国際連合事務総長 – Wikipedia

国際連合事務総長(こくさいれんごうじむそうちょう、英語:Secretary-General of the United Nations、フランス語:Secrétaire général des Nations unies)は、国際連合の6つの主要機関のうちの一つである国際連合事務局の代表である。UNSGまたはSGと略称される。事務局及び事務総長の役割は国際連合憲章第15章(第97条から第101条まで)に規定されている。ただし事務総長の能力・選考方法・在職期間には解釈の余地があり、慣習的に定められている[1]。 事務総長の任務は国際連合内部の組織運営をめぐるものと加盟国における紛争などに際しての調停や国際連合が扱う諸問題についての発言などの両方が含まれる。位の位置付けとしては最も立場が高いとされ、国際連合の最高職に位置する。 その多忙さから世界で最も困難な仕事と形容される[2]。初代事務総長のトリグブ・リーは、1953年4月9日に次期事務総長となるダグ・ハマーショルドをアイドルワイルド空港(現・ジョン・F・ケネディ国際空港)で迎えた際に、ハマーショルドに事務総長の職を「世界で最も困難な仕事」と紹介している[3]。 選出と任命[編集] 事務総長は国際連合憲章の規定するところにより、安全保障理事会の推薦(勧告)を受けて総会によって任命される。勧告は安全保障理事会からのものでなければならないため、常任理事国は指名に対して拒否権を行使することができる。 事務総長になれる者の資格について国際連合憲章に規定は無いが、それまでの選考の前例に基づいた非公式な選考資格が設定されている。それによれば、事務総長の候補者は常任理事国の国民であってはならない[4]。1997年の総会決議51/241では事務総長の「最良の候補者」の選考において、選考される者の出身地域(大陸)と性別の平等に考慮すべきであるとしている[5]:5が、これまでに女性が事務総長になったことは無い。出身地域については前任の事務総長と同じ出身地域から選出された例は、第2代のダグ・ハマーショルドと第7代のコフィー・アナンのみである。これまでに任命された者は全てキャリア外交官だった[6]。 安全保障理事会における次期事務総長の選考プロセスは不透明で、しばしばローマ教皇のコンクラーベと比較される[7][8]。1981年以降安全保障理事会では次期事務総長を選定するための非公式な調査や投票を行ってきた。安全保障理事会は最終候補者の選定後、総会に勧告して承認を求める。これまでに総会で否認された候補者は1度もいない。安保理で異議が出たにもかかわらず総会の投票にかけられたのは、1950年の一度だけである[注釈 1][9]。 第8代の潘基文までは安全保障理事会の非公開会合のみで候補者が推挙されてきた経緯があり、批判も少なからずあった[10]。この為2016年末で任期満了となって退任する潘の後継を決定するに当たっては、安全保障理事会が最終候補者を推挙する事そのものは変わらないものの、国際連合発足以来初めて事前に立候補者を公募し、2016年4月に候補者全員が出席して行われる公聴会を開催して手続きの透明性を高めた[10]。この手続きで選ばれた最初の人物が、第9代で現任のアントニオ・グテーレスである。ただし安全保障理事会での最終的な候補者の決定は非公開で行われ、これまでの選出と同じプロセスを踏襲したため、総会議長は「加盟国の期待に応えておらず、開放性と透明性という新たな基準にも対応していない」と苦言を呈した[11]。 事務総長の任期の規定も国際連合憲章には無いが、1971年以降の全ての事務総長は5年の任期で任命されている。1961年以降の全ての事務総長が2期目の選考を受けており、1996年の選考でアメリカに拒否権を行使されたブトロス・ブトロス=ガーリ以外は2期目の再選を受けている。2期までという任期制限が非公式に設けられているが、これは1981年の選出で中国がクルト・ヴァルトハイムの3期目の選出に過去最多の16回の拒否権を投じたことを受けて制定されたものである。1981年以降3期目の就任を目指そうとした事務総長はいない。なお、第3代のウ・タントの在任期間(事務総長代理の期間を含む)は歴代事務総長の中で唯一10年を超えているが、これは2期目の途中で任期を暦年に合わせて1月1日から12月31日までとすることになったためである。 権限と義務[編集] 事務総長の役割は提唱者・外交官・公務員・最高経営責任者(CEO)のそれぞれの機能と責任を組み合わせたものと説明されている[12]。国際連合憲章では事務総長を国際連合の「最高行政責任者」(chief

