Month: March 2022

大山口駅 – Wikipedia

大山口駅(だいせんぐちえき)は、鳥取県西伯郡大山町国信にある西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅である。 駅名の由来は南側にある中国地方一の高峰伯耆大山に因む。 快速列車については、上りのみが停車する(2022年3月現在)。 1926年(大正15年)9月17日 – 国有鉄道山陰本線の名和仮停車場 – 淀江駅間に新設開業。旅客営業のみ。 1930年(昭和5年)4月1日 – 貨物取扱を開始。 1954年(昭和29年) – 駅舎完成[1] 。 1955年(昭和30年) 9月1日 – 大山町(第1次)成立に伴い、所在地表示が鳥取県西伯郡大山町国信になる。 11月3日

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御来屋駅 – Wikipedia

駅舎内に掲出されている小荷物運賃表 御来屋駅(みくりやえき)は、鳥取県西伯郡大山町西坪にある西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅である。 駅舎は1902年の開通当時のもので、山陰地方最古の駅舎であり、登録有形文化財となっている。 駅名について[編集] 大山町御来屋にある駅は、当駅ではなく名和駅である。 1902年(明治35年)の開業当時、米子以東の官設鉄道の駅は、米子駅・淀江駅・御来屋駅のみであり、かつての山陰道の宿場町である米子宿(西伯郡米子町)・淀江宿(西伯郡淀江町)・御来屋宿に対応していた。御来屋宿は西伯郡御来屋町となっていたが、当駅は御来屋宿の東の外れの西伯郡光徳村大字西坪(旧:汗入郡西坪村)に開業した。 1909年(明治42年)、当駅の西(御来屋駅 – 淀江駅間)の御来屋町域に、名和神社(西伯郡名和村)の最寄駅として名和仮乗降場(現在の名和駅)が開設された。 ホームから鳥取方面を見る ホームから米子方面を見る 単式・島式の複合型2面3線のホームを持ち、列車交換や待避が可能な地上駅。単式の1番のりばに面して駅舎があり、島式の2・3番のりばへは跨線橋で連絡している。 1902年(明治35年)の官設鉄道 境(現在の境港駅) – 米子 – 御来屋間の開業時以来の駅舎を使用し続けている、山陰最古の駅である。2002年(平成14年)に、山陰鉄道発祥100周年を記念して駅舎の整備が行われた。駅舎内には現役時代の小荷物運賃表、SL写真、山陰本線の歴史年表などが掲出されている。駅事務室であった空間は現在、「みくりや市[5]」として地元産の農海産物直売所となっている。 2003年(平成15年)、鳥取県鉄道高速化事業により一線スルー化工事が行われ、通過列車が1番線(単式側)を通過するようになった。現在は1番線が上下本線、2番線が下り副本線、3番線が上下副本線という構成である。旅客扱い上は米子駅管理の無人駅となっているが、駅舎内に自動券売機が設置されている。 2・3番のりば上には車掌車(ヨ4709)を改造した待合室が設置されている。2017年頃にリニューアルされ新品のベンチが設置されるなど内装が整備されたが、それ以前は車掌車の内装がほぼそのまま残されていて、窓の日除けの鎧戸を開閉することもできた。

