Month: January 2021

ユニマットホールディング – Wikipedia

株式会社ユニマットホールディングは、ユニマットグループの持株会社。 現在の法人は2013年に設立した株式会社ユニマットゼネラルが商号変更したものである。 初代の株式会社ユニマットホールディングは、2013年4月1日に事業会社の株式会社ユニマットライフを吸収合併し、株式会社ユニマットライフに商号変更した[1]。 オーナー及びその親族が株式を保有する会社で、オーナー家の資産管理会社。 グループの中核事業会社は株式会社ユニマットライフ(4代目、現在の株式会社ユニマットライフとは異なる)であったが、2010年3月31日時点では株式会社ユニマットホールディング(初代)が33.7%直接保有、オーナー家が16.2%保有であり、上場企業であったユニマットライフは同社の子会社ではなかった[2]。2010年3月より子会社を通じユニマットライフに対し株式公開買付けを行い(マネジメント・バイアウト)、2010年8月にユニマットライフを間接完全子会社化した。 法人沿革[編集] 2013年 – 株式会社ユニマットホールディング(現法人)となる株式会社ユニマットゼネラル設立。 グループ沿革[編集] 1958年7月 – ユナイテッドスティール株式会社(株式会社ユニマットライフの前身)を創業し、鋼材・非鉄金属の輸出入及び販売を開始。 1963年9月 – ユナイテッドスティール株式会社が、自動販売機オペレーター業務(ユニマットブランド)を開始。 1972年1月12日 – 株式会社ユニマット(現・CFJ(シティグループ))設立。 1975年5月

Continue reading

名古屋市営振甫プール – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “名古屋市営振甫プール” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年2月) 名古屋市営振甫プール(なごやしえいしんぽプール)は、1933年[1]から2009年[2]まで愛知県名古屋市千種区に存在したプール施設である。 1933年、名古屋市最初の市営プールとして完成した[1]。競泳用の50mx9コースのプール、及び飛び込み競技専用プール、さらに約1万人の観客を収容可能なスタンドにナイター施設を備えたものであった。水泳大会開催時は多くの観衆が詰めかけ、露店も多く出店していたという。 プール完成直後の1933年9月30日には当時椙山女学校生徒の前畑秀子が女子200m平泳ぎの世界記録をこのプールでマーク[1]、戦後は古橋廣之進などがこの地で熱戦を繰り広げた。 なお水泳大会の他には、「水上音楽祭」と称したコンサートも開催されたことがある。1956年7月31日には、「第2回アサヒビールコンサート」として、来日したエドゥアルト・シュトラウス2世の指揮のもとで「水上ウィーン音楽の夕」と題した演奏会が開かれている。 1972年に一旦閉鎖[2]。敷地の一部を税務署や保育園の用地として分割した[2]後、1974年に大規模な改修工事が行なわれ、25mプールと幼児用プールに変更された。以降は水泳大会は開催されず、主に近隣住民の憩いの場として利用されてきた。 プール廃止へ[編集] 「泳心一路」の碑と千種区生涯学習センター 振甫プールを管理する名古屋市教育委員会は同プールの老朽化と入場者数の減少(さらに年中利用可能な温水プールの増加)、及び財政の効率化を理由に2008年に廃止を発表する。これに反対する近隣住民が保存運動を展開し12,000名分の署名を市に提出するも、翌2009年2月に施設閉鎖を正式決定し、同8月に取り壊し工事が行なわれた。2012年3月に名古屋市上下水道局千種営業所がこの地に移設されている。 かつてこのプールで活躍した古橋の揮毫による「泳心一路」の碑が隣接する千種区生涯学習センターの駐車場に2010年3月に建立している(2009年6月にこの書を贈った古橋は、同年8月2日にローマで客死している)。 最寄りのバス停であった名古屋市営バスの「振甫プール前」はプール廃止に合わせ、2009年3月より「振甫町」に名称変更された。

