Month: March 2022

コスタリカ方式 – Wikipedia

コスタリカ方式(コスタリカほうしき)とは、小選挙区比例代表並立制における選挙戦術の一つで、同じ政党もしくは友党から競合する候補者が存在する選挙区において1人を小選挙区に、もう1人を比例区に単独で立候補させ選挙毎にこれを交代させるという方法である。 日本独自の呼称である(後述)。 小選挙区比例代表並立制が行われる選挙において同じ政党から競合する候補者が存在する選挙区が存在する場合、1人を小選挙区に、もう1人を比例区の名簿上位に配分して比例区単独で立候補させる。 候補者同士は選挙があるごとに小選挙区と比例区における協定を結ぶ。「小選挙区選挙で立候補できる権利」と「比例代表選挙(上位順位)で立候補できる権利」は、選挙が行われる度毎に入れ替わるのが通例である。それによって、2人の候補者は当該選挙区において後援会などの選挙基盤を維持する。 コスタリカ方式を利用した場合でも、小選挙区で立候補した立候補者が比例と重複立候補することも可能である。この場合は比例区のみで立候補した立候補者よりも名簿順位は下位順位(大抵は多くの重複候補との同一順位)でなければならない。 「コスタリカ」の名は、コスタリカ友好議員連盟の会長であり、小選挙区比例代表並立制導入当時の自民党幹事長であった森喜朗が国会議員の連続再選を禁じたコスタリカの選挙制度を参考にして命名したものである。ただしコスタリカの選挙制度の目的は選挙において特定地域の有権者との癒着を防止することであり、日本のシステムは名前だけ頂いた、似て非なるものである。 1994年(平成6年)に、衆議院議員総選挙が中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に移行する際に、自由民主党の候補者が、重複する選挙区が複数存在してきたことから考案された。また連立与党である公明党や保守(新)党との協定により連立政党の候補の小選挙区立候補を優先させ、自民党候補を比例上位で立候補させる場合もあった。 なお、新進党や民主党では地盤としていた現職議員や出馬を希望していた有力な新人が競合した関係上、第41回総選挙で新進党が3人・民主党が7人を比例上位で立候補させる事実上のコスタリカ方式を採用した。次の第42回総選挙でも元新進党議員が民主党に合流したことで候補者が重複する選挙区が出た関係で、6人の候補者を同様の事実上のコスタリカ方式で遇したことがあるが、それ以降はコスタリカ方式を採用していなかった。 自民党では、第45回衆議院議員総選挙から「コスタリカ方式」を全廃する方針を固めていた[1]が、この時解消できたのは8選挙区のうち3選挙区に留まった[2]。 更に第47回衆議院議員総選挙では、熊本県第2区に加え[注 1]、小選挙区の削減で、現職議員同士が競合した山梨県第1区・福井県第2区・高知県第1区でも新たにコスタリカ方式を導入せざるを得なくなり、加えて一時はコスタリカ方式を解消した徳島県第1区でも、再度コスタリカ方式が復活した。また、野党では民主党と維新の党が一部選挙区で選挙協力を行い、30あった両党の競合区を21にまで減らした。このうち、有力な現職同士が競合する山梨県第1区と愛知県第12区では片方の候補者が比例上位に回る措置が取られた[3]。 第24回参議院議員通常選挙以降は、一票の格差を是正するために鳥取県と島根県、徳島県と高知県で合区となって参議院合同選挙区が誕生したことにより、自民党は地方別選挙区から選出できなくなった県に選挙地盤を持つ候補を比例区に転出させることとなり、参議院でも「コスタリカ方式」が発生することになった。しかし、比例区で鳥取県に選挙地盤を持つ候補の自民党内の比例順位が次点落選(2021年に繰り上げ当選)となったことで自民党鳥取県連から不満が高まったため、参議院に選出されない可能性がある県の代表者を参議院に確実に輩出することを意図した自民党の意向が国会で反映されたことにより、2019年7月の第25回参議院議員通常選挙から参議院比例区で政党等の判断で拘束名簿式の「特定枠」として上位に設定することが可能となっている(なお、特定枠に掲載された候補者は候補者名を冠した選挙運動を行うことができず、政党票としてカウントされる)。 第48回衆議院議員総選挙では、民進党から希望の党へ移る形となった松浦大悟と寺田学が共に秋田県第1区を地盤とすることから、希望の党では松浦を小選挙区公認候補とし、寺田を比例東北ブロック単独公認候補とするコスタリカ方式を採用した[4]。 利点と欠点[編集] コスタリカ方式の導入による、候補にとっての利点としては以下のものがある。 一度当選したら次の選挙は大政党の比例上位に登録されるため次回選挙の当選がほぼ保証される。 選挙区の選挙において双方の後援会を動員でき、得票の増加が見込まれる。 一方、公認権限は党執行部が握っているため反党行為や離党をした場合はその政党から公認されず、選挙区でコスタリカ方式を結んでいた政党候補との激戦が予想され当選が難しくなる恐れがある。さらに小選挙区立候補の際に比例復活できずに完全落選した場合、党執行部によって比例に回っていた候補を小選挙区での党公認候補として完全に定着させる方針が採られると、同選挙区で立候補をして当選して衆議院議員として復帰することが極めて困難になる。また自民党では衆院選比例名簿の73歳定年制が設けられ、73歳を超えた議員は比例名簿に登載されない問題も出ている。 コスタリカ方式適応候補は1回選挙区で当選すれば次回選挙の当選がほぼ保証されているが、通常の候補は毎回選挙の選挙区で勝負しなければならず、またコスタリカ方式のために比例上位候補が1人掲載されているために小選挙区落選での惜敗率による復活当選において当選議席が1つ減ってしまうという不公平もある。 新規コスタリカ

