元正天皇 – Wikipedia

元正天皇(げんしょうてんのう、680年〈天武天皇9年〉- 748年5月22日〈天平20年4月21日〉)は、日本の第44代天皇(在位:715年10月3日〈霊亀元年9月2日〉- 724年3月3日〈養老8年2月4日〉)。

父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひだか)・日高、または新家(にいのみ)。和風諡号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたかみずきよたらしひめのすめらみこと)である。漢風諡号の「元正天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって撰進されたとされる。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験はなく、独身で即位した初めての女性天皇である。

天武天皇の皇太子であった草壁皇子の長女として生まれる。母は阿閇皇女(のちの元明天皇)。天皇の嫡孫女として重んじられたようで、天武天皇11年(682年)8月28日に、氷高皇女の病により、罪人198人が恩赦された[2]。天武天皇12年(683年)、3歳下の同母弟の珂瑠(のちの文武天皇)が誕生。

父の草壁皇子は即位に到らず持統天皇3年(689年)に薨去し、祖母の持統天皇の即位の後、同母弟の珂瑠皇子が文武天皇元年(697年)に持統天皇から譲位されて天皇の位に即いた。当時氷高皇女は18歳であり、天皇の同母姉という立場が非婚に影響したものと思われる。

慶雲4年(707年)に文武天皇が崩御し、その遺児である首皇子(のちの聖武天皇)がまだ幼かったため、母の阿閇皇女が即位、元明天皇となった。和銅3年(710年)、平城京に遷都。和銅7年(714年)1月20日、二品氷高内親王に食封一千戸が与えられる[3]。和銅8年/霊亀元年(715年)1月10日に一品に昇叙[4]

霊亀元年9月2日、皇太子である[注釈 2]甥の首皇子(聖武天皇)がまだ若いため、母の元明天皇から譲位を受け即位。「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には「天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載せ佇り」とあり「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と記されている。歴代天皇の中で唯一、母から娘への皇位継承が行われた。母の元明天皇が孫の聖武天皇の成人を待つことなく、あえて娘の元正天皇に譲位している事実を鑑みると、「女系承継」と解さざるを得ず、日本の天皇が「男系承継のみ」という説明は極めて厳しく、論理破綻していると言える。

養老元年(717年)から藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始める。

養老4年(720年)に、日本書紀が完成した。またこの年、藤原不比等が病に倒れ亡くなった。翌年長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。長屋王は元正天皇のいとこにあたり、また妹の吉備内親王の夫であった。不比等の長男の武智麻呂は中納言、次男の房前は、未だ参議(その後内臣になる)であった。

養老7年(723年)、田地の不足を解消するために三世一身法が制定された。これにより律令制は崩れ始めていく。

養老8年/神亀元年(724年)2月4日、皇太子(聖武天皇)に譲位し、太上天皇となる。譲位の詔では新帝を「我子」と呼んで、譲位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。

天平15年(743年)、聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を発している。晩年期の上皇は、病気がちで政務が行えずに仏教信仰に傾きがちであった聖武天皇に代わって、橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行していたと見られている。

系図[編集]

陵・霊廟[編集]

奈保山西陵前の立札

陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市奈良阪町にある奈保山西陵(なほやまのにしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は山形。

また皇居では、宮中三殿のひとつ皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

在位中の元号[編集]

日付は旧暦

  • 霊亀 – 元年9月2日践祚、3年11月17日改元(美濃国に美泉の祥瑞)
  • 養老 – 8年2月4日譲位

登場作品[編集]

漫画[編集]

小説[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 氷高(日高)は伊勢国飯高郡、新家は隣の一志郡にあった新家屯倉に比定し、両地域に彼女の采地か壬生部があり、それが名前の由来になったとする説もある[1]
  2. ^ 『続日本紀』本文には首皇子の立太子が行われた日付は明記されておらず、立太子を元正天皇の即位後とする説もある[5]

出典[編集]

  1. ^ 中川久仁子「飯高諸高」(加藤謙吉編『日本古代の王権と地方』大和書房、2015年) ISBN 978-4-479-84081-7
  2. ^ 『日本書紀』天武天皇11年8月28日条
  3. ^ 『続日本紀』和銅7年正月20日条
  4. ^ 『続日本紀』霊亀元年正月20日条
  5. ^ 本間満「首皇子の元服立太子について」(初出:『昭和薬科大学紀要  人文・社会・自然』35号、2001年)・所収:本間『日本古代皇太子制度の研究』(雄山閣、2014年) ISBN 978-4-639-02294-7

関連項目[編集]