Continue reading

甲骨文字 – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2013年1月) 甲骨文字(こうこつもじ)とは、中国・殷(商)時代の遺跡から出土する古代文字。 古代中国でおこなわれた占卜を、当時の文字でカメの甲羅やウシの肩甲骨の上に刻みつけて記録したものである。漢字の原初形態であり、現在確認できる漢字の最古の祖形を伝えている。亀甲獣骨文字、甲骨文ともいう。 2017年、ユネスコが主催する「世界の記憶」に登録された。 甲骨文字は絵文字様であるが、文字としてすでに抽象性が高い段階に発達している。 現在確認できる最古の漢字であるため、甲骨文に現れた形から、なぜこのような字形になったかという字形解釈の典拠にされている。 殷[編集] 殷の卜占 (Oracle bone) では、亀の甲羅や獣の肩甲骨(甲骨)に小さな穴を穿ち、熱した金属棒(青銅製であったといわれている)を穴に差し込む。しばらくすると表側に卜形のひび割れが生じる。事前に占うことを刻んでおき、割れ目の形で占い、判断を甲骨に刻みつけ、爾後占いの対象について実際に起きた結果が追記された。その際に使われた文字が甲骨文である。 甲骨文字の記述によれば、殷代には、王が祭祀の軍事などの王朝の重要事項について甲骨占卜をおこない、その結果に従って政策を実行していた。そのため、殷王朝の政治は「神権政治」とも呼ばれる[1]。 発掘された甲骨文はもっぱら占いの内容が記録されている[注釈 1]。ただし、現時点で解読されている甲骨文字は発見された史料の20%程度であるといわれている。紀元前14世紀ごろのものから残っている。 しかし、甲骨占卜は純粋な占いではなかった。甲骨占卜の方法は、甲骨に熱を加え、発生したひび割れの形で将来を占うというものであったが、「吉兆」が出やすいように事前に加工がされていたのである。殷代の甲骨は裏側に窪みが彫られており、それによって表側に出現するひび割れの形をコントロールできたのである。つまり、見かけ上では、甲骨占卜によってあらわれた神の意志によって政治をするという形なのだが、実際には王が実行したい政策を甲骨占卜を通して正当化していたのである。 殷王朝は、最初の王朝よりもさらに広い範囲を支配したが、統治技術は未発達であり、後の時代のような封建制や官僚制は存在しなかった。そこで、王は占いと文字を利用して自らの権威を高め、王朝の統治に利用していたのである。[2] 甲骨には朱が塗り込められ、神と交信する地位としての王の神聖性などを示す意味があったともいう。董作賓による書風の分類では 雄偉 謹飭 頽靡 勁峭 厳整