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鍋 – Wikipedia

鍋(なべ)とは、一般には熱源を併せ持っていない加熱調理用容器である[1]。ただし、電気鍋のように熱源を併せ持っているものも存在する[1]。食材に火を通すための調理器具であり、煮物・茹で物・揚げ物等の調理法に利用される。片手付きのもの[1](片手鍋)、両手付きのもの[1](両手鍋)、吊り手付きのもの[1]などがある。やっとこ鍋(後述)のように取っ手がなくやっとこで掴んで操作するものもある。また、鍋には蓋付きのものと蓋無しのものがある[1]。日本では家庭用品品質表示法の適用対象とされており雑貨工業品品質表示規程に定めがある[2]。 「○○鍋」というときは、鍋の種類名称である場合と、鍋を使って食卓上で作る煮物料理(鍋料理、鍋物)の名称を指す場合がある。説明無しに「鍋を食べる」という表現が行われた場合でも鍋料理を食べるという意味である(調理用容器で非食品である鍋を食べるわけでは無い)。 この節の加筆が望まれています。 石器時代、およそ2万年[3]からそれ以上前、人類は土器を作り始め、その当初からの用法の一つは食物を煮炊きする鍋であったと考えられている。日本では、縄文土器の基本形態である深鉢は、尖ったあるいは丸くなっている底の部分を土や火床の上に突き立て、周りで火を炊いて中身を加熱調理する鍋であった。その歴史は1万4千年前まで遡れる[4]。金属製の鍋は少なくとも青銅器文明の紀元前2000年頃からエジプト、メソポタミア、中国でコルドロンに分類される大釜が使われ出した。中国では長い間使われ続け、戦国時代(紀元前403年〜紀元前221年)の遺跡である随州曾侯乙墓からも、「鼎」、「鬲」といった煮るのに適した青銅器が出土している。釉薬を掛けていない素焼きの土鍋と違い、砂や灰でこすれば清潔が保て、熱の伝わり方も早く、焼き物と違って欠けたり割れたりすることが少ない金属製の鍋釜は便利であったが、当時は金属製の鍋を作るのは技術的にも大変だったため貴重品であった。金属製の鍋が貴重品だった時代は長く続き、ヨーロッパでは地域によってコルドロンの形状や大きさの差異は出たが、全般的に長らくコルドロンのみで作れる料理が一般的な食事とされ、1412年にロンドン在住のジョン・コールとジュリア・コール夫妻の主だった財産と言える重さ7キロのコルドロンは、当時の土鍋が1ペニーほどの時代に4シリング(1シリングは12ペニー)したとされる[5]。多種多様な鍋が一般的になったのはイギリスにおいては18世紀に入ってからである[6]。 日本[編集] すき焼き鍋(鉄製・1964年) 雪平(行平)鍋(ゆきひらなべ) 和風鍋であり、蓋のない中程度の深さの片手鍋。汁の注ぎ口が左右両方に付いている場合が多い。煮物、茹で物、出汁を作る時など、鍋を利用する日本料理で使用される事が多い一種の万能鍋である。蓋は落とし蓋を利用する。本来は取っ手や蓋、つぎ口の付いた土製の鍋、あるいは銅製の鍛造鍋であったが、現在ではアルミ製の軽量な片手鍋であることが多い[7]。鱗のように表面を覆うポリゴン状の模様は、本来は銅板を金槌で叩いて成型した跡である。廉価なプレス成型品でも、鍛造鍋に似せる装飾として模様を付けている。木製の柄がネジで固定されている物があり、これは取っ手が傷んだ場合に木製の柄だけを交換することが可能である。 やっとこ鍋 雪平鍋の取っ手と注ぎ口を取り去った形状の鍋。漢字では「矢床鍋」の字があてられることが多い。取っ手がないので鍋を持つときは、プライヤのような形状で鍋の縁を掴み易くした挟み口の先端が平たく作られた専用の鍋ばさみであるやっとこを使う。利用法は雪平鍋と同様であるが、取っ手が取り付けられていないため、業務用調理器具のガスバーナを使用する際など火力が強いために木製の取っ手が燃えてしまうことを防ぐことができる、同時進行で複数の鍋を並べて調理する際に取っ手が邪魔にならない、違う大きさのものであれば重ねてコンパクトに保管することができる、取っ手が無く全体が丸い部分だけなので洗いやすいといった利点がある。一般的には業務用の鍋である。鍋の厚みは比較的分厚いものが多い。 坊主鍋(ぼうずなべ) 雪平鍋の底を丸底にした形状の鍋。丸底のため煮汁の対流が効率よく行われ熱廻りが良い。取っ手の無い、やっとこタイプの坊主鍋もある。一般家庭で利用されることはほとんど無い。 円付鍋、段付鍋 鍋の縁に近い部分に円形の段差が入っている大型の鍋。円形の蒸籠などを使うことができる。 親子鍋(おやこなべ) 直径16cm前後、深さ2.5cm前後で、丼物のたねを作る専用の鍋。複数のバーナーを持つ業務用焜炉で複数同時に調理する場合、取っ手同士がぶつからないよう、取っ手が鍋本体に対して直角に真上へ伸びたように付いているものが多い。親子丼が名前の由来である。 天ぷら鍋 揚げ物に用いられる鍋。揚げ油を切るための天ぷら網や油はねを防止するためのフードなどを有する[1]。温度計などが付属するものもある。 すき焼き鍋 すき焼きに用いられる鍋。鋳鉄製で円形のものが多い。