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白雪姫 – Wikipedia

ガラスの棺に入れられた白雪姫 「白雪姫」(しらゆきひめ、低地ドイツ語:Schneewittchen、標準ドイツ語:Schneeweißchen)は、元々はドイツのヘッセン州バート・ヴィルドゥンゲンの民話とされている。[注釈 3][注釈 4]。 グリム兄弟の『グリム童話』(Kinder und Hausmärchen)に、KHM[注釈 5]53番、エーレンベルク稿(1810年手稿)では43番として収載されている。 話者は、「マリー」[16][注釈 6]ことマリー・ハッセンプフルーク(ドイツ語版)[20][注釈 7]である[22][注釈 8]。 タイトルおよび主人公の呼称の日本語訳名は「白雪姫」が一般的である。しかし、Schneewittchenが「雪のように白い子」の意[26][27]であることから、厳密に正確な日本語訳とするなら「雪白姫(ゆきじろひめ)」が正しい[27]。 ストーリー[編集] イラスト:オットー・クーベル(1930) ある国に、「白雪姫」と称される容貌に優れた王女がいた。しかし彼女の継母(グリム童話初版本では実母)である王妃は、自分こそが世界で一番美しいと信じていた。彼女が秘蔵する魔法の鏡は、「世界で一番美しいのはだれか」との問いにいつも「それは王妃様です」と答え、王妃は満足な日々を送っていた。 白雪姫が7歳になったある日、王妃が魔法の鏡に「世界で一番美しい女は」と訊ねたところ、「それは白雪姫です」との答えが返ってくる。怒りに燃える王妃は猟師を呼び出すと、「白雪姫を殺し、証拠として彼女の肺臓と肝臓(※作品によっては心臓となっている)を取って帰ってこい」と命じる。しかし猟師は白雪姫を不憫がり、殺さずに森の中に置き去りにする。そして王妃へは証拠の品として、イノシシの肝臓を持ち帰る。王妃はその肝臓を白雪姫のものだと信じ、大喜びで塩茹にして食べる。 森に残された白雪姫は、7人の小人(sieben Zwerge)たちと出会い、生活を共にするようになる。一方、白雪姫を始末して上機嫌の王妃が魔法の鏡に「世界で一番美しいのは?」と尋ねたところ「それは白雪姫です」との答えが返ってくる。白雪姫がまだ生きている事を知った王妃は物売りに化け、小人の留守を狙って腰紐を白雪姫に売りつける。そして腰紐を締めてあげる振りをして彼女を締め上げ、息を絶えさせる。 やがて帰ってきた7人の小人は、事切れている白雪姫に驚き、腰紐を切って息を吹き返させる。一方、王妃が再び世界一の美女を魔法の鏡に尋ねたことにより、白雪姫が生きている事が露見する。王妃は毒を仕込んだ櫛を作り、再度物売りに扮して白雪姫を訪ねる。白雪姫は頭に櫛を突き刺され倒れるが、小人たちに助けられる。

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大学入学資格検定 – Wikipedia

大学入学資格検定(だいがくにゅうがくしかくけんてい、英語: University Entrance Qualification Examination)とは、2004年度(平成16年度)以前の日本で実施されていた、日本の大学に入学する学力の有無を判定し、試験合格者は高校卒業者と同等の資格が得られる国家試験のことであった。大検(だいけん)と略称されていた。 2004年度(平成16年度)末に廃止され、2005年度(平成17年度)より高等学校卒業程度認定試験(高認)に移行している。 この大学入学資格検定という制度は、大学入学資格を有しない者(高等学校を卒業していない人)に対して、「高等学校を卒業した者と同等以上の学力があるかどうか」を認定するために検定を行い、その合格者に対して大学入学資格を与えるためのものであった。 大学入学資格検定に合格した者は、中学校卒業程度認定試験(中検)にも合格したものとみなされる。合格時に18歳未満であった者(その年度中に18歳になる者は除く)は、18歳になる年度から大学入学資格が与えられる。また、大学入学資格検定に合格している者は、高等学校を卒業した者と「同等以上の学力」があると認められるので、大学受験や就職の際の扱いは高等学校卒業程度認定試験の合格者と同じで(高卒認定試験では、大検で合格した科目は免除扱いになる。)、公務員試験や、国・都道府県・地方自治体が主催する各種国家資格試験での学歴要件を満たすことが多い。ただし、合格した場合であっても、民間企業への応募に際しては応募者を高校卒業扱いとするかどうかは、文部科学省所管の高等学校以外の学校卒業者と同様に企業によって判断が分かれる場合もある[1]。 出題は、主として多肢選択による客観式の検査方法で、解答はマークシート方式によっていた。1995年ころまでは合格難易度が高かったが、2000年代になって合格必要科目数が減ると同時に合格最低点が下がり、合格率は上昇した。 朝鮮学校などの卒業者は日本の学校教育法では高校卒業の資格とはならなかったので、これに対して大検を免除するべきかが議論となった。堤清二、橋爪大三郎等は、大学入学資格検定のかわりに「高等学校学力検定試験(高検)」を新設するべきだと主張していた。[2] 履歴書の学歴欄記入例 「平成○○年○○月 大学入学資格検定合格」 受検資格[編集] 以上のうち、どれかを満たす人が受検できた。かつては最後の条件が定められていなかったため、民族学校卒業者や就学免除者は、「就学義務猶予免除者等の中学校卒業程度認定試験」に合格しない限り受検資格がなく、特に民族学校卒業者は「就学義務猶予免除者等の中学校卒業程度認定試験」も受験資格がない場合もあった。 上記の条件を満たしていても、 高等学校の全日制の課程に在籍している者 高等専門学校に在籍している者 中等教育学校の後期課程に在籍している者 盲学校の高等部・聾学校の高等部・養護学校の高等部に在籍している者

