シルキーサリヴァン – Wikipedia

シルキーサリヴァンSilky Sullivan、1955年2月28日 – 1977年11月18日)は、アメリカ合衆国の競走馬、種牡馬。後方一気の追い込みのスタイルを得意とし、1958年のサンタアニタダービーを制するなど活躍、以後も追い込みの代名詞として名を馳せた。

  • 特記がない限り、競走はすべてダートコース。また、当時はグレード制未導入。

出自[編集]

カリフォルニア州の歯科医ライリー・ロバート、およびその夫人ネル・フランシス・ロバートが所有するメリーマンファームにて生産したサラブレッドの牡馬である[1]。「ビッグ・レッド」に例えられるような輝く栗毛の馬体で、絶大な筋肉量に16ハンドの体高、3歳時で1080ポンド(約490キログラム)の馬体重を誇る雄大な馬であった[2]。食欲も旺盛で、1日に12-15クォーツの穀物を食べ、最終的には1200ポンド(約544キログラム)を超えていたという。胴回りも一段と大きく、特注の腹帯を使っていた[2]

1956年のデルマーイヤリングセールにおいて、シルキーサリヴァンはトム・ロスとフィル・クリプスタインの2名に10,700ドルで購入された[1]。両名はシルキーサリヴァンをレジー・カーネル調教師に預け、バンデージやシャドーロールなどの馬具を赤で統一させた[3]。また、蹄鉄は通常鉄でつくられるが、シルキーサリヴァンには特注のアルミニウム製の蹄鉄が用意されていた[2]

競走馬時代[編集]

シルキーサリヴァンはデビュー当時から追い込み一辺倒の競馬を続けていった。2歳で迎えたデビュー戦では先頭から8馬身1/4差を覆しての追い込みで勝利し、それから2戦後の一般戦でも12馬身差を追い抜いて勝利を手にした[4]。バークレーハンデキャップでは14馬身差を詰めての3着であったが、その次の一般戦では再び同じ追い込みで17馬身差を差し切って勝利した。特に有名なものがその後に迎えたゴールデンゲートフューチュリティ(12月7日・8ハロン)で、ここでシルキーサリヴァンは先頭から27馬身離れたところから追い込みを開始し、その上で全馬を追い抜いてステークス競走勝ちを収めた[4][3][5]

3歳シーズン(1958年)初戦の一般戦においても追い込みのスタイルは崩すことなく、ここでも25馬身差から追い込んでクビ差での勝利を手にした。続くカリフォルニアブリーダーズチャンピオンステークスでは32馬身後方から追い上げを開始し、残り1ハロンで14馬身差だったところから先頭までクビ差まで迫ったものの、そこでゴールして2着に敗れた[4][3]。勝ったオールドペブルに騎乗していたエディ・アーキャロは、自身が手綱をしごき始めた時点ではシルキーサリヴァンの姿がまったく見えていなかったという[3]。サンタアニタパーク競馬場で迎えた次の一般戦において、シルキーサリヴァンは6.5ハロンの短距離戦で先頭から41馬身も離れた位置から追い上げを始め、最後の直線ですべてを追い抜いて勝利する絶大なパフォーマンスを見せた[4][3]

1958年のサンタアニタダービー(3月8日・サンタアニタパーク・9ハロン)は、シルキーサリヴァンの人気も相まって61,123人の観衆が詰めかけていた[3]。スタートからいつも通りの最後方に位置したシルキーサリヴァンは、最初の5ハロン時点で先頭から28馬身離された位置にいた。ここで鞍上のウィリー・シューメイカーが合図を送ると即座に動き出し、どんどん先行く馬を追い抜いて、ついには2着馬ハーコールに3馬身1/2差をつける完勝劇を見せつけた。勝ちタイムは1分49秒40[3]

シルキーサリヴァンはケンタッキーダービーを目指してチャーチルダウンズ競馬場へと送られ、そこで7ハロンの前哨戦に出走するが、ここでは30馬身差から追い上げて4着に終わっている[3]。5月3日に迎えた本番でも追い込みは不発に終わり、ティムタムが優勝するなか14頭立ての12着に沈んだ。また続くプリークネスステークスにおいても8着と大敗し、これをもって西海岸へと戻っていった[3]。その後地元で2戦して1勝を挙げたものの、関節を痛めたことによりデルマーの海で海水浴治療にあたっている。競走能力こそ取り戻したものの、以前のようなパフォーマンスには戻らなかった[3]。また同年の冬に風邪を引き、これがもとで喘鳴症が出るようになってしまった[6]。シルキーサリヴァンは4歳になる1959年まで競走を続け、27戦12勝の戦績で引退した[4]

引退後[編集]

シルキーサリヴァンは種牡馬としては失敗で、133頭の産駒のうち勝ち上がりが63頭(47.4%)、ステークス勝ち馬も4頭のみ、母の父としても影響を残すことはなかった[1]。1963年、シルキーサリヴァンが売りに出されると、サンフランシスコの外国車輸入業者であったチェル・クヴェル英語版によって買い取られ、以後グリーンオークスタッド牧場で余生を過ごした[1]。シルキーサリヴァンは温厚で、写真撮影にはポーズをとって対応し、また子供を乗せるのも容易だったという[1]

1977年11月18日に心不全で死亡、その遺骸は活躍の場であったゴールデンゲートフィールズ競馬場の内馬場に埋葬され、同地には記念碑も建設された[1]。没する前年の1976年、ゴールデンゲートフィールズ競馬場では「シルキーサリヴァンハンデキャップ」を創設し、その栄誉を称えている。

参考文献[編集]

  • William H. P. Robertson (1964). The History of Thoroughbred Racing in America. Bonanza Books. ASIN B000B8NBV6 

注釈[編集]

出典[編集]