三浦半島 – Wikipedia

三浦半島(みうらはんとう)は、神奈川県南東部にある半島である。

「みうら」という地名は古代から用いられており、『日本書紀』では「御浦」(みうら)と記載されていた。当時は朝廷の所領だったのでこのように「御」をつけて呼ばれていたという[1]。『万葉集』では半島全体を指して「御宇良崎」、その後「御」の字を避けるようになり当て字が使われ「美宇羅」とされた。なぜ「三」を用いて「三浦」と表記するようになったかについては、この半島は東・西・南の三方が浦(湾、入り組んだ海岸など)で囲まれていたからとされている。

三浦半島の航空写真

太平洋に向けて突き出し、東京湾と相模湾とを分ける。横浜市磯子区の南西にある円海山から藤沢市片瀬にいたる線を北限とし、円海山の北麓で多摩丘陵に接続する。半島東端の観音崎は東京湾の南限であり、浦賀水道を隔てて東の房総半島とともに東京湾を囲む。半島の西には伊豆半島がある。

三浦半島は2000万年前から1500万年前の太古の時代に太平洋の深海底で太平洋プレート上に降り積もった堆積物に由来する。太平洋プレートが海溝において大陸プレートの下に沈み込む際に堆積物は剥離して積み上がり(このような地質構造を付加体という)、約50万年前には海面上まで隆起し、三浦半島や房総半島のもととなった。この後、北上するフィリピン海プレート上の伊豆半島が日本列島に衝突したエネルギーで、三浦半島は時計回りに回転し、現在の形状となった。

隆起は現在も続いており、関東大震災の折には城ヶ島周辺の広い範囲で、海岸線が数メートル隆起している。地質的にはほぼ全域が第三紀層に属する。またおよそ西北西 – 東南東方向に走る衣笠断層帯、北武断層群、武山断層帯、南下浦断層、引橋断層の5箇所の活断層が存在し、三浦半島断層群と呼ばれる。植生は常緑広葉樹林。

三浦丘陵が半島中央に走り、最高峰で標高241mの大楠山、横浜市の最高地点である円海山を擁する。東京湾・浦賀水道に面して横須賀港や久里浜港、三浦海岸があり、半島西部には小田和湾や小網代湾がある。半島南端には城ヶ島が付属する。三浦海岸一帯を除いて海岸線は比較的複雑で、入り江を利用した漁港やマリーナ、海水浴場が数多く存在する。

半島北東部の横浜から横須賀に至る東京湾側、および北西部の逗子・鎌倉は、平地が乏しく起伏の多い地形にもかかわらず市街化が進んでいる。一方、中央部から南部は森林や畑が広がり、東京から近いわりに広々とした景観が展開するため、日帰り観光地としても人気がある。水田は少なく、ダイコン、キャベツ、スイカその他各種野菜の栽培が盛ん。特産であった三浦大根はわずかな作付のみで、主力は青首大根に移行している。

行政地域[編集]

主に、三浦半島の大部分を占める横須賀市と三浦市を合わせて指す呼称として「横三」(よこさん)「横三地域」という名称が使用されることがある[注 1]

三浦半島では、旧石器時代(先土器時代)にあたる25000年前から人類が生活を始めていた[4][5]。縄文時代の遺跡では三浦市の諸磯貝塚や横須賀市の夏島貝塚・茅山貝塚などが知られる[6]。また弥生時代には、三浦市赤坂遺跡などで拠点的な集落が営まれた[7]

古墳時代前期(4世紀)には逗子市と葉山町の境に長柄桜山古墳群が築かれた[8]。また三浦市や横須賀市にも古墳群や横穴墓が造られた[9]

古代の律令制度では、東海道相模国に属する。『日本書紀』には「御浦」(みうら)と記されている。

中世には頼朝の挙兵に従った三浦氏の領国であった。三浦氏は北条時頼の時代に宝治合戦で宗家が滅ぼされた。以後半島の北の街道沿いは北条氏の領地となり、北条氏側に付いて三浦の家名を継承した傍系は、半島内に閉じ込められる形となった。後にこの系統は戦国大名化し、扇谷上杉氏の被官となるも、伊豆の北条早雲が相模国に勢力を拡大し、1516年に三浦氏を攻めるために玉縄城を築き、籠城した三浦義同・三浦義意を住吉城から新井城に攻めて滅亡させると、三浦半島は後北条氏の領地となる。戦国時代には三浦半島は後北条氏の水軍の本拠となり、東京湾を挟んで里見氏と争った。里見義堯は水軍を率いて三浦半島を襲撃し、たびたび鎌倉まで攻めて北条氏綱と戦った。江戸時代初期は玉縄を本拠とする本多正信の領地で、江戸幕府直轄の天領であった。1600年にヤン・ヨーステンらとともに「リーフデ号」で日本に来航したイギリス人ウィリアム・アダムスは徳川家康の外交顧問となり、三浦半島に領地を貰い、日本名を三浦按針とした。

鎖国後の江戸時代には浦賀の町に廻船問屋が並び、徳川吉宗は浦賀奉行を設置する。後期にはフェートン号事件などが発生したため、鎖国政策をとる江戸幕府は江戸湾防備のために、1810年に会津藩に三浦半島沿岸の警備を命じる。1821年以降は会津藩に代わって川越藩がそれを担当した。その後、モリソン号事件のように外国船が日本近辺に出現して測量などを行うようになり、1846年にはジェームズ・ビドルのアメリカ艦隊が三崎沖に姿を現し開国を求めた。1853年にはマシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航、久里浜に上陸して幕府に通商を迫った(黒船来航)。洋式砲術を研究していた幕臣の江川英龍は、三浦半島に砲台を築いて防衛線とすることを提言するが退けられた。

明治後には三浦半島は国防上の要衝地と認知される。横須賀には横須賀鎮守府が設置され、日露戦争において黄海海戦や日本海海戦で旗艦として活動した戦艦「三笠」の本籍地であった。この「三笠」は日露戦争後に火災で沈没し除籍となるが、保存工事が施され三笠公園に現存する。太平洋戦争(大東亜戦争)の末期には、アメリカ軍の本土上陸に備えて沿岸陣地も築かれた。

戦後には消滅した日本軍に代わりアメリカ軍や自衛隊の基地が横須賀市や逗子市に多く作られ再び『軍都』となる一方、首都圏の発展に伴い三浦半島でもベッドタウン化が進み、2007年現在の人口は62万人であるが、住民の高齢化も進行している。

Category:横須賀市、Category:三浦市、Category:逗子市等も参照されたい。

寺社[編集]

城跡[編集]

漁港[編集]

幹線道路[編集]

鉄道[編集]

バス[編集]

船舶[編集]

三浦半島を舞台とする作品[編集]

  • バラエティ
  • 文学
    • 小説
    • 随筆
      • 『街道をゆく 三浦半島記』司馬遼太郎
      • 『海辺の博物誌』三木卓
  • 漫画
  • アニメ
  • ゲーム

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出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]