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光源氏 – Wikipedia

日本のアイドルグループについては「光GENJI」をご覧ください。 光源氏(ひかるげんじ)は、紫式部の物語『源氏物語』の主人公。平安時代の公卿。一世源氏。近衛中将、大将、大納言、内大臣、太政大臣、准太上天皇を歴任。広大な四町の邸宅を造営し六条院と呼ばれる。『源氏物語』五十四帖中第一帖「桐壺」から第四十帖「幻」まで登場する。 なお「光源氏」とは「光り輝くように美しい源氏」を意味する通称である。 架空の人物であるが、さまざまな実在の人物をモデルとする説が唱えられている。モデルには最も有力候補で生い立ちや境遇が似ている源融説の他に、その父にあたる嵯峨天皇や醍醐源氏、敦慶親王、藤原道長、藤原伊周、源光、藤原実方など多くの人々の名前が挙げられている。その人物以外の他の平安貴族、(在原行平、在原業平、菅原道真など)の故事なども用いて脚色されていると考えられている。 桐壺帝の第二皇子として京都に生まれる。母は桐壺更衣。幼少の頃から輝くばかりの美貌と才能に恵まれ、「光る君(ひかるきみ)」と綽名される。母は三歳のとき亡くなった。母に似る女性藤壺への思慕が初恋となり、その面影を求めて生涯様々な女性と関係を持つ。父桐壺帝は光る君を東宮(皇太子)とすることを考えたが、実家の後援(後見)がないことを危ぶみ、また光る君が帝位につけば国は乱れると高麗人に予言されたこともあり、臣籍降下させ源氏の姓を与えた。 亡母に似ているとして父帝の後宮に入った藤壺を慕い、遂に一線を越えて子(後の冷泉帝)をなすが、密通の事実は世に知られることはなかった。この皇子の東宮時代から後見として支え、即位後に冷泉帝が事実を知り譲位を考えた時には固辞したが、後に臣下を越える准太上天皇を与えられた。以後、その邸宅の名を取って六条院と呼ばれる。 正妻は最初元服と同時に結婚した左大臣の娘葵の上、後に兄朱雀院の皇女・女三宮である。しかし源氏が理想の女性として育てた紫の上(若紫、紫の君とも呼ばれる)が葵の上の死後事実上の正妻であり、多くの夫人の中で彼女への愛が最も深かった。他、源氏の側室・愛人としては、六条御息所、空蝉、夕顔、末摘花、朧月夜、花散里、明石の御方などが登場し、従姉妹の朝顔斎院や六条御息所の娘の前斎宮(秋好中宮)にも心を寄せた。 宿曜の占いによれば「3人の子供をなし、ひとりは帝、ひとりは中宮、真ん中の劣った者も太政大臣となる」と言われ(「澪標」)、これは藤壺の子冷泉帝、葵の上との間に生まれた長男の夕霧、明石の御方の娘である明石の姫君の三人により実現した。ただし冷泉帝の出生は秘事であり、また公的には女三宮の生んだ薫が源氏の子(次男)とされている(なおこの占いのためもあってか、源氏は始め女三宮が身篭ったと聞いてもすぐには信じず、後に柏木との密通を知り納得した)。この他、六条御息所の遺児秋好中宮と、頭中将と夕顔との娘玉鬘を養女とした。 兄の朱雀帝即位後、その外戚である右大臣・弘徽殿女御派の圧力や尚侍となっていた朧月夜との醜聞もあって須磨、後に明石へ隠退。この時、明石の御方と結ばれ、後の明石の中宮となる姫君が誕生する。