クグロフ – Wikipedia

クグロフ(フランス語:Kouglof)はオーストリア、スイス、ドイツ、フランスのアルザス地方の菓子 。 ドイツ語ではグーゲルフップフ(Gugelhupf)、クーゲルホップフ(Kugelhopf)とも呼ばれるが、ドイツ語の表記には揺れが多く、南ドイツとオーストリアではGugelhupfまたはKugelhopf、スイスではGogelhopfと表記する。また、ドイツではナップフクーヘン(Napfkuchen)、トップフクーヘン(Topfkuchen)、ロドンクーヘン(Rodonkuchen)、アッシュクーヘン(Aschkuchen)、ブントクーヘン(Bundkuchen)とも呼ばれる。 名前の由来には中高ドイツ語のクーゲル(僧帽)+フップフ(酵母)が語源であるという説と、リボヴィレに住むクゲルという陶器職人の名が語源であるという説がある。 クグロフ型(斜めにうねりのある蛇の目型)にアーモンドとキルシュヴァッサーで香りをつけた乾し葡萄を入れ、ブリオッシュ風の生地を入れて焼き上げたもので、食べる前に粉砂糖をふりかける。 アルザス地方では日曜日の朝に焼くパンであり、アルザス産の白ワインによくあうといわれる。 オーストリアでは、どの家庭でもクーゲルホップフ型があり、クーゲルホップフ型で焼いたパンは全てクーゲルホップフと呼ぶ。また、オーストリアのクリスマスには欠かせないものである。 ルイ16世の王妃でウィーンで生まれ育ったマリー・アントワネットや、フランスに亡命したポーランド王スタニスワフ・レシチニスキの好物だった。レシチニスキが固くなったクグロフにラム酒をかけたところ美味であったことから、お抱え菓子職人に改良させた菓子をアリ・ババと呼び、サヴァランに似た風味で今も親しまれている。 参考文献[編集] 大森由紀子『フランス菓子図鑑 お菓子の名前と由来』世界文化社。 関連項目[編集] 外部リンク[編集] ウィキメディア・コモンズには、クグロフに関するカテゴリがあります。