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メルヘン – Wikipedia

メルヘン、メルヒェン(独: Märchen)は、ドイツで発生した散文による空想的な物語。非常に古くて重要な文学形式の一つであり、英語ではフェアリーテール(fairy tale)、フランスではコント(contes de fée)と呼ばれるものに相当する。そのルーツを説話(おとぎ話)、口承文芸に持つフォルクスメルヘン(Volksmärchen、民話、民間メルヘン)と、それらを元に創作したクンストメルヘン(Kunstmärchen、創作メルヘン、創作童話)がある。 メルヘンの特徴として、動物が話をしたり、魔女や魔法使い、巨人といった魔法の助けを得るなどの空想的な要素がある。 メルヘンにおいて、善悪は、喜びや怒りの形で明確に分離される。その中ではヒーローは、喜びと怒りの対立、自然と奇跡的な強さの中心にいる。ヒーローはしばしば、表面的には末っ子のような弱い人物である。しかし物語の終わりには、善は報いられ、悪は罰せられる(勧善懲悪)。 メルヘンは広汎な民衆文学であり、その全てが子供向けの牧歌的な童話とは限らない。メルヘンが子供にふさわしいかという議論では、近代の市民社会が形成される以前と以後では、子供の概念が変化している事に留意する必要がある[1]。 ドイツではメルヘンの概念はグリム兄弟によって形作られたと言われている。やがてその作品の多くから、ロベルト・ビュルクナー(ドイツ語版)のような、現代で上演されるメルヘン劇が始まった。 日本ではメルヘンは、おとぎ話・童話、あるいは童話的な素朴な空想を含む物語の意味で使われることが多く、それらの雰囲気を指してメルヘンチック、メルヘンタッチといった和製語も使われる。 メルヘンの研究[編集] メルヘンの比較研究は、19世紀のインド学研究者テーオドール・ベンファイによって始められた。1910年にアンティ・アールネが主な物語の内容を分類し、ここから現代でも国際的に重要な研究であるアールネ・トンプソンのタイプ・インデックスが作られた。ロシアの文言学者ウラジーミル・プロップは1928年に、メルヘンの形態論について構造主義的研究—すべてのメルヘンには、その内容と独立した堅固な行動構造がある—で、文学、特にメルヘン研究への重要な貢献をした。この構造は、主人公の元型(ヒーロー、敵役、補助者など)が相互接続された多くの物語に該当する。しかし古い時代では、異なった理論基盤として人類学、異なった単一文献学や心理学、その他の調査が必要となる。 語源[編集] 15世紀に生まれたメーレ(Mär)と呼ばれる詩の文体の短い物語があった。これに「小さい」を意味する語尾chenが付けられてMärchenとなった。 現代ドイツ語の””Mär””は「話」「うわさ」といった意味だが、語源をたどると中世高地ドイツ語で「出来事の知らせ」を意味する””mære””(メーレ)に行きつく[1]。 18世紀にフランスの妖精物語や、アラブ圏の『千夜一夜物語』がドイツ語に訳され、これらをメルヘンと呼ぶようになった。 メルヘンの収集[編集] メルヘン収集によるメルヘンの成立においては、すぐれたメルヘンの語り手が寄与していた。それによって、メルヘン、メルヘン集の伝統が形成されることになった。 ヨーロッパで初めて収集された昔話を本としてまとめたものは、イタリアのストラパローラ(英語版)が1550年から1553年にかけて出版した『愉しき夜』と言われる[2]。 17世紀にはイタリアのジャンバティスタ・バジーレがナポリ方言の民話集『ペンタメローネ(五日物語)』を出版し[2]、そのモチーフのいくつかは、グリム兄弟の収集の中にも見られる。

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下市駅 – Wikipedia

下市駅(しもいちえき)は、鳥取県西伯郡大山町上市にある西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅である。 相対式2面2線のホームを持ち、列車交換が可能な地上駅。駅舎側の1番線を上下本線、2番線を上下副本線とした一線スルーであり、互いのホームは跨線橋で連絡している。また、無人駅である。 のりば[編集] 通過列車および行違いを行わない停車列車は上下線とも1番のりばを通る。 反対方向からの通過列車と行違いを行う停車列車は、上下線とも2番のりばに停車する。 停車列車同士の行違いの場合は、鳥取方面行(上り)が1番のりば、米子方面行(下り)が2番のりばに入る。 1988年3月13日時点では、米子駅 – 当駅間に、平日・土曜日に1本(実際は赤碕駅まで延長運転)、日曜・祝日と休校日に1往復区間運転があった。[3] 利用状況[編集] 1日乗降人員推移 [4][5] 年度 1日平均人数 2011年 229 2012年 215 2013年 191