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今川氏真 – Wikipedia

今川 氏真(いまがわ うじざね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、文化人。今川氏12代当主[注釈 9]。 父・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐが武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は同盟者でもあり妻の早川殿の実家である後北条氏を頼り、最終的には桶狭間の戦いで今川家を離反した徳川家康と和議を結んで臣従し庇護を受けることになった。氏真以後の今川家の子孫は徳川家に高家待遇で迎えられ、江戸幕府で代々の将軍に仕えて存続した。 家督相続[編集] 天文7年(1538年)、義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に嫡子として生まれる。天文23年(1554年)、北条氏康の長女・早川殿と結婚し、甲相駿三国同盟が成立した。 弘治2年(1556年)から翌年にかけて駿河国を訪問した山科言継の日記『言継卿記』には、青年期の氏真も登場している。言継は、弘治3年(1557年)正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録している。 氏真は永禄元年(1558年)より駿河や遠江国に文書を発給しており[注釈 10]、この前後に義元から氏真に家督が譲られたとするのが、研究上の見解である(#研究)。 この時期の三河国への文書発給は義元の名で行われていることから、義元が新領土である三河の掌握と尾張国からさらに西方への軍事行動に専念するため、氏真に家督を譲り形式上隠居し本国である駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が提示されている[7]。 永禄3年(1560年)5月19日、尾張に侵攻した義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれたため、氏真は今川家の領国を継承することとなった。 相次ぐ離反[編集] 桶狭間の戦いでは、今川家の重臣(由比正信・一宮宗是など)や国人(松井宗信・井伊直盛など)が多く討死した。義元体制を支えてきた重臣層や有力国人の戦死は今川氏内部の体制の変化を迫るものとなった。三河・遠江の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなって現れた。 三河の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかった。氏真は三河の寺社・国人・商人に多数の安堵状を発給し、動揺を防ぐことを試みている。 しかし、西三河地域は桶狭間の合戦後旧領岡崎城に入った松平元康(永禄6年(1563年)に家康に改名)の勢力下に入った[注釈 11]。永禄4年(1561年)正月には足利義輝が氏真と元康との和解を促しており[9][注釈 12]、北条氏康が仲介に入ったこともあるが、元康は今川家と断交し、信長と結ぶことを選ぶ。この事態は氏真には痛恨の事態であり、後々まで「松平蔵人逆心」「三州錯乱」などと記して憤りを見せている[13]。 東三河でも、国人領主らは氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、今川家を離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる(三州錯乱)。永禄4年(1561年)、今川家から離反した菅沼定盈の野田城攻めに先立って、小原鎮実は人質十数名を龍拈寺で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。 元康は永禄5年(1562年)正月には信長と清洲同盟を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。永禄5年(1562年)2月、氏真は自ら兵を率いて牛久保城に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。このとき、駿府に滞在していた外祖父・武田信虎の動きが不穏であり、氏真は途中で軍を返したともいう[14][注釈

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オブジェクト指向プログラミング – Wikipedia

この項目「オブジェクト指向プログラミング」は途中まで翻訳されたものです。(原文:en:Object-oriented programming(13:57, 15 November 2021 UTC)の翻訳)翻訳作業に協力して下さる方を求めています。ノートページや履歴、翻訳のガイドラインも参照してください。要約欄への翻訳情報の記入をお忘れなく。(2021年11月) オブジェクト指向プログラミング(オブジェクトしこうプログラミング、英: object-oriented programming、略語:OOP)とは、「オブジェクト」という概念に基づいたプログラミングパラダイムの一つである。 オブジェクトは、任意個数のフィールド (属性、プロパティまたは変数)で構成されるデータと、任意個数の(メソッドまたは関数)で構成されるコードのひとまとまりで構成される。 オブジェクトの特徴として、オブジェクト自身の手続きが自身のデータフィールドを読み書きできることが挙げられる(オブジェクトにはthisやselfという概念がある)。また、OOPでは、相互に作用するオブジェクトを組み合わせてプログラムを設計する[1][2]。OOP言語のありかたは多様であるが、最も一般的といえるものは、オブジェクトがクラスのインスタンスであり、また、オブジェクトの型もクラスとして規定されるクラスベースといわれるものである。 広く使われているプログラミング言語の多く(C++、Java、Pythonなど)は、マルチパラダイムであるが、程度の差はあれ、オブジェクト指向プログラミングをサポートしており、大抵は命令型や手続き型プログラミングとの組み合わせで用いられる。 主なオブジェクト指向言語には次のようなものが挙げられる: Java、C++、C#、Python、R、PHP、Visual Basic .NET、JavaScript、Ruby、Perl、SIMSCRIPT、Object Pascal、Objective-C、Dart、Swift、Scala、Kotlin、Common Lisp、MATLAB、Smalltalk。 UMLによるクラスの表記法。このButtonクラスは、データを表す変数と関数を持ち、継承によりButtonクラスのサブセットとしてサブクラスを作成することが可能である。また、オブジェクトはクラスのインスタンスである。