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赤福餅 – Wikipedia

赤福餅(あかふくもち)は、三重県伊勢市の和菓子屋赤福の和菓子商品である。餅菓子であり、いわゆるあんころ餅の一種。餅を漉し餡でくるんだもので、漉し餡には3つの筋がつき、五十鈴川の川の流れを表しているとされる。餅は傾けて持ち帰ると崩れることがあるほど非常にやわらかい[要出典]。 「ええじゃないか」のテレビCMと「赤太郎」というキャラクターで知られる。中京・近畿圏のJR線主要駅や近鉄沿線の特急停車駅、サービスエリア、百貨店、空港売店など広範囲に発売されている(遠くは岡山県でも販売された)。この販売エリアは伊勢神宮の信仰が特に強い地域とほぼ等しいという説もある[要出典]。基本的に直営店と在庫を管理する営業所の近辺に限られる[要出典]。 伊勢神宮内宮前のおかげ横丁には茶店風の本店がある[1]。例年、夏場には「赤福氷」という抹茶氷に赤福餅を入れたものが供される[2]。冬場には赤福の餅と餡を使った「ぜんざい」が供される[1]。この「赤福氷」と「赤福ぜんざい」は、本店のほかに、伊勢志摩地区・名古屋地区・大阪地区の一部の直営店でも季節限定品として供されている[1]。 赤福経営者である濱田氏は、濱田ます(8代当主・種三の妻、企業としての赤福初代社長)の口述によると、先祖は応永年間(1394年 – 1427年)に宇治に移住してきた。それ以前のことは不明である[3]。 赤福の正確な創業年は不明だが、江戸時代初期には皇大神宮(伊勢神宮内宮)前、五十鈴川のほとりですでに「赤福」の屋号を持つ餅屋を営んでいたといわれる。1707年(宝永4年)執筆、1708年(宝永5年)刊行の市中軒の浮世草子『美景蒔絵松』に、伊勢古市の女が「(恋仲になった男が)赤福とやら青福とやら云ふあたゝかな餅屋に聟に入りを見向きもしなくなってしまい、その裏切りがくやしうて泣いております」と嘆いたという話があり、これが「赤福」の屋号の初出である。そのため、現在は1707年を赤福の創業年としている[4]。 また、薗田守理『秘木草紙』によると、古老の話として、昔の赤福はささやかな店で、今の濱田氏と血縁のない浜田という老女が経営していたという[5]。 「赤福」の名は1895年(明治28年)の『神都名勝誌』では、餡を入れた餅を大福と呼ぶ対比として、赤い餡をつけた餅であるから赤福と称したと推察している。1929年(昭和4年)の『宇治山田市史』ではこの説を採用し、その他の説はこじつけであるとしている[6]。赤福のホームページではまごころ(赤心)をつくすことで素直に他人の幸せを喜ぶことができる(慶福)という意味の「赤心慶福」(せきしんけいふく)に由来するとしている。言い伝えによると、京都から来たお茶の宗匠があんころ餅を「赤心慶福」と讃え、創業者の治兵衛がそれを聞き屋号と製品名に採用したという[7]。名前の「赤」にちなんで包装も商品名のロゴも赤いが、菓子自体の色は厳密には小豆色であり赤ではない[8]。 赤福もち製造風景。現在は、手作りは本店での喫食分などに限られる。 当初は、砂糖を使っておらず、塩味の餡であった。1727年、江戸幕府の8代将軍、徳川吉宗が砂糖の原料となるサトウキビの栽培を奨励し、砂糖の生産高が増えたことから、赤福も次第に黒砂糖餡を使うようになった。1911年(明治44年)、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が神宮参拝の折、赤福餅をご注文された。赤福は、甘みと灰汁の強い黒砂糖餡では、「皇后陛下のお口に合わないのではないか」と案じ、白砂糖餡の特製品を献上した結果、無事好評を博したという。この結果、一般販売にも白砂糖餡を使うようになり、現行の赤福餅が完成した。赤福では、昭憲皇太后のご注文を受けた5月19日を「ほまれの日」と定め、包装紙にも「ほまれの赤福」と称するようになった[9]。しばらくの間は、黒砂糖餡を「赤福」、白砂糖餡を「ほまれの赤福」として販売していたが、その後、後者に統一された。なお消費期限および製造日、原材料表示偽装事件(製造後冷凍していたものを、随時解凍した際の日付で製造日を改竄していた)発覚後、営業再開した新パッケージでは、「ほまれの」という文字は削除された[要出典]。なお現在、パッケージの包み紙には「ほまれ」の文字が記載されている。 本店での店頭では、手作りの実演販売がされているが、現在は手作り品はその場で提供する分など一部に限られる。包装品は原則として工場生産である。工場は1977年(昭和52年)より、本店そばから伊勢市朝熊町に移転した。さらに、朝熊町の工場は操業能力や津波対策に問題があるとして、2019年度(令和元年度)には伊勢市神薗町の神薗工業団地への再移転工事が始まる予定である[10][11]。 赤福は、「赤福」「ほまれの赤福」を併売していた時期などを別にすると、原則として通年販売は1種類のみだった。2018年7月15日、前年の全国菓子大博覧会で好評だった「白」、かつて販売していた黒砂糖餡の「黒」、そして新製品として大麦若葉で色をつけた(冬期はヨモギを使用)「緑」を追加し、従来の「赤」とあわせて4種類の赤福をセットにした「いすず 野あそび餅」を販売開始した[12]。2019年5月20日からは、とうもろこしで色をつけた「黄」を発売予定である[13]。「いすず 野あそび餅」は、五十鈴川店のみ販売となる。 歴代社長[編集] 赤福社長 パッケージと製品表示[編集] 商品包装紙の上面には伊勢神宮の神殿と内宮前の宇治橋が、底側には赤福にちなんだ俳句が記されている。子規と虚子の句と包装にあるが、正岡子規については出典不明であるという[14]。また箱の中には、「伊勢だより」というその日にちなんだ文章と絵の入った紙片が入っており、500種類ほどある[要出典]。 保存料を使わない生菓子であり、本来の消費期限は夏期は製造年月日を含め2日間、冬期は3日間である。創業300年となった2007年に、冷凍保存していた製品を、解凍日を製造年月日として出荷していたこと、さらに売れ残り商品の再利用をしていたことが明るみに出た。三重県が10月19日より「赤福」を無期限の営業禁止処分としたことで(2008年1月30日に解除)、経営問題に発展した。このことについては、後掲消費期限および製造日、原材料表示偽装事件を参照。

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成瀬雅春 – Wikipedia

成瀬 雅春(なるせ まさはる、1946年1月25日 – )は、ヨーガ行者。ヨーガ指導者、精神世界・スピリチュアル系の著作家。成瀬ヨーガグループ主宰。倍音声明協会会長。朝日カルチャーセンター講師。修行名はアーカーシャ・ギリ(虚空行者)。サクソフォン奏者でもある。 「ヨーガ奥義書」シリーズ 『ヨーガ奥義書1巻 空中浮揚』出帆新社、1992年 『ヨーガ奥義書2巻 呼吸法の極意』出帆新社、1992年 『ヨーガ奥義書3巻 ハタ・ヨーガ』出帆新社、1994年 『ヨーガ奥義書4巻 瞑想法の極意』出帆新社、1995年 『ヨーガ奥義書5巻 クンダリニー・ヨーガ』出帆新社、1997年 『ヨーガ奥義書別巻 実践ハタ・ヨーガ』出帆新社、1999年 『実践・魂を磨く』 出帆新社、1993年