Continue reading

はまな (補給艦) – Wikipedia

はまな(ローマ字:JS Hamana、AOE-424)は、海上自衛隊の補給艦。とわだ型補給艦の3番艦。艦名は浜名湖に由来する。「AO-411 はまな」に続き日本の艦艇としては2代目。 米海軍駆逐艦「カーティス・ウィルバー」及び仏海軍フリゲート艦「プレリアル」と共同訓練を実施中の「はまな」。 「はまな」は、中期防衛力整備計画に基づく昭和62年度計画8,100トン型補給艦4014号艦として、日立造船舞鶴工場で1988年7月8日に起工され、1989年5月18日に進水、1990年1月29日に公試開始、同年3月29日に就役し、自衛艦隊に直轄艦として編入され佐世保に配備された。 1994年6月24日、護衛艦隊に直轄艦として編入された。 1996年5月19日、護衛艦「ひえい」、「たちかぜ」、「きりしま」、「やまぎり」、「ゆうぎり」、「せとぎり」、「さわぎり」、「うみぎり」、潜水艦「なつしお」とともに環太平洋合同演習RIMPAC96に参加する。 2000年5月15日、リムパック2000に参加するため、本艦を旗艦として護衛艦「くらま」、「しまかぜ」、「こんごう」、「むらさめ」、「はるさめ」、「ゆうだち」、「きりさめ」、「あさぎり」、潜水艦「なつしお」とともに横須賀基地を出港した。5月26日に真珠湾に寄港し5月30日から7月6日までハワイ周辺海域で演習に参加し、サンディエゴを回り、8月16日に横須賀へ帰投した。 2001年11月9日、第1次派遣海上補給支援部隊として、テロ対策特別措置法に基づき、護衛艦「くらま」・「きりさめ」と共にインド洋に派遣された。12月、インド洋上でアメリカ海軍への燃料補給を開始し、2002年2月まで任務に従事し、3月16日帰国した。 同法に基づくインド洋への派遣は以後2007年7月まで、合計6回に及んだ。 2002年6月8日、第2次派遣海上補給支援部隊として、護衛艦「せとぎり」と共にインド洋へ。同年9月まで任務に従事し、11月26日帰国した。 2003年4月10日、第5次派遣海上補給支援部隊として、護衛艦「こんごう」と共にインド洋へ。6月4日、ドイツ海軍への燃料補給を開始し、同年7月まで任務に従事し、8月22日帰国した。 2004年8月10日、第10次派遣海上補給支援部隊として、護衛艦「きりしま」、「たかなみ」と共にインド洋へ。同年12月まで任務に従事、帰路の最中にスマトラ島沖地震の発生を受け、国際緊急援助隊派遣法に基づいてタイに派遣され、遺体収容等を行い(自衛隊タイ派遣)、2005年1月10日帰国した。 2005年7月28日、第13次派遣海上補給支援部隊として、護衛艦「いかづち」と共にインド洋へ。以後、2隻派遣体制となる。同年11月まで任務に従事し、12月27日帰国した。 2006年4月3日、護衛艦隊隷下に第1海上補給隊が新編され編入された。 2007年3月15日、第18次派遣海上支援部隊として、護衛艦「すずなみ」と共にインド洋へ。同年7月まで任務に従事し、8月26日帰国した。インド洋に派遣中、4月26日のアブダビ寄港中に安倍晋三内閣総理大臣が訪問している。 2008年7月24日には新テロ特措法に基づき、護衛艦「ゆうだち」と共にインド洋に派遣され、同年11月まで任務に従事し、12月21日帰国した。 2018年6月21日朝、東シナ海の公海上(上海の南南東約400kmの沖合)で北朝鮮船籍のタンカー「YU PHYONG 5号」(IMO番号:8605026)と船籍不明の小型船舶が、国連安保理決議で禁止されている「瀬取り」とみられる作業を行っていたことを確認した[1]。

Continue reading

八戸市立江陽小学校 – Wikipedia

八戸市立青潮小学校(はちのへしりつ こうようしょうがっこう)は、青森県八戸市江陽5丁目にある公立小学校。 1952年(昭和27年) 1953年(昭和28年)6月30日 – 増築校舎竣工(教室6・東側昇降口・校長室・職員室・用務員室・宿直室・保健室・湯沸室・物置)。 1954年(昭和29年)10月22日 – 増築校舎竣工(教室4・西側便所・西側昇降口)。 1955年(昭和30年)4月25日 – 音楽室竣工。 1957年(昭和32年)8月31日 – 体育館(186坪、613.8㎡)竣工。 1958年(昭和33年) 4月1日 – 八戸市立江陽小学校と改称。 4月7日