帰京後は即位した冷泉帝の後見として復帰、秋好中宮を養女に迎えて冷泉帝の后とした。その後太政大臣となった源氏は、その栄華の象徴ともなる広大な四町の邸宅・六条院を造営した。西南の秋の町(六条御息所の旧邸)は秋好中宮の里邸に、自らは東南の春の町に紫の上や明石の姫君と住んだ。また東北の夏の町には花散里を(後に玉鬘もここに迎えられた)、西北の冬の町には明石の君を配し、さらに二条東院にもかつての愛人たちを引き取って世話をした。 40歳を迎えたのを機に、冷泉帝より准太上天皇の待遇を受ける。栄華の絶頂に至った源氏だったが、兄朱雀院の出家に際し、源氏の正室にふさわしい高貴で有力な後見ある妻がいない事にかこつけて、内親王の庇護者にと姪・女三宮の降嫁を打診される。藤壺亡き後も今なお彼女への思いおさえがたく、女三宮が紫の上同様に藤壺の姪であることにも心動かされた源氏は、これを断る事が出来なかった。しかし結婚してみればただ幼いだけの女三宮に源氏は失望し、また女三宮降嫁に衝撃を受けた紫の上も苦悩の末病に倒れて、六条院の栄華にも次第に影が射し始めた。 やがて源氏自身がかつて父桐壺帝を裏切ったように、女三宮の密通が発覚する。一度は女三宮とその愛人の柏木に怒りをつのらせた源氏であったが、生まれた子ども(薫)を見て、これが若い日の罪の報いであったことに気づかされる(因果応報)。その後女三宮の出家と柏木の死でさすがに怒りも和らぎ、また亡き父帝も源氏の過ちを悟っていながら咎めなかったのではないかと思いを馳せて、源氏は生まれた子の秘密を誰にもいわず自分の子として育てる事になった。 最愛の紫の上の死後は、嵯峨に隠退して二、三年出家生活を送った後に死去したことが、後に「宿木」で述べられる。なお出家から死までは作中には描かれず、本文の存在しない「雲隠」が源氏の死を暗示するのみであるとも、また本文は失われたとも言われる。 現世の繁栄を享受しながら常に仏道を思い、にもかかわらず女性遍歴を繰り返すという人物造形は、次の世代の薫と匂宮にそれぞれ分割して受け継がれる。また、しばらく後に書かれた『狭衣物語』の主人公である狭衣大将にも影響を与えている。 堺屋太一は著書『日本を創った12人』(1996年、PHP新書全二巻、のちPHP文庫全一巻)において源頼朝・織田信長・徳川家康らと並んで光源氏を取り上げ、「平安貴族の典型としての光源氏は虚構の人物ながら後世の日本人に大きな影響を与えた」「光源氏は日本人が考える『貴族』『上品な人』の概念の原点」としている。また、堺屋は「日本には今なお『上品で名門で善人だが行財政の実務など現実の政治には能力も関心もない』という『光源氏型』の政治家が時々現れ、国民に支持される」として近衛文麿を例に挙げている。 国父になれる相を持ち、光り輝く美貌を持つ。文武に優れ、学問、詩歌、管弦、琴、舞楽、絵画、騎射の才も群を抜く。 京都の清涼寺に大きな阿弥陀仏があり、その説明書きによると阿弥陀仏は清涼寺に住んでいた源融の顔を模して作られたものであり、源融は光源氏のモデルと言われていることから光源氏の容姿はこの阿弥陀仏と同じであるという趣旨のことが書かれている。 関連項目[編集]

