王淩 – Wikipedia

王 淩(おう りょう、172年 – 251年)は、中国後漢末期から三国時代の武将。魏に仕えた。字は彦雲。并州太原郡祁県(現在の山西省晋中市祁県)の人。父は王宏[1]。叔父は王允。兄は王晨。子は王広・王飛梟・王金虎・王明山[2]

同僚の蔣済は王淩のことを、文武を兼ね備えた人物だと評した。

192年、叔父の王允が李傕らによって殺害されると、兄の王晨と共に城壁を乗り越えて、郷里に逃げ戻った。後に孝廉へ推挙され、発干県長・中山太守を歴任した。やがて曹操に認められ、中央に出仕した。

222年、呉の呂範との戦いの功績で、建武将軍となり宜城亭侯に封じられた。

228年、石亭の戦いでは負け戦となったが、王淩が奮戦して敵の包囲を破ったので、曹休を逃がすことができた。

王淩は統治能力に優れていたため、兗州・青州・豫州・揚州の刺史になった。また人民は王淩の統治を称賛している。特に、王基と共に荒廃した青州の政治を立て直した時は、民から非常に称えられた。満寵とは意見が対立したため、その失脚を狙ったが失敗したという。呉の武将の孫布が魏への降伏を申し出た際には、満寵が偽装降伏であると見抜いたが、王淩はそれに従わず孫布を迎えに行くために出兵し、大敗した。

241年、王淩は呉の全琮を撃退し、秦晃を戦死させた(芍陂の役)。この功績により南郷侯に爵位が進み、車騎将軍となった。その後、三公の司空・太尉を歴任した。

249年、甥の令狐愚と共に曹芳(斉王)の廃位を企み、曹彪の擁立を企てた。曹芳が年少で頼りなく、司馬懿のような権臣が勢力を振るうので、年長の曹彪に代えようとしたのである。これを長男の王広が激しく諫めたが、王淩は取り合わなかった。また、甥の死後もその計画を推し進めた。

しかし251年、司馬懿に計画を察知されて失敗し、降伏した。その後、司馬懿が自分を誅殺するつもりであることを悟ったため、護送の途中で賈逵を祀った廟の前を通りかかった時に「梁道(賈逵の字)殿、この王淩は元より魏の社稷に忠実な男です。あなたに神格があるのなら、ご存知の筈です」と叫んだという。まもなく、都への到着を前にという地域を通りかかった時、服毒自殺した。齢80。やがて、計画を諫めた長男の王広らと孫・曾孫らも含めて、王淩の三族は皆処刑された(王淩の乱)。

王淩の妹は郭淮の妻である。彼女もまた兄の王淩に連座して誅殺されかけたが、彼女の子である郭統ら五人の息子は涙を流しながら、地面に額を叩きつけ血を流し生母の助命を哀願していたという。事の重大さを覚った郭淮が、司馬懿に対し「五人の息子は母を憐んでおり、もし母に死を賜れば彼らはその後を追うことでしょう。また五人の息子を亡くせば、私もすぐに妻の後を追うことになるでしょう」と言上したため、彼女は助命されたという[3]

南北朝時代、王淩の従兄弟の王閎の六世の孫にあたる南朝宋の王玄謨は、幼少の頃から優秀さを褒められ王淩のようだ(太尉の彦雲の風あり)、といわれたという[4]

なお、小説『三国志演義』には登場しない。

  1. ^ 字は長文。弟の王允と宋翼とともに殺害されている(『後漢書』郭泰伝注が引く謝承の『後漢書』、『後漢書』王允伝による。ただし王先謙『後漢書集解』注釈では汪文台曰「郭泰伝注謝承書云、太原王長文弟子師位至司徒」則宏乃允之兄也。とある)。
  2. ^ いずれも飛梟・金虎・明山などは字で、名は不詳。
  3. ^ 『三国志』魏書王淩伝の注に引く『世語』
  4. ^ 『宋書』王玄謨伝