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ウンマ (イスラム) – Wikipedia

ウンマ(アラビア語: أمّة‎、ʾummah)とは、アラビア語で母と同義の言葉であり、現代では民族・国民・共同体などを意味する。ウンマ・イスラーミーヤ(الأمة الإسلامية al-ʾUmmat al-ʾIslāmiyah)はイスラーム共同体と訳され、イスラーム国家とほぼ同義である。 コーラン(クルアーン)の用法ではウンマは、神(アッラーフ)によって使徒(ラスール)を遣わされて啓典を与えられる人間集団の単位のことである。ムーサー(モーセ)のウンマといえばユダヤ教徒の共同体のことであり、イーサー(イエス)のウンマといえばキリスト教徒の共同体を意味する。彼らにはそれぞれ律法書(タウラート)、福音書(インジール)という啓典が与えられた。しかし、彼らはこれらの啓典を改ざんしたり、ゆがめて解釈したりしているとコーランは主張する。そして、神の言葉をそのままの形で伝える啓典がムハンマドのウンマ、すなわちイスラーム共同体に遣わされたコーランであるとする。 こうして信徒共同体の意味を与えられたウンマというアラビア語の単語は、次第に特にイスラーム共同体を指して言うようになり、イスラームを含めた個々の共同体には「ミッラ」という呼称が広まる。 これを踏まえて、現代のイスラームの歴史に関する研究、論述では単にウンマと言っても、イスラーム共同体のことを指す場合が多い。 関連項目[編集]

