岸部一徳 – Wikipedia
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岸部 一徳(きしべ いっとく、1947年1月9日[1] – )は、日本の俳優、ベーシスト、作詞家。
本名は岸部 修三[1](きしべ しゅうぞう)。旧芸名は岸部 修三(きしべ おさみ)、岸部 おさみ。愛称はサリー[4]。
ザ・タイガース、PYG、井上堯之バンドのベーシストとして活躍し、その後俳優に転じている。身長181cm[2]。京都府京都市出身[1]。京都市立伏見工業高等学校建築科[4] 卒業。
所属事務所はアン・ヌフ[3]。沢田研二の個人事務所「株式会社ココロ」社長[5]。
来歴・人物[編集]
ザ・タイガース時代まで[編集]
京都市で生まれ育つ[4]。9人きょうだいの三男(すぐ下の四男が岸部四郎)[6]。父親は元憲兵であった。小学1年生の途中で伯母(父の姉)を頼って熊本県へ引っ越すが、一年後には再び京都へ戻る。その後も小学校だけで4回ほど変わるなど転校が多かった[6]。京都市立北野中学校で瞳みのると同級生となり、ともに牛乳配達のアルバイトをするなど親交を結ぶ。京都市立伏見工業高等学校建築科に進学、住居も左京区となる。別の高校に進んだ瞳とは交友がいったん途絶えるが高校2年生の頃に四条河原町で再会、森本太郎や加橋かつみも加えた4人で遊ぶようになった。1964年12月12日には地元の京都新聞夕刊の読者写真コンテストに「踊る若者たち」というタイトルで入選した作品に偶然写ったこともあった[4]。翌1965年に、4人によってバンド「サリーとプレイボーイズ」が結成され、これが「ザ・タイガース」の母体となった。このバンド名は当時の岸部が、『ロング・トール・サリー』(のっぽのサリー)に引っ掛けて「サリー」と仲間からあだ名されていたことに由来する。「サリー」のあだ名は後のザ・タイガース時代にも愛称となった[11]。岸部はバンドでベーシストを務める[4]。1966年にはボーカルに沢田研二を加えてバンド名を「ファニーズ」と改称、京都や大阪で高い人気を得る。
同年11月に上京し、グループは「ザ・タイガース」となった。同時にファニーズ時代の瞳に代わって岸部がリーダーとなる。また、グループを上京させた内田裕也の命でメンバーの芸名を決めた際、本名の読みを「おさみ」に変えている。
1967年2月5日、シングル『僕のマリー/こっちを向いて』でデビュー。B面の「こっちを向いて」は岸部によるボーカル曲である。ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ザ・スパイダースとは異なる若手GSとして脚光を浴び、ボーカルの沢田や瞳の大人気も相まって、シングル4枚目の『君だけに愛を』で一気に頂点へ上り詰め、以降解散まで「GSの王者」として君臨する。
当時はベーシストとしてだけでなく、一部の楽曲では本格的なバリトンヴォイスを披露した。タイガース時代のみならず、後のPYGや井上堯之バンド時代を通して、岸部のコーラスは沢田研二のボーカルを引き立てるために重要な要素であった。
当時のタイガースのファン層は10代の少女が中心だったこともあり、アイドルとしての人気は華やかな沢田と瞳に集中する反面、大人びた雰囲気であった岸部には男性ファンが多く付いていた。また、リーダーとして沢田をはじめメンバーから厚く慕われていた。また、メンバーの中でもかなりの音楽通として知られ、当時アメリカに滞在していた弟の四郎からの最新音楽情報もあり、タイガースのステージでのレパートリーは、主に岸部が選曲し、ギターの森本太郎がアレンジをするといった形で決められていった。
1969年、メンバーの加橋かつみの脱退を受け、弟の四郎(シロー)を新メンバーとして加入させる。1970年には四郎と『サリー&シロー』名義でアルバム『サリー&シロー トラ70619』を発売した。沢田単独でのテレビ出演などが増えてきたこの時期、「10円コンサート」などのロックフェスティバルに、沢田を除くタイガースのメンバーにムッシュかまやつやミッキー吉野らを加えた布陣で『岸部おさみグループ』と名乗り出演することもあった。
1971年1月24日、日本のミュージシャンとしては初の単独日本武道館公演となった「ザ・タイガース・ビューティフル・コンサート」をもってタイガースは解散した。
PYG時代[編集]