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ゲド戦記 – Wikipedia

『ゲド戦記』(ゲドせんき、Earthsea)は、アーシュラ・K・ル=グウィンによって英語で書かれ、1968年から2001年にかけて出版されたファンタジー小説のシリーズ名である。原題は『アースシー』(Earthsea)あるいは『アースシー・サイクル』(Earthsea Cycle)であるが、日本では岩波書店に所属していた装丁家の田村義也によって「ゲド戦記」と名付けられた[1]。「戦記」とあるが、戦争や戦闘が中心の物語ではない。また、ゲドが主人公として行動するのも最初の1作のみである。全米図書賞児童文学部門、ネビュラ賞長編小説部門、ニューベリー賞受賞。 英語圏におけるファンタジー作品の古典として、しばしば『指輪物語』『オズの魔法使い』と並び称される[2][3]。文学者マーガレット・アトウッドは『ハリーポッター』や『氷と炎の歌』など近年流行した幻想小説に影響を与えた作品として、『ゲド戦記』第1作の『影との戦い』を挙げている[4]。 作品一覧[編集] 日本語版は、清水真砂子の訳により、岩波書店から出版されている。岩波少年文庫、ハードカバー、内容は変わらないが、大人向けにデザインを変えた物語コレクション、映画化の際に発行したソフトカバーの4ヴァージョンが発売されている。 「影との戦い」のみ、同時代ライブラリー(現在は終刊)から発売されたことがある。 「影との戦い」A Wizard of Earthsea(原語版1968年、日本語版1976年) 「こわれた腕環」The Tombs of Atuan(原語版1971年、日本語版1976年) 「さいはての島へ」The Farthest Shore(原語版1972年、日本語版1977年) 「帰還 -ゲド戦記最後の書-」Tehanu, The

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日本電信電話公社 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “日本電信電話公社” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年5月) 日本電信電話公社(にっぽんでんしんでんわこうしゃ、英語: Nippon Telegraph and Telephone Public Corporation)は、かつて存在した日本電信電話公社関係法令による公法上の法人。略称は「電電公社(でんでんこうしゃ)」。 現在の日本電信電話株式会社(NTT)、NTTグループの前身である。 往年の三公社五現業の三公社のひとつ[注釈 1][注釈 2]。

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セト – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “セト” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年6月) セト(Set)は、エジプト神話における戦争の神。ヘリオポリス九柱神に数えられる。 大地の神ゲブを父に、天空の女神ヌトを母に持つ。二柱の間に生まれた四柱の神々の次男もしくは三男であり、冥界の神オシリスを兄に、豊穣の女神イシスを姉もしくは妹、葬祭の女神ネフティスを妹に持つ。配偶神は妹でもあるネフティスだが、彼女との間に成した子については神話に登場せず、また現代に伝わっていない。 オシリスとイシスの伝説において、兄オシリスを殺害し「兄殺し」の汚名を受け、オシリスとイシスとの間に出来た息子ホルスと王位を巡って争い敗れたためにセトは嫌われ者の神となり、悪神として捉えられた。セトの象徴となっている動物たちはみな、古代エジプトにおいて、人々に有害なものとされてきた存在であり、ファラオが直接狩りを行う風習が生まれるなどその嫌われようがうかがえる。しかしながら、セトは英雄的な一面も併せ持ち、太陽神ラーの航海では邪悪な大蛇アポピスからラーを守ることが出来る唯一の神とされ、讃えられた。 セトはジャッカル(エジプトジャッカル=オオカミ)の頭をした神であると思われているが、壁画などで表現されているセトの頭はツチブタのものである。一般的に四角い両耳、先の分かれた尾(パピルスの花)そして曲がって大きく突き出した鼻を持ち、犬、ツチブタ、ジャッカルのほか、シマウマ、ロバ、ワニ、ブタ、そしてカバなどとも結びつけられている。このため、想像上の動物(合成獣)をわざわざ作ってセトに充てたとする説も存在する。この正体不明な動物を英語では「セト・アニマル」と呼ぶ。このように様々な動物を合体させて想像上の動物を作り神に充てる例は多く、他にトエリスが挙げられる。 セトの図像が手にしているのは、生命を意味する「アンク(Ankh)」と権力と支配(統治)、権威と繁栄を意味する「ウアス(Ouas/ウス/ウァズ)」と呼ばれる杖である。ウアス杖は、王権の守護神や王が持つとされヒエログリフにもなっている。ウアス杖の頭は、セトやアヌビスの頭とされる。ウアス杖の先端は二股になっており、古くからある蛇避けの杖の名残であるとされる。 セトはセトゥ(Seth)、セテカー(Setekh)、セティ(Seti)、ステカー(Sutekh)、テューポーン(Typhon)など他の呼び名も持つ。 信仰の変遷[編集] 初期のセトは砂漠の神であり、砂嵐を引き起こしているとされるが、その一方キャラバンの守り神でもある。また、粗暴な性格を持つ戦争を司る神であるが、その武力が外に向けられると軍隊の守護神となり、悪邪アポピスからラーを守る役割とも合わさって軍神としての神格を持つようになり、信仰を受けるようになった。 次第にセトは元より信仰を受けていたホルスと取って変わるようになり、紀元前3000年代には特にナイル川下流部の下エジプトの王を後援・象徴する神となり、大いに崇められた。 ところが、時代を下るにつれて、オシリスがセトより重要な神と認知され始めたため、正反対の描写をされてきたセトは悪役の立場を背負わされ、遂には兄オシリスを殺すというエピソードまで生まれた(オシリスとイシスの伝説を参照)。そして、親の敵討ちに乗り出すホルスの敵役にされてしまう。 長らくエジプトの嫌われ者となったセトだが、第19王朝になって宗教上の復権を果たした。これはラムセス家のセトへの信仰とセトの名を冠したファラオ、セティ1世が即位したためである。「セティ」とは、「セト神による君主」という意味であり、セティ1世の息子であるラムセス2世はセトから弓の使い方を教えられるレリーフやホルスとセトに戴冠式の祝福をされる場面を表したレリーフを残し、セトは「王の武器の主人」という称号を受け、ファラオに武術を教える神として信仰された。

