族の杉原信平・為平兄弟により「能満寺」と呼ばれる寺が建てられたといわれ、福山城が建てられる丘陵(常興寺山)の頂上付近には同氏により「常興寺」が建てられた。また、正確な時期は不明だが常興寺山の北側で現在の福山八幡宮から妙政寺にかけての一帯にはかつて「永徳寺」という寺が存在し広大な敷地を有していたが福山城築城までに廃れたといわれる[4]。杉原氏の支配は戦国時代まで続くが安土桃山時代になると備後国は福島正則の所領となり、慶長6年(1601年)の検地(福島検地)で常興寺山西側の杉原保は野上村と改称された。福島氏の時代には備後南部の中心地は福山城から北東約6キロメートルに位置する西国街道沿いの神辺となり、「神辺城」が備後国の政庁として整備された。海に対しては福山城から南約12キロメートルにある沼隈半島南端の鞆の浦が要衝となっていた。 元和5年(1619年)、備後国を治めていた福島正則が改易され水野勝成 が入封すると神辺城に代わる新たな城が築かれることになり、深津郡野上村の常興寺山(常興寺周辺)一帯が選定された。新たな城の築城に平行し周囲は城下町が整備されることになり、ここに城下町「福山」が誕生した。城下町の大部分は新開地であったこともあり、前述の通り以前は荒涼とした湿地帯を切り開いて形成されたと考えられていたが、平成19年(2007年)の発掘調査で城下南部(現在の福山駅前)の位置から稲作の痕跡が検出される[5]など、近年はある程度開発が進んでいた可能性が高いと考えられるようになった。築城は元和6年(1620年)に芦田川の流れを城の北側にある吉津川に分流しようとする工事が大水害により中断されるなど困難を極めたといわれ、福山城は築城開始から3年近くの歳月を要した元和8年(1622年)に完成した(藩の詳細な歴史については「備後福山藩」を参照のこと)。 築城に際して城地に含まれる常興寺は近隣の吉津村に移転され、城下西側(現在の西町一帯)となる野上村は城下南部の新開に移され現在の「野上町」となった。このため、旧野上村は「古野上村」と呼ばれた。なお、近年まで常興寺は戦国時代には廃れていた[2]とされていたが、前述の胎蔵寺の文書発見に伴う資料[6]の再検証により少なくとも寛永16年(1639年)までは存在が確認されている。また、野上村についてもこれまで寒村的な扱いであった[2]が、これも資料の不足などから村の移転が見過ごされ、移転前と移転後の両者が混同されたことにより誤解されたもので、実際には古代からの歴史を持ち慶長6年(1601年)の時点で800石あまりの生産高を持つ有力な村であった。この他、芦田川を挟んだ神島周辺にあった神島市(市場)は追手御門前に移され、神辺城下からは多くの寺社が移転させられるなど、周囲の様々な施設を再配置し都市機能が整備された。 福山は築城初期には12町を数え水野末期までに30町に増えたといわれる。最初期の町並みの様子は資料がなくよくわかっていないが、追手御門前にあった町屋は火災を契機として寛永18年(1641年)に周囲の寺社と共に城下南東に移されたという。その後は町割り自体に大きな変更が加えられることはなかったが、町域は町の発展と共に城下の外側へと拡大していった。水野家の断絶により、松平氏、阿部氏と続くがこの時代になると城下の規模は大きく変わらず明治時代まで続いた。幕末の慶応4年(1868年)には福山が長州軍(新政府軍)の攻撃を受けることになり、城下の手前まで進入した長州軍は城の北西(現在の市内北本庄町)にある円照寺に陣取り福山城の北側から大砲による攻撃を行い城北から進攻し小丸山や松山から城に銃撃を浴びせるが本格的な攻撃が始まる前に福山藩は恭順を許されたため、福山は大きな被害を受けることを免れた。明治維新後は廃藩置県により福山藩は福山県となり、それから数年の間に県名や県域の変更を繰り返した。そして、福山城は明治6年(1873年)の廃城令により廃城とされ城下町としての福山もその役割を終えることになった。この後、「福山町」となった福山はしばらく衰退の時代を迎えるが、明治24年(1891年)の山陽鉄道開通などにより再び勢いを取り戻すことになる(廃藩置県後の歴史については「福山市」を参照のこと)。 年表[編集] 元和5年(1619年) 築城が開始される。 元和6年(1620年) 洪水により工事が中断される。 元和8年(1622年) 福山城竣工。 寛永17年(1640年) 火災により神島町が焼失する[7]。 寛永18年(1641年) 神島町、延広八幡宮が城下南東に移転再建される。吉津橋、新橋が完成する[7]。 寛永19年(1642年) 下屋敷が完成する[7]。 延宝4年(1676年) 総構えの堀が石垣で築かれる[8]。 天和3年(1683年) 吉津川北岸に延広八幡宮と野上八幡宮を移した新営八幡宮が造営される。 元禄11年(1698年) 水野家断絶。 元禄12年(1699年) 侍屋敷が大火により焼失する。