1971年2月1日に元タイガースの沢田研二、元テンプターズの萩原健一、大口広司、元スパイダースの大野克夫・井上堯之らとバンド「PYG」を結成し、同年4月シングル『花・太陽・雨/やすらぎを求めて』でレコードデビューした。この曲では、岸部が作詞を担当している。
岸部自身が志向していた音楽はディープ・パープル、レッド・ツェッペリン、ブラック・サバスといったハードロックであり、ライブではそういったレパートリーも数多く演奏していたが、所属事務所である渡辺プロのあくまでも商業ベースを貫く姿勢に、オリジナルにおいては思うような音楽が出来ず、また1972年中盤からは、既に俳優としての活動が多くなっていた萩原の主演するテレビドラマ『太陽にほえろ!』が人気番組となり、音楽活動への参加が難しくなったために、同年秋にPYGは事実上解散した。
PYG解散後は沢田研二と萩原健一を除いたメンバーで「井上堯之バンド」として独立する。
井上堯之バンド時代[編集]
井上バンド結成後は、沢田のバッキングや萩原主演作品のサントラを中心に活動した。1975年6月19日の鶴岡市民会館「沢田研二コンサート」をもって井上バンドを脱退、ミュージシャンを廃業する(レコーディング作品としては、沢田のシングル『時の過ぎゆくままに』が最後)。これは、岸部自身が「音楽的に向上する努力をしなくなったため」と語っているように、1970年代に入りクロスオーバー、フュージョンといった新しいジャンルの音楽の台頭を受け、沢田の楽曲や井上バンドの音楽性も時代に合わせた変化を遂げようとしていた時期にあった。だが、元来のストレートなハードロックを志向する岸部はその流れに懐疑的であり、かつスラップ奏法などの新しい演奏テクニックの修得に消極的だったことも廃業の一因となっている。それにより、リーダーの井上との関係が複雑化し、「脱退」という形で公表された。
岸部と沢田は、その後も現在に至るまで親密な関係を築いており、タイガース再結成や後述の「TEA FOR THREE」、また2011年9月よりスタートした沢田のコンサートツアー「沢田研二LIVE 2011-2012」[14] では再びベーシストとして沢田と共に活動しているほか、2007年1月の還暦祝いには、沢田から赤いちゃんちゃんこならぬ赤いベースギターを贈られた。
俳優転向から現在まで[編集]
1975年に、久世光彦プロデューサーの薦めで『悪魔のようなあいつ』に出演して、本格的に俳優に転身する[11]。転身にあたり、久世の紹介を受けて[15]、悠木千帆(後の樹木希林)と安田道代が興していた芸能事務所に面接を経て所属する[16]。1976年には、樹木の考案で[17]「岸部おさみ」から実父である岸部徳之輔の徳[18]、そして一から再出発という意味合い、樹木と仲のよかった市川森一から名前をもらって)で「岸部一徳」へと改名する[19]。
1990年、小栗康平監督の『死の棘』での演技で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞[4]。カンヌ国際映画祭でも本作はグランプリを受賞し、高評価を得た。主演俳優としても頂点に立つが、大林宣彦をはじめ、市川崑、北野武らからもラブコールを受けて作品の常連として出演するなど、その後も様々な役をこなすバイプレーヤーとして活躍する[11]。
俳優転向後も度々音楽活動を行っており、1981年から1983年のタイガース再結成に参加したほか、1988年タイガース・メモリアル・クラブ・バンドに参加し、2年程在籍した。1997年には沢田研二、森本太郎と共に、ロック・ユニットTEA FOR THREEを結成し(現在、活動休止中)、PYG時代〜井上堯之バンド時代を髣髴とさせるプレイを録音した。
2003年、木村拓哉との共演がシリーズとなっていた富士通「FMV」のCMでは、木村とCharがギターを弾くところにベースを弾きながら岸部が乱入するCMバージョンが製作され、ベースの腕前を披露した[11]。
弟の四郎が借金で苦しんでいる時、マネージャーを介してまとまった金銭を四郎に貸した。四郎が、マネージャーを通して後で返すと伝えると「返済不要」と告げたという[20]。