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ツチノコ – Wikipedia

ツチノコ(槌の子)は、日本に生息すると言い伝えられている未確認動物(UMA)のひとつ。横槌に似た形態の、胴が太いヘビと形容される。北海道と南西諸島を除く日本全国で“目撃例”があるとされる。 目撃談などによる特徴[編集] 井出道貞『信濃奇勝録』(1834年脱稿1886年出版)に描かれた「野槌」。下記の翠山の画とともに、最も古いツチノコの図像といわれる。 畔田翠山『野山草木通志』に描かれた「野槌」 普通のヘビと比べて、胴の中央部が膨れている[1]。 腹側に、通常のヘビにみられる「蛇腹」がない。 通常のヘビには瞼がないが、ツチノコは瞼がある。 2メートルほどの跳躍力を持つ[2]。高さ5メートル、前方2メートル以上との説や[3]、10メートルとの説もある[4]。 日本酒が好き[3]。 「チー」などと鳴き声をあげる[3]。 メスの歯はすきっぱである。 非常に素早い[5]。 高くジャンプする、シャクトリムシのように体を屈伸させて進む[3]、丸太のように横に転がる、尾をくわえて体を輪にして転がる、傾斜を登る時は胴体の前部を支点に後部を左右に移動させながら登る、などの手段で移動する[2]。 いびきをかく[5]。 味噌、スルメ、頭髪を焼く臭いが好きなヘビである。[3]。 猛毒を持っているとされることもある[1]。 ツチノコという名称は元々京都府、三重県、奈良県、四国北部などで用いられていた方言であった。わら打ち仕事や砧(布を柔らかくするために、槌で打つ作業)の際に用いる叩き道具「横槌」に、この生物の形状が似ている、とされることにちなむ。東北地方ではバチヘビとも呼ばれ、ほかにもノヅチ、タテクリカエシ、ツチンボ、ツチヘビ、土転びなど日本全国で約40種の呼称があり、ノヅチと土転びは別の妖怪として独立している例もある。 横槌。この道具に姿が似ているから「ツチノコ」とされる 縄文時代の石器にツチノコに酷似する蛇型の石器がある(岐阜県飛騨縄文遺跡出土)。また、長野県で出土した縄文土器の壺の縁にも、ツチノコらしき姿が描かれている。 奈良時代の『古事記』、『日本書紀』にはカヤノヒメ神の別名であり野の神、主と書かれてある。