Continue reading

広瀬橋 (仙台市) – Wikipedia

上流側から(2005年7月) 下流側(2009年4月) 旧永町橋の礎石(2006年10月) 橋供養碑と橋姫明神社(2009年2月) 広瀬橋(ひろせばし)は、宮城県仙台市にある広瀬川にかかる橋である。宮城県道54号井土長町線が通り、若林区河原町と太白区長町を結ぶ。江戸時代には長町橋といい、奥州街道を通して仙台の入口にあたる重要な橋であった。また、1909年に架けられた前代の橋は、日本初の鉄筋コンクリート橋と言われる。(実際には1903年に架けられた京都の琵琶湖疏水運河第3トンネル東口のメラン式弧形桁橋の第11号橋が日本初の鉄筋コンクリート橋であり、現存する)現在の橋は橋長126.7メートル、橋幅22メートルの鋼桁橋である。 江戸時代初めに設定された奥州街道沿いの橋として、長町橋(永町橋)の名で架けられた。仙台の城下町の入口にあたり、大水でしばしば流されたがその都度架け替えられた。南に接するのは長町宿で、その運送業者は壊れて流された橋のために橋供養の碑を立てて祀った。いつの頃か、橋を建てるときの人柱になった娘のためのものという伝説が生まれ、橋姫明神社という祠ができた。祠の左右に橋供養の碑とかつて長町橋の柱を据えた礎石がある。 1909年(明治42年)に、日本初の鉄筋コンクリート橋と言われる橋が架けられ、頻繁な破損と架け替えの歴史は終わった。1935年には長町まで延びる仙台市電のために別の橋が隣に架けられた。1959年に現在の新しい橋ができたとき、市電はその橋の中央を通ることになった。1976年に市電が廃止されると、その部分は車道になった。 江戸時代の長町橋[編集] 江戸時代初めに奥州街道の長町橋として架けられた。江戸時代初期の城下町拡張によって、橋を渡った北岸の河原町が仙台城下の南の入口となった。 長町橋は大水で度々流され、その度に架けなおされた。橋の右岸上流側には木流堀の出口と、材木を引き上げる木場があり、付近に運送業者(伝馬、駕籠かきなど)が多数住んだ。そこで働く人々は、文政6年(1823年)に流された橋のために橋供養の碑を建てて祀った[1]。橋の南詰め西側に置かれたもので、後に人柱になって埋められた娘を供養した碑だという伝説が生まれ、橋姫供養碑とも呼ばれた。一時近所の十八夜観音堂に遷された。後に元の位置に橋姫明神社という祠が作られ、橋供養碑はその脇に移された[2]。 明治の長町橋[編集] 1889年(明治22年)に、煉瓦造りの橋脚の上に木と鉄で組んだハウトラス橋が架けられた[3]。橋脚は3個あった[† 1]。 次第に腐朽したため、宮城県は明治35年(1902年)に改築計画を立てたが、予算がつかず、仮橋を架設した。しかしその仮橋も腐朽したので、危険になり、いよいよ架け替えが避けられなくなった[4] 1909年の広瀬橋[編集] 宮城県ははじめ長さ70間、幅3間(長さ127メートル、幅5.5メートル)の鉄橋で架け替えることを計画していたが、交通の増大と将来の電気鉄道敷設を考慮して、幅66尺6寸(約10メートル)の鉄筋コンクリート橋に変更された。計画では、従来の橋台の幅を広げ、新しく橋脚を2台増設し、その拡張・増設部分はコンクリート造で表面に煉瓦を張ることとした[5]。 1909年(明治42年)6月に着工、11月に完成した橋は、広瀬橋と名を改めた。長さ127メートル、幅10.3メートルで、車道と歩道を分離して設け、工費7万5000円を費やした[6]。材料のセメントは北海道セメント(太平洋セメント北海道工場の前身)、鋼は八幡製鉄所が供給し[7]、高欄は東京美術学校が制作した[8]。 広瀬橋は建設当時から日本で最初の鉄筋コンクリート橋と言われてきた[9]。しかし、鉄筋コンクリート橋としては1903年(明治36年)に琵琶湖第一疏水に架けられた第11号橋のほうが古いようである[† 2]。 1935年(昭和10年)7月31日に、仙台市電長町線のため、市電用の軌道専用橋が道路橋の川上に並んで架けられた[10]。長町線の開通は翌年12月11日のことであった。