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カーネーション (清春の曲) – Wikipedia

「カーネーション」は、清春の楽曲。10枚目のシングルとして2006年12月13日にバウンシーレコーズから発売された。 通常盤と初回限定盤の二種類が発売された。初回限定版にはDVDが付属している。「adore」は通常盤にのみ収録されている。 「カーネーション」はテレビ東京系アニメ『ヤマトナデシコ七変化♥』のエンディング・テーマに起用された。 PVには女優の秋吉久美子が出演している。[1] 初回限定盤[編集] CD 全作詞・作曲: 清春、全編曲: 清春/三代堅。 # タイトル 作詞 作曲・編曲 時間 1. 「カーネーション」 清春 清春 4:40 2.

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UBS – Wikipedia

この項目では、金融グループについて説明しています。その他の用法については「UBS (曖昧さ回避)」をご覧ください。 ユービーエス AG(UBS AG)およびユービーエス グループ AG(UBS Group AG)は、スイスのチューリヒおよびバーゼルに本拠を置くスイス最大の銀行であり、世界有数の金融持株会社。プライベートバンク部門が預かり管理する資産(AUM)は2兆4030億USドル(2018年。円換算262兆円)と世界最大である。(AUM=Asset Under Management) (収益源が多様化する現在の金融業界においてはバランスシート上の資産による規模比較は意味がなく、欧米ではAUMでの比較が一般的) 資産 1兆638億米ドル 従業員数 6万9,931人 株主資本 570億米ドル 信用格付け UBS

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秋元千明 – Wikipedia

秋元 千明(あきもと ちあき、1956年[1] – )は、英国王立防衛安全保障研究所(RUSI)日本特別代表。大阪大学大学院招へい教授(国際公共政策研究科)、拓殖大学大学院非常勤講師(国際開発学研究科)を兼務。専門は国際安全保障、紛争分析、情報活動、地政学、戦略論。 早稲田大学卒業。元NHK解説委員(安全保障担当) 来歴・人物[編集] 東京都出身。1979年、早稲田大学を卒業後、NHKに記者として入社。沖縄放送局に勤務した後、報道局国際部に所属、安全保障担当の国際記者として東京、ニューヨーク、ワシントン、ロンドンを拠点に、イランイラク停戦交渉、東西冷戦の終結、米ソ軍備管理交渉、第一次湾岸戦争、ユーゴスラビア紛争、北朝鮮核問題などの取材にあたった。その後、国際放送局を経て、解説委員に就任した。その間、英国王立防衛安全保障研究所(RUSI)の客員研究員としてロンドンへ留学、ロンドン大学大学院等で安全保障の研究にあたった。 2000年、NHK解説委員に就任。解説委員としては歴代最年少での就任だった[要出典]。安全保障専門の解説委員もNHKとしては初めてのポストだった。 2001年、ニューヨークとワシントンで起きた同時多発テロでは解説委員として1か月半以上にわたってNHKのニュース番組に連日出演、軍事作戦の内容やテロの背景について解説し、視聴者の高い評価を得た。以後、北朝鮮の核とミサイル問題、中国の軍拡問題、地域紛争、米国の安全保障戦略、日本の防衛政策などについて深い分析をNHKの番組を通じて提供し、専門家からも支持された[要出典]。 2006年、大阪大学での「9/11総選挙後の日本の外交・安全保障政策の行方」と題するプログラムで、大阪大学大学院国際公共政策研究科の教授星野俊也、助教授ロバート・エルドリッジ、アジア太平洋安全保障研究センター(APCSS)の助教授佐藤洋一郎[要曖昧さ回避]と討論[2]。 2012年、NHKを退職し、英国王立防衛安全保障研究所(RUSI)アジア本部、通称RUSI Japanの所長に就任した。その後、RUSI Japan評議会議長には英国秘密情報局(MI6)の元長官、サー・ジョン・スカーレットが、副議長には元防衛事務次官の西正典氏がそれぞれ就任した。 2012年11月の防衛省技術研究本部が開催した防衛技術シンポジウム2012では、「将来技術との融合を目指して!新たな時代を拓く防衛技術の在り方を多面的に考える」と題するプログラムで、ものつくり大学名誉学長神本武征、元防衛省技術研究本部長佐々木達郎、三菱重工業の西岡喬などと共にパネルディスカッションを行った[3]。 2013年、日英安全保障協力を促進するためのプロジェクトとして、日英安全保障会議を初めて開催。英国側主催者としてエリザベス女王次男のアンドルー王子を東京都内に招聘。会議では安倍晋三首相が基調講演を行い、日英の安全保障協力を強力に進める方針を表明した。以来、日英安全保障会議はロンドンと東京で定期開催されており、RUSIは日英安全保障協力の促進を側面から支援している[4]。また、定期的に小規模なランドテーブルを非公開で開催し、英国の専門家を東京に招き、日本の専門家との情報や意見交換の場を提供している[要出典]。 2019年、RUSIの組織再編によって、東京にそれまでのRUSI Japanに代わって日本特別代表部が置かれたのに伴い、日本特別代表に就任した。 RUSIの東京事務所をベースに活動するかたわら、ロンドンのRUSI本部にも拠点をもち、通算して年に3−4か月はロンドンで生活している。英国の議会や政府関係のほか、国際政治、歴史系の研究者、BBCなど大手メディアの記者とも広く親交があり、英国の戦略コミュニティに根を下ろした活動をしている。そのため、日英の戦略コミュニティーをつなぐ重要なパイプ役としての評価が高い。NHK時代はわかりやすい解説で視聴者の人気を集めたが、RUSIに移籍した後は主に情報の収集と分析、ロンドンへの報告に専念するようになり、テレビ出演など派手な活動は抑えている。最近は日英同盟の復活など、日英の安全保障協力をテーマにした著述やシンクタンクでの講演がめだっており、米国に偏らない欧州の視点で国際安全保障を語ることのできる数少ない専門家として評価されている[要出典]。 NHK時代の担当番組[編集]