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三浦知良 – Wikipedia

三浦 知良(みうら かずよし、1967年〈昭和42年〉2月26日 – )、日本のサッカー選手。JFL・鈴鹿ポイントゲッターズ所属。ポジションはフォワード。 Jリーグ史上最高齢の54歳でJ1リーグでプレーした経験を持ち、世界最高齢での得点記録を持っている。 日本代表としてもFIFAワールドカップ初出場に貢献。ワールドカップ地区予選では総得点を27点記録するも、ワールドカップ本大会へは未出場。Jリーグ年間最優秀選手賞1回、得点王1回、ベストイレブンを2回受賞、1993年にアジア年間最優秀選手賞を受賞。釜本邦茂と共に、国際Aマッチ1試合で6得点の日本代表1試合最多得点記録、通算得点記録(55得点)を持つ(2011年時点)[2]。 2012年にはフットサル日本代表としてフットサルワールドカップに出場した。 妻はタレント・ファッションモデルの三浦りさ子、長男は俳優の三浦獠太[3][4]、次男は格闘家の三浦孝太、親戚にビームス社長の設楽洋がいる他、俳優でDISH//のメンバーの北村匠海は24親等にあたる[5]。 幼年期[編集] 1967年(昭和42年)2月26日、父・納谷宣雄、母・由子の次男(長男は三浦泰年)として静岡県静岡市に生まれた[6]。母方の叔父はサッカー指導者の三浦哲治。知良(かずよし)という変わった読み方の名前は、父方の祖父に付けられたものだという[6]。1973年4月、静岡市立城内小学校に入学[7]。小学時代には、父方の伯父・納谷義郎が監督を務める城内FCに入っていた[8]。小学校4年生の時に両親が離婚。三浦姓を名乗るようになった[9]。 ブラジル時代[編集] 1982年12月、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずに8カ月で中退。ブラジルに単身で渡航し、CAジュベントスに所属[10]。当時の三浦は身長が低く、テクニックは持っていたものの他に一流と呼べるような強みはなく、指導者達はブラジルでプロのサッカー選手になりたいという三浦の夢は実現不可能だと考えていた[11]。1984年の秋頃、ジュベントスからECキンゼ・デ・ノヴェンブロ(通称:キンゼ・デ・ジャウー)へ移籍した[12]。 1985年頃には夢を諦めた上で日本に帰国することも一時検討したが最終的に翻意し、ブラジルでの下積みを継続した。後に本人が語ったところによれば、ふと寄ったリオの公園で現地の貧しい少年達がサッカーをしている様子を見かけたことが、帰国を思い止まる切っ掛けを作ったという。三浦曰く、その少年達の中には裸足の子や片足がない子もおり、ボールも古く汚いものだったが、皆楽しそうにボールを追っており、その様子を見て、「自分には両足も、スパイクも、いいボールもある。何を俺は贅沢なことを言っているんだ」と思い、帰国を思いとどまったとのことである[13]。同年8月、SBSユースに出場したキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋し、当時静岡高校選抜に選出されていた中山雅史、武田修宏らと試合を行った[14]。1986年1月[注 1]には、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ (U-21) に日本人として初出場した。同大会やキンゼ・デ・ジャウーの育成組織で活躍したことが、後のプロ契約に繋がっていった[12]。 1986年2月、サンパウロ州のクラブであるサントスFCと自身初のプロ契約[7]を結んだ。チームメイトであったドゥンガからはデビュー戦でのプレーを叱責された[15]。5月にはSEパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップでプロサッカー選手として帰国を果たし[7]、ヴェルダー・ブレーメン戦では、後に選手と会長という間柄になる奥寺康彦と数度に渡り激しくマッチアップ、またミランジーニャのゴールをアシストした[16]。 サントスFCで出場できたのは1部リーグ2試合のみに留まり、1986年10月にはパラナ州のSEマツバラへレンタル移籍。翌1987年の2月にはマツバラと正式契約を結ぶと、レギュラーとして南部三州リーグ優勝に貢献し[17]、同年10月にアラゴアス州のクルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(通称:CRB)に移籍した。このクラブでも三浦はレギュラーとして活躍し、日本人で初めてブラジル全国選手権への出場を果たした[18][19]。またこの時「日本のガリンシャ」とも呼ばれ注目された[20]。 1988年、かつてユース時代に所属したサンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍[7]。同年3月19日、SCコリンチャンス・パウリスタ戦で日本人としてリーグ戦で初得点を記録し、格上の人気チーム相手に3-2で勝利するという番狂わせ(いわゆるジャイアント・キリング)の立役者の一人[19][21]。このときの試合はブラジル全土にテレビ中継されていたため、「三浦知良」という日本人の名前がブラジル全土に知られるきっかけとなった[22]。同年にブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の年間ポジション別ランキングで左ウイングの第3位に選ばれた[23][24]。クラブでの活躍により、三浦はジャウー市から名誉市民賞を贈られている[25]。

