大覚寺統 – Wikipedia

大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて(南北朝時代には南朝として)皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の皇子であり第89代後深草天皇の実弟にあたる第90代亀山天皇の子、後宇多天皇が京都の外れの嵯峨野(京都市右京区)の大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。

両統迭立まで[編集]

正嘉2年(1258年)、後嵯峨上皇は後深草天皇(当時16歳)の同母弟恒仁親王(後の亀山天皇、当時10歳)を皇太子とし、そして翌正元元年(1259年)には後深草天皇から恒仁親王に譲位させた。後深草上皇にはその後皇子が生まれたが、後嵯峨上皇は文永5年(1268年)に後深草上皇の第2皇子の煕仁親王(後の伏見天皇、当時4歳)をさしおいて、亀山天皇の第2皇子の世仁親王(後の後宇多天皇、当時2歳)を皇太子に指名した。

その後、後嵯峨上皇は文永9年(1272年)に崩御するが、遺言状には後継者を指名する文言がなく、ただ次代の治天の指名は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけが示された。このため、後深草上皇と亀山天皇はそれぞれ次代の治天となることを望んで争い、裁定は鎌倉幕府に持ち込まれた。幕府は、後嵯峨上皇の正妻であり後深草上皇と亀山天皇の生母でもある大宮院に後嵯峨上皇の真意がどちらにあったかを照会し、大宮院が亀山天皇の名を挙げたことから亀山天皇を次の治天に指名した。その結果、亀山天皇はしばらく在位のまま政務を執り、文永11年(1274年)に皇太子の世仁親王(当時8歳)に譲位した。

しかし、幕府が後深草上皇の不満を受けて、建治元年(1275年)に煕仁親王(当時11歳)を皇太子に指名し、将来後深草上皇が次の治天となることを保証した。こうして発生した後深草と亀山の間の対立は、幕府によって、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立)し、院政を行うよう裁定された。

両統迭立後[編集]

後二条天皇の崩御後、父である後宇多上皇は「(後二条天皇の息子である)邦良親王が成人するまで」という条件で、後二条天皇の弟である尊治親王に皇位を継がせようとする。だが、尊治親王は後醍醐天皇として即位すると皇位を自身の皇子に継承させようと目論んだ。

これに後宇多法皇や皇太子邦良親王が反発すると後醍醐天皇は院政を停止して対抗し、更に鎌倉幕府打倒を画策する。このため、大覚寺統そのものが分裂の危機を迎える。持明院統や鎌倉幕府は邦良親王を支援し、親王が急死するとその息子の康仁親王を持明院統の光厳天皇の皇太子に据えて後醍醐天皇系への皇位継承を拒絶する姿勢を見せるが、元弘3年(1333年)に鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇復位によって木寺宮家(後二条天皇系)の皇位継承は否認される事となった。

建武の新政により、一時は皇統が大覚寺統(後醍醐天皇系)に統一されたかに見えたが、2年半にして崩壊。吉野に逃れた大覚寺統の天皇(南朝)と、足利尊氏に擁立された持明院統の天皇(北朝)の対立時代=南北朝時代となる。

観応の擾乱の際、京都を奪回して一時的に元号を統一した(正平一統)が、半年で崩壊する。後に足利義満の斡旋により、正式な譲位の儀式を行うとともに今後の皇位継承については両統迭立とするという条件で、大覚寺統の後亀山天皇が三種の神器を持明院統の後小松天皇に引き渡し、南北朝の分裂は終わった(明徳の和約(1392年)による南北朝合一)。

しかし南朝方の入京にあたって神器帰還の儀式は行われたものの正式な譲位の儀式は行われず、後亀山天皇への処遇は「天皇として即位はしていないが特例として上皇待遇」というものであった。そして以後の皇位が持明院統だけで継承されたため、大覚寺統の子孫は不満を抱き、南朝の遺臣が宮中の神器を奪取して立てこもるなどの抵抗を15世紀半ばまで続けた(後南朝)。

大覚寺統の天皇[編集]

系図[編集]

参考文献[編集]

  • 森 茂暁『南朝全史 大覚寺統から後南朝へ』(講談社選書メチエ、2004年/講談社学術文庫、2020年) ISBN 4065187745

関連項目[編集]