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神戸市立和田岬小学校 – Wikipedia

この記事の主題はウィキペディアにおける独立記事作成の目安を満たしていないおそれがあります。目安に適合することを証明するために、記事の主題についての信頼できる二次資料を求めています。なお、適合することが証明できない場合には、記事は統合されるか、リダイレクトに置き換えられるか、さもなくば削除される可能性があります。出典検索?: “神戸市立和田岬小学校” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年4月) 神戸市立和田岬小学校(こうべしりつ わだみさきしょうがっこう)は、兵庫県神戸市兵庫区にある公立小学校。 この節の加筆が望まれています。主に: 川中小学校の情報追記 (2020年6月) 統合前 1916年 – 遠矢尋常小学校の開校。(1915年に浜山尋常小学校の分教場として開設) 1941年4月1日 –

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ハルマヘラ島 – Wikipedia

ハルマヘラ島の位置 ハルマヘラ島(ハルマヘラとう、インドネシア語: Pulau Halmahera)は、インドネシアのモルッカ諸島にある島。ジャイロロ島(Jailolo)、ジロロ島(Jilolo, Gilolo)ともいう。面積は17,780km2で、モルッカ諸島で最も大きい。北東は太平洋に面し、南東はハルマヘラ海、西はモルッカ海峡・モルッカ海に面する。人口は449,938人(2010年)。住民の8割はムスリムで、残りの2割はキリスト教徒が占める。 最近では2007年に噴火した島の最高地点であるガムコノラ山(標高1560m、1635mとも)の他に活火山がいくつかある。 ハルマヘラ島は山がちのうえ、全島を熱帯雨林に覆われるため人口が少ない。この地域の中心は、ハルマヘラ島の西海岸沖合いに浮かぶテルナテ島、ティドレ島である。どちらも面積100km2あまりの小島だが、丁子の原産地として香辛料貿易で栄え、ハルマヘラ島を含めたインドネシア東部全域に勢力を広げた。16世紀初めにポルトガル人がやってきて以来、モルッカ諸島は西洋諸国による支配権争いの舞台となり、最終的にオランダ領東インドに組み込まれた。インドネシア独立後はマルク州に含まれていたが、1999年に成立した北マルク州(インドネシア語:Maluku Utara)の一部になっている。 ハルマヘラ島およびその周辺部の諸言語はオーストロネシア系と非オーストロネシア系のものが混在している。 まず、主なオーストロネシア系言語は以下の通りである。この中ではブリ語について最も早い時期から体系的に記述されている[1]。 また、非オーストロネシア系言語は主に以下のものが挙げられる。 ^ 崎山(1969:276-277)。 参考文献[編集] ウィキメディア・コモンズには、ハルマヘラ島に関連するカテゴリがあります。

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マルイチグループ – Wikipedia

マルイチグループのタクシー(マルイチ新福島自動車) マルイチグループは、福島県郡山市のマルイチグループNCビルに本部を置く、根本石油株式会社、バス・タクシー事業、コンピューター販売などの企業グループである。 1924年 – 根本弥一が「根本商店」創業。 1960年 – 郡山市に「有限会社根本商店」設立。 1960年 – 郡山市に「有限会社根本石油店」設立。 1970年 – 郡山市の「ひかりタクシー株式会社」を継承。 1972年 – 郡山市に「根本観光開発株式会社」設立。 1972年 – 「有限会社根本酒店」を「根本酒販株式会社」に組織変更。

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