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免疫原 – Wikipedia

免疫原(めんえきげん、英: immunogen)は、免疫系の構成要素(抗体やリンパ球)が特異的に結合する可能性のある抗原または物質である。抗原という言葉は、抗体の生成を誘発する能力に由来する。すべての抗原が特異的なリンパ球や抗体によって認識されるが、それらすべての抗原が免疫応答を引き起こすわけではない。免疫応答を引き起こすことができる抗原(免疫原)の能力は免疫原性(英: immunogenicity)と呼ばれる[1]。 免疫原という言葉は抗原という言葉と同じ意味で使われることもあるが、免疫応答を引き起こすことができるのは免疫原だけである[2]。一般的にはどちらも、抗体を生成する能力のある物質(抗原)または、免疫応答を刺激する能力のある物質(免疫原)である。 免疫原は、免疫応答を誘発するエピトープ(決定基)と高分子キャリアからなる完全な抗原と定義することができる[3]。明確な例としてはハプテンがある。ハプテンは低分子化合物で、抗体と結合することはあっても、免疫応答を引き起こすことはできない。その結果、ハプテン自体は非免疫原性であり、より大きなキャリア免疫原性分子と結合するまでは免疫応答を起こすことができない。ハプテン-キャリア複合体は、遊離ハプテンとは異なり、免疫原として作用し、免疫応答を誘発することができる[4]。 1959年までは、免疫原と抗原という言葉は区別されていなかった[5]。 使用されるキャリアタンパク質[編集] これは、キーホールリンペット(Keyhole Limpet、スカシ貝(またはカサガイ、Megathura crenulataとも))から単離された銅含有の呼吸タンパク質である。哺乳類からの進化的距離、高分子量、複雑な構造のため、通常、脊椎動物では免疫原性を示す[6]。 これはロコ貝(Concholepas Concholepas)から単離されたKLHの代替品である(ブルーキャリア免疫原性タンパク質でもある)。KLHと同様の免疫原性を持っているが、溶解性に優れ、柔軟性に富んでいる[7]。 ウシの血清を原料とし、KLHやCCHと同様の免疫原性を持っている。カチオン化BSA(cBSA)は、免疫原性が著しく向上した高い正電荷のタンパク質である。この変化により、タンパク質に結合可能な抗原の数が増えている[8]。 OVAは卵白アルブミンとしても知られ、鶏卵白に含まれる主要なタンパク質(60~75%)である。OVAはジメチルスルホキシド(DMSO)に溶解するため、水性緩衝剤に溶解しないハプテンを結合させることが可能である。アジュバントを免疫原と一緒に注射することで、免疫応答を高めることができる[9]。 免疫学的アジュバント[編集] アジュバント(英: adjuvant、ラテン語: adiuvare (助ける))とは、さまざまなメカニズムで免疫応答を高める、抗原とは異なる物質のことである。免疫応答の例を次にあげる。 抗原曝露部位へのプロフェッショナルな抗原提示細胞(APC)の動員

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高田真治 – Wikipedia

この項目では、テレビプロデューサーの高田真治について説明しています。思想学者については「高田眞治」をご覧ください。 高田 真治(たかだ しんじ、1952年6月6日 – )は、日本のテレビプロデューサー。スカパーJSATホールディングス(スカパーHD)代表取締役会長、スカパーJSAT代表取締役執行役員会長。 日本テレビ放送網のプロデューサーとして活動後、メディア戦略局長、執行役員営業局長などを歴任。スカパーJSAT(旧・スカイパーフェクト・コミュニケーションズ)出向後は同社及び持株会社・スカパーHDの代表取締役社長を務め、2019年より両社の会長に就任している。 目次 1 人物・経歴 2 主な担当作品 3 脚注 4 関連項目 人物・経歴[編集] 岡山県出身。岡山県立岡山大安寺高等学校、一橋大学商学部を卒業後、1976年日本テレビに入社。同期入社に渡辺弘、小杉善信、柏木登(小杉、柏木とは大学も同期)などがいる[1]。 『特命リサーチ200X』、『世界まる見え!テレビ特捜部』、『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』などのチーフプロデューサーや、『デスノート』、『まだまだあぶない刑事』、『LOFT ロフト』など日本テレビ製作映画の制作総指揮を務めた。