Continue reading

決まり手 – Wikipedia

決まり手(きまりて)とは、勝敗が決した際の技のことである。 極まり手(きまりて)とも表記される。決まり手には技と非技(勇み足など自滅的なもの)があり、前者を「決まり手」、後者を「勝負結果」として区別する場合もある。また、髷(まげ)を引っ張る、まわしの前袋が外れる(不浄負け)などの反則・禁手による決着もある。 相撲の技を言葉で表現しようとする試みは、戦国時代(16世紀後半)に始まるといわれる。『信長公記』に相撲の記事があり、その中で勝負の結果を決まり手も含めて表現したことが始まりとも伝えられる。この時代には土俵がなかったので、投げ・掛け・反り・捻りのいわゆる四十八手が言われていた(元禄年間(1688~1704年)に四十八手に分類されたとも伝わる)。18世紀に土俵が完成してから、寄り・押し系の決まり手も生まれた。 戦前までは、各種マスコミにより決まり手報道はばらばらであったため、1955年に日本相撲協会は決まり手68手と非技2つ(勇み足と腰くだけ)を決め、場内放送で公式に流すことにした。また、日本相撲協会の星取表にも十両以上の決まり手を掲載するようになった。1960年に出し投げが上手出し投げと下手出し投げに分かれ、また切り返しから河津掛けが分離し、70手となった。2000年にそれまでの決まり手に技12手、非技3つが加えられ、現在は技は82手、非技は5つある。アマチュア相撲でも、大相撲にならって決まり手を決定している。 決まり手の決定は決まり手係の親方が判断する[1]。最初は十両以上の取組に限られていたが、現在はすべての取組に対して場内放送が行われる。ただし、星取表への掲載は十両以上である。 本場所での場内放送のアナウンスでは「ただいまの決まり手は○○。○○で(力士の四股名)の勝ち」(上位5番を除く幕下以下および大相撲トーナメントなどの本場所ではない場合は「○○で(力士の四股名)の勝ち」)となっている。反則・非技の場合は「ただいまの一番は(力士の四股名)に、(「○○をする反則」または非技の内容)があり、(相手力士の四股名)の勝ちであります」とアナウンスされる。 寄り切り、押し出し、叩き込み、上手投げなどは頻繁に出現するが、反り技を中心に滅多に出現しない決まり手もいくつか存在する。珍しい決まり手が出たときには大いに報道される。なお、撞木反りのように1955年の決まり手制定以来出たことがないというものも存在する。 崩し、誘い、抑え込み、起し、極て技、出し技など48手ある。 出典[2] 平極め もみ極め 誘い四方大廻し 棒引き崩し 指ほどき引き崩し 盤石の構え 直線引きつぶし 手首吊りつぶし 寄りかぶせ吊り 寄り身平手吊り崩し 支え吊り込返し

Continue reading

アンリ・ラングロワ – Wikipedia

アンリ・ラングロワ(Henri Langlois、1914年11月13日 – 1977年1月13日)は、フランス政府が大部分出資するフィルム・アーカイヴであるシネマテーク・フランセーズ(Cinémathèque française)と映画博物館(Musée du Cinéma)の創設者である。 来歴・人物[編集] 誕生 – 戦前[編集] 1914年11月13日、トルコ共和国(当時オスマン帝国)イズミルに生まれたアンリ・ラングロワは、映画フィルムの保存および修復事業の先駆者であり、シネマテーク・フランセーズのフィルム修復技術者のひとりである。ジャーナリストの父を持ち、青春期をパリの名門リセ・コンドルセ校(Lycée Condorcet)で過ごした[1]。 彼は私費を投じて、ごくわずかなフィルムからこのアーカイヴの運営を始めた。創設時のフィルムの保管場所は、ラングロワの家のバスタブだったという話もある。だがその後数十年間で、コレクションは数千タイトルを数えるほどになった。 21歳のアンリ・ラングロワ、24歳のジョルジュ・フランジュ、そして28歳のジャン・ミトリは1936年9月2日、パリにシネマテーク・フランセーズの前身となるシネマ・アーカイヴをつくった。アーカイヴ創設時のフィルムはわずか10本。当時、映画フィルムは公開後に裁断されてマニキュアなどの原料とされていたが、それを買い集めたものだったという。それが1970年には6万本を超えた。所蔵されていたフィルムの大半は劣化しやすいセルロイド製で、長期間保存するためには厳しく管理された環境を必要とした。だが単にフィルムを保管するだけにとどまらず、ラングロワは破損したフィルムの修復や復元、上映を行った。 第二次世界大戦中は、ラングロワたちは数多くのフィルムをナチス・ドイツの手から救った。 人びとから忘れ去られそうなフィルムを救いたいというラングロワの願いには、ルーツがあると考えられる。第一次世界大戦中、彼の生まれ故郷の町は、破壊と略奪を受けた。ラングロワの子ども時代、イズミルはスミルナというギリシャ語の名前をもつ町だった。だがスミルナの港は、1919年にトルコ軍の基地を襲撃し一帯を占領したギリシャ軍によって、一部破壊された。1922年にはトルコ軍が町を奪還したが、この時にはギリシャ人の大半が国外に追放されたり殺されたりしたのである。 戦後[編集] 死後[編集] ラングロワの墓は、パリのモンパルナス墓地にある。墓石には、古今東西の映画の1シーンがコラージュされ埋めこまれており、「呪われた映画祭」の共催者であるジャン・コクトーが彼をたたえた言葉「我らの財宝を守る竜神

Continue reading
Exit mobile version