息子の岸部大輔は、パウンチホイールのベーシストとして2004年10月にCDデビューをしている。2008年11月公開の映画『GSワンダーランド』では同一の場面での登場はないものの、親子共演を果たした。また、2010年10月4日放送の『世にも奇妙な物語』にて、堀北真希主演でタイガースのサリー似の男性に恋をしている作品に、書店の店主役で出演している。2012年6月7日放送の『カエルの王女さま』第9話では、父が扮する井坂清忠の青年期を演じた。
2011年9月には沢田研二のコンサート・ツアー「LIVE2011〜2012」に森本太郎、瞳みのると共に参加[14]、33都市、全38公演すべて、全曲においてベーシストとして参加する。また、中学校時代からの親友で、ザ・タイガースのドラマーであった瞳みのるへのメッセージ・ソングとして「Long Good-by」を作詞した。その詞に沢田が補作詞し、森本が作曲して沢田が歌っている。この曲がきっかけとなり、瞳との38年ぶりのツアーでの再会となった。
2013年12月、タイガースが、1969年の加橋かつみ脱退以来、44年ぶりとなるオリジナル・メンバー集結によるライブを日本武道館や東京ドームなどで開催し、全公演に参加した[21]。2014年には、自ら俳優として出演するテレビドラマ『医龍4〜Team Medical Dragon〜』の劇中でシタールの演奏を披露した。
2015年、第23回橋田賞を受賞した[22]。
2017年に古稀(70歳)を迎えたが、瞳みのるによれば、タイガースのメンバーによる一徳の古希を祝う会を京都の先斗町で開いたという[23]。
エピソード[編集]
- 初期の『太陽にほえろ!』メインテーマや、「傷だらけの天使」のメインテーマでベースを弾いている[11]。
- 日本を代表するベーシストとして有名な後藤次利(元々はギタリストだった)に初めてベースの手ほどきをしたのは、岸部である[24]。
- レッド・ツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズが、来日公演の際にテレビで観た岸部のプレイに感動し、しきりに会いたがっていたという逸話もある。
「 | 初めて日本に行ったとき、「PYG」という日本のバンドをテレビで見た。そして、俺達の「Babe I Gonna Leave You」をやっていたんだ。ベースの奴はとんでもないスゴ腕でね。俺よりもいいんじゃないかと思ったぐらいだ。会いたかったんだが、結局会えずじまいだった。後にテツ(山内テツ)に会った時に「あれはお前か」と聞いたんだが、テツではなかったらしいよ。[25] | 」 |
テレビドラマ[編集]
配信ドラマ[編集]
- ドクターY〜外科医・加地秀樹〜シリーズ(テレビ朝日・auビデオパス) – 神原晶 役
- ドクターY〜外科医・加地秀樹〜 第1期(2016年9月28日 – 11月6日)
- ドクターY〜外科医・加地秀樹〜 第2期(2017年9月26日 – 10月31日)
- ドクターY〜外科医・加地秀樹〜 第3期(2018年9月15日 – 9月29日)[42]
映画[編集]
CM[編集]
- 「明治ミルクチョコレート」「デラ」「トースト・ココナッツ・バー」など。ザ・タイガースとして1967年から1970年までイメージキャラクターを務めた。
- 「取り替えるならインバータ」のキャッチコピーで人気を集めた。
- 2011年発売のリメイク版CMにも出演。さらに2014年7月発売の『俺の屍を越えてゆけ2』WebCMにも出演し、メイキング動画では「自分の歴史と繋がっている様で、特別な感情がある」との感想を語っている。
ディスコグラフィ[編集]
ザ・タイガース時代の作品はザ・タイガース#ディスコグラフィを参照、PYG時代の作品はPYG#ディスコグラフィを参照。
参加シングル[編集]
- いいのかな(ザ・ワイルド・ワンズ、コーラスのみ参加)
- 太陽にほえろ!メインテーマ(井上堯之バンド)
- 死んでもいい(沢田研二)
- 恋は邪魔もの(沢田研二)
- 時の過ぎゆくままに(沢田研二)
- 兄貴のブギ(萩原健一&水谷豊)
- 君を真実に愛せなくては他の何も続けられない(Tea for three)
など
参加アルバム[編集]
- サリー&シロー トラ70619(サリー&シロー)
- 太陽にほえろ!サウンドトラック(井上堯之バンド)
- 傷だらけの天使サウンドトラック(井上堯之バンド)
- JULIE III ’71 日生リサイタル(沢田研二)
- JULIE IV 今僕は倖せです(沢田研二)
- JEWEL JULIE 追憶(沢田研二)