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ロマーリオ – Wikipedia

ロマーリオ・ジ・ソウザ・ファリア(Romário de Souza Faria, 1966年1月29日 – )は、ブラジル・リオデジャネイロ出身の元サッカー選手。政治家。ポジションはフォワード。1980年代後半から1990年代を代表するストライカーの一人。現在はブラジル上院議員を務める。 日本では一般的にロマーリオと多く表記されるが、彼の母語であるブラジルポルトガル語では、冒頭の Ro はホと読む場合も多い(地域・年齢などで異なる)。そのため現地リオの発音にしたがってホマーリオなどと表記される場合もある。 長男はサッカー選手で日本のツエーゲン金沢でもプレー経験のあるロマリーニョ。 クラブ経歴[編集] PSVで練習するロマーリオ (1989年) ブラジル内外のクラブを渡り歩き、1988-89シーズンPSVに移籍すると、シーズン中3度ハットトリックを決め、同シーズン12月11日開催のインターコンチネンタルカップ、ナショナル戦でもゴールを決め、在籍中は2度UEFAチャンピオンズリーグで得点王になるなど頭角を現した。 1993-94シーズンよりスペイン・FCバルセロナに移籍、再びロナルド・クーマンとチームメートとなった。またフリスト・ストイチコフとは良好な関係を築いた[2]。9月5日デビュー戦となったレアル・ソシエダ戦でハットトリックを達成。また同シーズン10月30日のアトレティコ・マドリード戦、1994年1月の対レアル・マドリード戦、2月19日のオサスナ戦、3月12日のアトレティコ・マドリード戦でもハットトリックを達成するなど出場33試合で30ゴールという決定力を発揮して得点王を獲得、リーグ最終節のセビージャ戦では決勝ゴールを決めて、この結果、首位のデポルティーボが引き分けたため、逆転でリーグ優勝を果たした[3]。しかしチャンピオンズリーグでは10試合2ゴールと振るわず、決勝ではACミランに0-4と敗れた。1994-95シーズンは不調でベンチに座ることもありシーズン途中にバルセロナを退団し、フラメンゴに移籍した。 2000年にはクラブ世界選手権を皮切りに5つの大会で得点王となり、ブラジルサッカー界の混乱が生み出した過密日程もあり、代表戦を含めて公式戦73試合で72ゴールという成績を残した。 2004年にフルミネンセFCを解雇されたが、その後に自らがデビューしたCRヴァスコ・ダ・ガマに移籍。2005年ブラジル全国選手権セリエAで22得点を決め、得点王に輝いた。2005年末までの現役続行の予定だったが、米国下位リーグのマイアミFCに移籍し、現役を続けることになった。マイアミでは19得点を上げ、リーグの得点王になる活躍を見せた。その後、オーストラリアAリーグのアデレード・ユナイテッドFCに、リーグ戦4試合限定の「ゲストプレーヤー」として移籍することが決定[4]。前所属のマイアミFCとの親善試合なども契約に含まれている。 2007年から再び古巣のヴァスコ・ダ・ガマに復帰。1年間の内に2度移籍をしてはいけないというFIFAの規定によってFIFA側はその移籍を正式には認めていなかったが、ヴァスコ・ダ・ガマは「アデレード・ユナイテッド在籍は『招待』であり『移籍』ではない」と言う主張を掲げチームに帯同させ、試合にも出場させている。ちなみにその復帰初戦では、10分間でハットトリックを達成している。 なお、ロマーリオは、ペレに次ぐ世界2人目(アルツール・フリーデンライヒを含めれば3人目)の1,000ゴールをマークしている[5]。1,000ゴール目は2007年5月20日の全国リーグ・スポルチ・レシフェ戦でのペナルティーキック。1,000ゴール達成で引退するのではという噂もあったが、その後もプレーを続けて、さらにゴールを重ねた。