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みやぎ県北高速幹線道路 – Wikipedia

登米IC側からの登米中田交差点 みやぎ県北高速幹線道路(みやぎけんぽくこうそくかんせんどうろ)は、宮城県栗原市の国道4号築館バイパス付近を起点とし同県登米市の三陸自動車道登米インターチェンジ(IC)に至る総延長24キロメートル (km) の地域高規格道路である。主要地方道築館登米線の別線として整備が進められ、2021年事業が完成した。 2011年(平成23年)11月24日、1期区間の宮城県栗原市築館萩沢加倉から同県登米市迫町北方までの8.9 km区間が、第1種第3級の一般道路[注 1]として当面上り線を利用した暫定2車線で開通した。案内標識は青色タイプが設置されている。 若柳南ICから登米市迫町北方(国道398号)までの1.9 km間が同年6月28日に先行開通していた。当初、先行区間の開通は同年3月17日であったが、東日本大震災の影響で延期されていた。なお、残りの区間である加倉ICから若柳南ICまでの7.0 km間は当初予定通り2011年(平成23年)内の開通に間に合った[1][2]。 同年11月21日、当道路を東日本大震災の復興支援道路とし、2期区間(中田工区)約4.7 kmが2011年度(平成23年度)第3次補正予算にて事業化された[3]。3期区間(佐沼工区)および4期区間(築館工区)は2013年度(平成25年度)に事業化された[4][5]。 2期区間が2018年(平成30年)12月25日に[6]、4期区間が2019年(令和元年)6月9日にそれぞれ開通[7]。事業中区間は、3期区間が当初開通予定を2020年度(令和2年度)末としていたが[8]、進捗の遅れから延期され2021年(令和3年)12月17日に開通した[9]。 また、東北道との交点にインターチェンジを設置する検討が進められ[10]、2018年(平成30年)8月10日には国土交通省から連結許可を受けた[11]。2022年(令和4年)3月には工事用道路の建設に着手されたが[12]、運用開始の時期は未定である[13]。 事業区間[編集] 1期区間 起点 : 栗原市築館萩沢 終点 : 登米市迫町北方(国道398号) 総延長 : 8.9 km 車線数 : 暫定2車線/計画4車線

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横浜南部市場 – Wikipedia

南部市場正門付近(中央卸売市場時代) 地図 横浜南部市場(よこはまなんぶしじょう)[注 1]は神奈川県横浜市金沢区鳥浜町にある、横浜市が設置し、現在は管理民営化されている市場[4]。民営の花き地方卸売市場横浜南部(後節参照)を併設する。2015年(平成27年)3月31日までは横浜市が管理・設置する横浜市中央卸売市場 南部市場であった。 横浜市中央卸売市場 南部市場は、横浜市民を中心とする地域住民(湘南方面・三浦半島)のための流通拠点として「卸売市場法」に基づき開設・運営されていた市場である。1973年(昭和48年)開場。1987年(昭和62年)には全国で初めて市場に面した海から海水をくみ上げて利用する「活魚用海水供給施設」が造られる。 2010年(平成22年)には、2014年(平成26年)度までに南部市場を本場に統合する中央卸売市場の再編計画が横浜市経済局により発表された[5]。2013年(平成25年)2月に公表された進捗状況では、計画通り2014年度末までに南部市場を中央卸売場としては廃止し、本場の一部整備が完了するが、統合に伴う本場全体の整備完了および供用開始は2016年(平成28年)度になるとしている[6]。このスケジュール通り南部市場は2015年(平成27年)3月末で廃止となり、本場に統合された[7](詳細は「横浜市中央卸売市場#統合・再編計画」を参照)。 中央卸売市場として廃止後の活用については「本場を補完する加工・配送および流通の場」(前述の通り民営化され「横浜南部市場」に改称)とする他、「賑わいを創出するエリア」として跡地の一部を整備する方針が示されており[8]、“食”に関連した集客施設「ブランチ (BRANCH) 横浜南部市場」が2019年(令和元年)9月20日に開業している[9][10]。また、花き部は民営地方卸売市場「花き地方卸売市場横浜南部」として開場している[8](後節参照)。 民営化後の主な施設 食の専門店街[11] ブランチ横浜南部市場[10] 中央卸売市場廃止以前の施設概要[12] (敷地総面積:168,227m2) 水産物部 青果部 花き部 冷蔵庫棟

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