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五箇条の御誓文 – Wikipedia

この項目では、1868年に布告された五項目からなる明治政府の基本方針について説明しています。朝鮮商工連と国税庁との間に取り交わされたとされる五項目の協定については「五項目の合意事項」をご覧ください。 五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん、五ヶ條ノ御誓文)は、明治元年3月14日[1](1868年4月6日)に明治天皇が天地神明に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針。正式名称は御誓文であり、以下においては御誓文と表記する。 起草の過程[編集] 明治新政府は大政奉還後の発足当初から「公議」を標榜し[2]、その具体的方策としての国是を模索していた。明治元年(1868年)1月、福井藩出身の参与・由利公正が、「議事之体大意」五箇条[3]を起案し、次いで土佐藩出身の制度取調参与福岡孝弟が修正し、そのまま放置されていた。それを同年3月に入って長州藩出身の参与木戸孝允が加筆し[4]、同じく参与の東久世通禧を通じて議定兼副総裁の岩倉具視に提出した。 福岡孝弟は、由利五箇条に対して第一条冒頭に「列矦會議ヲ興シ」(列侯会議ヲ興シ)の字句を入れるなどして封建的な方向へ後退させ、表題も「会盟」に改めたため、列侯会盟の色彩が非常に強くなった。さらに福岡は発表の形式として天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案した。しかし、この「会盟」形式は、天皇と諸侯とを対等に扱うものであり、「諸事神武創業之始ニ原キ」とする王政復古の理念にも反するという批判にさらされた。 そこで、参与で総裁局顧問の木戸孝允は、天皇が天神地祇(てんじんちぎ。簡単に言えば神)を祀り、神前で公卿・諸侯を率いて共に誓いの文言を述べ、かつ、その場に伺候する全員が署名するという形式を提案し、これが採用されることとなった。その際、木戸は、 福岡案第一条の「列侯会議ヲ興シ」を「廣ク會議ヲ興シ」(広ク会議ヲ興シ)に改め、 「徴士」の任用期間を制限していた福岡案第五条を削除して、 木戸最終案第四条「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」を新たに組み込み、 五箇条に続く勅語「我が国未曾有の変革を為んとし、朕、躬を以て衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの旨趣に基き協心努力せよ」新たに挿入させた その他、五箇条の順序を体裁良く整え直すなど、大幅に変更を加え、より普遍的な内容にした。また、議定兼副総裁の三条実美も福岡案表題の「会盟」を「誓」に修正したため、木戸による五箇条が「誓文」「御誓文」「五箇条誓文」「五箇条の御誓文」と呼ばれるようになった。木戸は後日、五箇条の意図について「天下の侯伯と誓い、億兆の向ふ所を知らしめ、藩主をして其責に任ぜんと欲し」たと述べている[5]。 儀式と布告[編集] 幟仁親王が揮毫した御誓文の原本[6] 御誓文の原本は、天皇の書道指南役であった有栖川宮幟仁親王が勅命によって儀式前日に清書した[6]。 3月14日、京都御所の正殿である紫宸殿にしつらえられた祭壇の前で、「天神地祇御誓祭」と称する儀式が執り行われた。御誓文の内容は、三条実美が神前で読み上げる形式で示された。なお、儀式の前には、天皇の書簡である御宸翰(億兆安撫国威宣揚の御宸翰)が披瀝され国民に下される。 儀式の式次第は以下の通り。まず、同日正午、京都に所在する公卿・諸侯・徴士ら群臣が着座。神祇事務局が塩水行事、散米行事、神おろし神歌、献供の儀式を行った後、天皇が出御。議定兼副総裁の三条実美が天皇に代わって神前で御祭文を奉読。天皇みずから幣帛の玉串を捧げて神拝して再び着座。三条が再び神前で御誓文を奉読し、続いて勅語を読み上げた。その後、公卿・諸侯が一人ずつ神位と玉座に拝礼し、奉答書に署名した。その途中で天皇は退出。最後に神祇事務局が神あげ神歌の儀式を行い群臣が退出した。 御誓文は太政官日誌(官報の前身)をもって一般に布告された。太政官日誌には「御誓文之御写」が勅語と奉答書とともに掲載されたほか、その前後には天神地祇御誓祭の式次第と御祭文や御宸翰が掲載された[7]。当時の太政官日誌は都市の書店で一般に販売されていたが、各農村にまで配布されておらず、一般国民に対しては、キリスト教の禁止など幕府の旧来の政策を暫定処置として踏襲する五榜の掲示が出された。 政体書体制での御誓文[編集] 慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に明治新政府の政治体制を定めた政体書は、冒頭で「大いに斯国是を定め制度規律を建てるは御誓文を以て目的とす」と掲げ、続いて御誓文の五箇条全文を引用した。政体書は、アメリカ合衆国憲法の影響を受けたものであり、三権分立や官職の互選、藩代表議会の設置などが定められ、また、地方行政は「御誓文を体すべし」とされた。このほか、同布告では、諸藩に対して御誓文の趣旨に沿って人材抜擢などの改革を進めることを命じている。 また、各地の人民に対して出された告諭書にも御誓文を部分的に引用する例がある。例えば、同年8月7日(1868年9月22日)の「奥羽処分ノ詔」は御誓文第一条を元に「広く会議を興し万機公論に決するは素より天下の事一人の私する所にあらざればなり」と述べ、同年10月の「京都府下人民告諭大意」は御誓文第三条を元に「上下心を一にし、末々に至るまで各其志を遂げさせ」と述べている。

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