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安全側線 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “安全側線” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年10月) 安全側線(あんぜんそくせん)は、過走して他の列車の進路に支障を来すことによる衝突を防止する目的で本線とは異なる線路へ列車を進入させ、列車を意図的に脱線・停止させるために設ける停車場内の短い側線である。側線を設けないポイントだけの設備は、脱線転轍器(脱線ポイント)という。 単線区間の行き違い施設では、列車が停止位置を冒進して本線に出てしまうと、対向列車と正面衝突する危険がある。そこで、本線に合流する分岐器の手前で分岐させ、その先を砂利盛りなどの車止めにしておくものが安全側線である。安全側線導入によって単線区間でも同時進入が可能になり、交換待ちによるダイヤのロスを減らすことができる[1]。 列車交換時には分岐器は安全側線側に開通しており、列車が冒進した場合はそのまま安全側線に進入させた上で砂利盛りなどの車止めで停止させ、対向列車との衝突を避ける仕組みになっている。 日本では1913年(大正2年)10月17日に発生した東岩瀬駅列車正面衝突事故を教訓に全国で整備された。この東岩瀬事故やそれまでのオーバーランの実例、種々の実験の結果を参考に、突込線の長さは約91メートル(300フィート)とされ、さらに車止を設け、その手前約10メートルの区間に砂利盛りをすることになった。1926年に突込線を「安全側線」と改称した。 課題と対策[編集] 本線への誤進入により他の列車・車両との衝突を起こすよりも、誤進入列車・車両を脱線させた方が被害がより少ないであろうという想定に基づいている(フェイルセーフではなく、自動車でいうパッシブセーフティにあたる)。安全側線は、誤進入した列車・車両を停止させるために十分な砂利堤等の長さが確保でき、進入速度が十分低ければ、有効な安全システムとして機能する。 しかし日本では用地の関係で、砂利盛りが省略されている箇所や、十分な長さがない箇所も少なくない。また、高速で進入すると当該列車が脱線転覆するのみならず、本線に支障を来して対向列車や後続列車との二次事故を生じる危険も高い(後述)。 現在では、安全側線に高速で進入することのないように、手前でATSなどにより減速させるほか、万一安全側線に進入した場合には、ケーブルの切断・スイッチ動作などにより、周辺の信号機を停止信号にする安全側線緊急防護装置を設置して安全対策を行っている。また、複線化やより安全性の高い保安装置(ATS-PやATCなど)の導入により安全側線が省略されるケースもある[2]。 安全側線はその性質上、通常時に車両が入線する事は想定されないため、安全側線に進入した場合には重大インシデント扱いになり、運輸安全委員会による鉄道事故調査の対象になる。 安全側線における死亡事故例[編集] 以上は、冒進した列車が高速で安全側線に進入した際に安全に脱線させることができずに転覆・傾斜し、本線に支障を来したところに後続列車(三河島)・対向列車(六軒・総谷)が突っ込み、二次事故を引き起こして、多数の死者を出す大惨事となった例である。詳細はそれぞれの項を参照。