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磐越自動車道 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “磐越自動車道” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年6月) 焼山トンネルを出て津川市街で阿賀野川ラインと併走する磐越自動車道 新潟市郊外で阿賀野川と併走する磐越自動車道 磐越自動車道(ばんえつじどうしゃどう、英語: BAN-ETSU EXPRESSWAY)は、福島県いわき市のいわきジャンクション (JCT) から、郡山市を経由して新潟県新潟市江南区の新潟中央インターチェンジ (IC) へ至る高速道路(高速自動車国道)である。略称は磐越道(ばんえつどう、英: BAN-ETSU EXPWY)。

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中山口駅 – Wikipedia

中山口駅(なかやまぐちえき)は、鳥取県西伯郡大山町田中にある西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅である。 単式ホーム1面1線を有する地上駅(停留所)。駅舎はあるものの無人駅であり、待合スペースや駐輪場として機能している。 利用状況[編集] 1日乗降人員推移 [5][6] 年度 1日平均人数 2011年 169 2012年 147 2013年 141 2014年 118 2015年 132 2016年 130 2017年

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北近畿タンゴ鉄道 – Wikipedia

「宮福鉄道」はこの項目へ転送されています。宮福鉄道創業時の運行路線については「京都丹後鉄道宮福線」をご覧ください。 北近畿タンゴ鉄道株式会社(きたきんきタンゴてつどう、英語: Kitakinki Tango Railway Corporation、略称:KTR)は、京都府・兵庫県で鉄道2路線の施設を保有する第三セクター鉄道会社(第三種鉄道事業者)である。本社は京都府宮津市字外側2500番地2にある。 日本鉄道建設公団が建設した宮福線と旧日本国有鉄道(国鉄)特定地方交通線の鉄道路線宮津線の施設を保有している。 社名の「タンゴ」は、路線の所在する地域の旧国名である丹後国に由来し、音楽のタンゴにも掛けている。 2009年度時点で日本の第三セクター鉄道の中で一番赤字額が大きい[3]。20期以上連続で赤字を計上しており、京都府や沿線市町、兵庫県から毎年4 – 5億円の経営対策補助金の拠出を受けて経営を維持している。京都府と兵庫県の間で経営対策補助金の負担割合について折り合いがつかず、兵庫県が京都府の請求より800万円少ない額しか負担しないなどの不協和音が生じている[4][5]。 2015年4月1日より、鉄道事業再構築(上下分離)により宮福線・宮津線の鉄道運行事業をWILLER ALLIANCE(現・WILLER)の子会社であるWILLER TRAINS株式会社に移譲し、WILLER TRAINSが第二種鉄道事業者として京都丹後鉄道(きょうとたんごてつどう、英語: Kyoto Tango Railway、略称:丹鉄)の名称で鉄道運行事業を行っている。北近畿タンゴ鉄道は同日以降、鉄道施設の保有のみを行う第三種鉄道事業者となった[6][7]。 1982年(昭和57年)9月22日:宮福鉄道株式会社として設立。 1988年(昭和63年)7月16日:宮福線開業。

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赤碕駅 – Wikipedia

岩手県大船渡市にある岩手開発鉄道赤崎線の貨物駅「赤崎駅」とは異なります。 赤碕駅(あかさきえき)は、鳥取県東伯郡琴浦町大字赤碕字坂ノ前にある西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅である。 船上山(大山隠岐国立公園)への最寄り駅でもある。 1903年(明治36年)8月28日 – 官設鉄道の八橋駅(現・浦安駅) – 御来屋駅間延伸により開業。客貨取扱を開始。 1909年(明治42年)10月12日 – 線路名称制定。山陰本線の所属となる。 1954年(昭和29年)1月1日 – 赤碕町(第2次)成立に伴い、所在地表示が鳥取県東伯郡赤碕町大字赤碕字坂ノ前になる。 1972年(昭和47年)12月10日 – 貨物取扱を廃止。 1987年(昭和62年)4月1日 – 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。