- 比叡山フリー・コンサート(沢田研二)
- タイガース・メモリアル・クラブ・バンド(タイガース・メモリアル・クラブ・バンド)
- タイガース・メモリアル・クラブ・バンド II「ぼくと、ぼくらの夏」(タイガース・メモリアル・クラブ・バンド)
など
ザ・タイガース時代の岸部によるボーカル曲一覧[編集]
オリジナル曲[編集]
- こっちを向いて
- 雨のレクイエム
- 730日目の朝(加橋かつみとの掛け合いボーカル)
- ハーフ&ハーフ
- 世界はまわる
- 脱走列車
- 自由の哲学(サリー&シロー)
- マザー・ネイチャー(サリー&シロー)
- どうにかなるさ(サリー&シロー)
- しま模様の空(サリー&シロー)
- 羊大学校歌(サリー&シロー)
- 愛についての一考査(サリー&シロー)
- めちゃめちゃ陽気なバンドのテーマ(再結成タイガース・1982年)
カバー曲[編集]
- イエスタディ(ザ・ビートルズ)
- アズ・ティアーズ・ゴー・バイ(ザ・ローリング・ストーンズ)
- テル・ミー(ザ・ローリング・ストーンズ)
- ザ・ラスト・タイム(ザ・ローリング・ストーンズ)
- アイム・オールライト(ザ・ローリング・ストーンズ)
- ドック・オブ・ザ・ベイ(オーティス・レディング)
主な使用楽器[編集]
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- 500/1( Höfner 500/1)(1965年製)
- ザ・ビートルズのポール・マッカートニーの使用で有名なベースギター。そのボディーシェイプから通称「バイオリン・ベース」とも呼ばれる。アマチュア時代、ザ・ファニーズとして大阪・道頓堀筋のジャズ喫茶「ナンバ一番」で活動していた1966年3月26日、大阪にて¥61000で購入(「ザ・タイガース日本の青春」森本太郎の日記より)。以後、ザ・タイガース時代を通して岸部のメインベースとして使用される。ザ・タイガース解散後、PYG、井上堯之バンド時代は表舞台に出ることはなかった。1981年の「さよなら日劇ウエスタン・カーニバル」でのザ・タイガース再結成で久しぶりに使用しようとしたが、あまりの保管の悪さに加えメンテナンスの無さに既に使用に耐えうるものにはなっておらず、この時新しい・500/1を購入している。
- 1982年のザ・タイガース同窓会コンサートの模様を収録したビデオ「ALIVE」のインタビューシーンでは、タイガース時代の激しいステージアクションで腰骨が当たった裏面の塗装が剥げ落ち、ピックアップのエスカッションをガムテープでかろうじて固定してある状態の1本目を抱え、「もう音は出ないんですけど……」と語っていた。
- 以後、ザ・タイガースの再結成イベント等ではこの2本目のヘフナー・500/1を使用している。最初の500/1は加橋かつみを通じて修理したと言われる。
- また、経緯は不明であるが、2003年に木村拓哉、Charと共演した富士通のCM「FMV バンド編」で使用したカール・ヘフナー・500-1は岸部本人のものではなく、ザ・タイガースのギタリストで親友の森本太郎が率いるバンド「森本太郎とスーパースター」のベーシスト・海老沢雄一のものである。
- フェンダー・ジャズベース(1本目)
- ザ・タイガース時代の1967年に銀座山野楽器にて購入。色はサンバースト。ローズウッド指板で、リアピックアップ部分に大型のブリッジカバーが取り付けられている。ライヴやTV出演時に時折使用されたほか、ザ・タイガース主演映画「ザ・タイガース 華やかなる招待」でも使用している。
- またタイガース解散後もサブとしてスタンバイされており、昭和47年のNHK紅白歌合戦において、沢田研二の「許されない愛」のバックを演奏した際には、この1本目が使用された。
- フェンダー・ジャズベース(2本目)
- ザ・タイガース時代の1968年に旅行先のアメリカにて購入。色はサンバースト。メイプル指板で、ブロック(四角い)ポジションマークのモデルである。ザ・タイガース最後期のライヴやTV出演時に時折使用され、ザ・タイガース解散後はPYG、井上堯之バンド時代を通してメインベースとして使用された。また、1982年のザ・タイガース同窓会コンサートツアーでも使用された。
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