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宍道駅 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “宍道駅” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年7月) リニューアル前の駅舎 駅構内の様子。列車が停まっているのが3番のりば 駅前の様子 廃止された旧4・5番のりば跡と月極駐車場(2010年9月) 旧4・5番のりば跡への跨線橋の様子(2010年9月) 宍道駅(しんじえき)は、島根県松江市宍道町宍道にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅。 山陰本線を所属線としており[2]、当駅が起点となる木次線を加えた2路線が乗り入れる。事務管コードは▲640738[3]。 単式・島式の複合型2面3線のホームを持ち、行違い可能な地上駅。単式の1番のりば側に駅舎があり、島式ホームへは跨線橋で連絡している。直営駅である[1]が、早朝深夜のほか昼間でも係員が不在になる時間帯がある。 また、2017年(平成29年)6月22日のTWILIGHT EXPRESS 瑞風の運行開始に合わせて、内部ホールの壁面をガラス化、外観壁の白化、床材は来待石で格子・腰壁は木材を活用した改修が同年5月18日に完了した[6][7]。また、専用入り口も設置予定[広報

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邑楽郡 – Wikipedia

群馬県邑楽郡の範囲(1.板倉町 2.明和町 3.千代田町 4.大泉町 5.邑楽町) 邑楽郡(おうらぐん)は、群馬県(上野国)南東部に存在する郡。平成の大合併において群馬県内の郡では唯一全町が独立を保った。古くは「おはらぎのこおり」とも読まれた。 人口102,167人、面積132.37km²、人口密度772人/km²。(2022年3月1日、推計人口) 以下の5町が含まれる。 いずれの町も工業が発展しており、観光産業に乏しい。 県内で唯一男性が女性より多い郡である。 生産人口割合が高く、最も高い大泉町は県内第1位、最も低い板倉町でも県内第9位である。 県都の前橋市から40~60kmとかなり離れているのに対し、都心からは約70kmであり特に館林市、明和町、板倉町は便も良いため、都心との関係が県内の他の地域と比べて、密接である(平成27年の国勢調査によると群馬県内の東京への通勤率は板倉町、明和町、館林市、高崎市の順である)。市町村によっては埼玉県の県都さいたま市の方が前橋市よりも近い。そのため群馬県内で関東大都市圏[1]に属しているのは板倉町、明和町と旧邑楽郡の館林市のみである。(ただし関東大都市圏には高崎市に編入される以前の多野郡新町も属していた)。 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記5町に館林市と太田市古戸町を加えた区域にあたる。 古くは邑楽(おはらぎ)と読まれた。 近世以降の沿革[編集] 知行 村数 村名 幕府領 幕府領

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来待駅 – Wikipedia

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