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由良駅 – Wikipedia

この項目では、鳥取県にある駅について説明しています。京都府にある駅については「丹後由良駅」を、和歌山県にある駅については「紀伊由良駅」をご覧ください。 由良駅(ゆらえき)は、鳥取県東伯郡北栄町由良宿にある西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅である。 コナン駅の愛称が設定されている。 愛称の由来となった名探偵コナンの記念撮影パネル(由良駅前広場にて) 由良駅は単式・島式2面3線のホームを持つ地上駅である。2003年に実施された鳥取県の鉄道高速化事業により、鳥取駅寄りの分岐の一線スルー化工事が行われ、通過列車が1番線(単式側)を通過するようになった。単式ホームに面して駅舎が有り、島式の2・3番のりばへは跨線橋で連絡している。 駅舎内に自動券売機を備え、一部の時間帯を除いて窓口発券も行う。 のりば[編集] のりば 路線 方向 行先 備考 1 A 山陰本線 上り 倉吉・鳥取方面 通常はこのホーム 下り 浦安・米子方面

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ジェームス・ダグラス – Wikipedia

ジェームス・ダグラス ジェームス・ダグラス(James Douglas、1960年4月7日 – )は、アメリカ合衆国の男性プロボクサー。オハイオ州コロンバス出身。“バスター”(破壊者)のニックネームで呼ばれる。 父:ビル・ダグラス(Billy Douglas)もミドル級の元世界ランカーで来日経験のある親子ボクサーでもあった。 1990年2月11日、東京ドームで当時無敗のWBA・WBC・IBF世界ヘビー級王者マイク・タイソンからKO勝ちで王座を奪取した[1]。 高校とコミュニティ・カレッジではバスケットボールの選手だった。 1981年5月31日、21歳でプロボクシングデビュー。 1987年5月30日、空位のIBF世界ヘビー級王座をトニー・タッカーと争い、10回TKO負け。 1990年2月11日、マイク・タイソンの持つWBA・WBC・IBF世界ヘビー級王座に挑戦し、10回KO勝ちで王座を獲得(マイク・タイソン 対 ジェームス・ダグラス戦)。リングマガジン アップセット・オブ・ザ・イヤーに選出された。強打で恐れられたタイソンに勇気を持って立ち向かい、タイソンを初めて破った選手となった。しかしこの試合はダグラスがダウンした際に実質13秒のロングカウントが為されたとされ、試合後に法廷闘争に発展。「疑惑のロングカウント」によりダグラス自身もボクサーとして正当な評価を得られなかった。タイソン戦を巡っての法廷闘争は後に1度目の引退後に至るまで深刻な精神的ダメージを与えた。ダグラスは当時を「私はチャンピオンになったが、それは悪夢だった」と振り返っている[2][3]。 1990年2月23日、プロレス団体のWWE(当時WWF)に特別レフェリーとして出演。試合を裁いた。元々はタイソンが特別レフェリーを務める予定だったが、KO負けしたことでダグラスが代わりを務めることになった。 タイソンとプロモーターのドン・キングが再戦を要求したが、ダグラスはその要求を断ってイベンダー・ホリフィールドと対戦することを選択した。 1990年10月25日、イベンダー・ホリフィールドに3回KO負けし、王座から陥落。試合後に1度目の引退を表明する。ダグラスはこの試合で2460万ドルのファイトマネーを稼いだ[2]。番狂わせで世界チャンピオンに上り詰めたことで環境が激変し、コンディション調整の失敗も理由であった。この敗戦でダグラスの評価は一段と下がり、メディアでは「まぐれでタイソンに勝った男」と評されるようになった。 引退後に体重が400ポンド(約180キロ)近くに達し、うつ病を発症。これに加えアルコール依存症となり糖尿病も併発した。一時は生死をさまようほど病状が悪化し、ダグラスは当時を「人生に無関心だった」と振り返っている[2]。このためトレーニングを再開。 1996年6月22日、6年ぶりに現役復帰し、復帰戦から6連勝を記録。

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