Month: March 2022

三雲・井原遺跡 – Wikipedia

座標: 北緯33度33分26秒 東経130度11分44秒 / 北緯33.55722度 東経130.19556度 / 33.55722; 130.19556 三雲・井原遺跡(みくも・いわらいせき[1])は、福岡県糸島市三雲および井原に位置する弥生時代の集落跡である。2017年10月13日、国史跡に指定された。 遺跡は東を川原川、西を瑞梅寺川に挟まれた低位段丘上に位置している[2]。 遺跡の発見は、江戸時代まで遡る。福岡藩士青柳種信が著した『柳園古器略考』の「三雲古器図考」には、文政5年(1822)に発見された銅鏡や青銅製武器類などの出土品を図示し、大きさ等の説明が行われた[2]。それによると、甕棺の棺外から有柄中細形銅剣1点、中細形銅戈1点、朱入小壺1点が出土し、棺内には細形銅矛1点、中細形銅矛1点、前漢鏡35点以上、ガラス璧8点、ガラス勾玉3点、ガラス管玉60点が出土していたことになる[2]。また、「同郡井原村所穿出古鏡図」には天明年間(1781-1788年)に三雲村と井原村の村境にあたる鑓溝で、水田の水口の掘削中に壺に納められた銅鏡が出土したとされる35片が図示され、19面が副葬されていたと復元されている。このほか、巴形銅器3点も出土した。現在、散逸してしまったが、現存する有柄中細形銅剣1点および前漢鏡1点は重要文化財に指定されている[2]。 このように、前漢鏡および後漢鏡をはじめ多数の青銅器等が出土するという点で、弥生時代の重要な遺跡であると認識され、戦前から中山平次郎や原田大六らによる調査研究も行われた[2]。 本格的な発掘調査は、昭和49年度から始まる福岡県教育委員会による、三雲地区圃場整備事業に伴うもので盛土による保存を基本とし、やむをえず破壊される箇所のみ発掘調査を実施した。その後も、この遺跡の重要性に鑑み、平成6年度から前原市(現糸島市)教育委員会は、遺跡の範囲と内容を確認する発掘調査を実施してきた。その結果、遺跡は南北1500m、東西750mの約60haで、弥生時代前期から後期さらに古墳時代前期にまでおよぶことが明らかとなった[2]。 遺跡としては、弥生時代早期に墓域と居住域が営まれ、中期後葉から後期後葉まで大規模に遺構と遺物が検出され、その後、古墳時代まで集落として存続した[2]。 まず墓域については、弥生時代早期から前期前半にかけて、支石墓や甕棺墓が検出され、遺跡の北端部の加賀石地区で、弥生時代前期前半の9基の甕棺墓を確認している[2]。 江戸時代に発見された甕棺墓については、その位置が特定され、新たに金銅四葉座飾8点を検出した。さらに、多くの副葬品を納めた2号甕棺を確認した。この甕棺も盗掘にあっていたが、前漢鏡22点、硬玉製勾玉1点、ガラス勾玉12点、ガラス璧を転用した垂飾1点が出土した。これら1号・2号甕棺ともに弥生時代中期後半で、副葬品としては突出した内容であり、さらに内法で30mを超える区画をもつことから、弥生時代中期の「王墓」と位置付けられている[2]。 弥生時代後期では、江戸時代に発見された甕棺墓の位置は特定できていないが、ヤリミゾ地区で甕棺墓47基、木棺墓25基、土坑墓7基、箱式石棺墓4基、祭祀土坑51基を確認している。これらは弥生時代後期初頭に少数の甕棺墓が出現し、後期前葉から中葉がピークとなり、後期後葉には1-2基が独立的に列状に営まれるという変遷をたどり、終末期には箱式石棺となる。これらの墳墓からは、後漢鏡6点、ガラス小玉10000点以上、紫色微小玉や黄色小玉など珍しいガラス製品が副葬されていた[2]。 続いて居住域については、加賀石地区で弥生時代前期前半の竪穴建物を検出し、最終的には古墳時代まで継続した。遺跡の東南部では弥生時代中期に3条の大溝が掘削され、集落と墓域を分ける機能を果たしていたと考えられるが、弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけてすべて埋没した[2]。 そのうち、遺跡中央部の番上地区では、弥生時代前期から後期まで継続的に竪穴建物が営まれることから、三雲・井原遺跡における中心地のひとつと考えられる。東西に長い88㎡の調査区で検出された土器溜りから弥生土器とともに27点の多量の楽浪系土器が出土した。また、長方形の板石を確認し、硯としての機能が想定されている。大陸系の土器が出土するのはこの地区に限られており、大陸との交流の場としての役割を果たしていたと考えられる[2]。

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緊急ロケータービーコン – Wikipedia

この項目では、Personal Locator Beaconについて説明しています。PLBについては「PLB (曖昧さ回避)」をご覧ください。 緊急ロケータービーコン(英語:Emergency locator beacon)とは、電池などポータブル・バッテリーにより緊急信号(電波)を送信することができるラジオビーコン。航空機や船舶、および窮迫した状況下や人命救助を必要としている個人によって使用される。航空機や船舶、車両、登山者やスキーヤーなどによって様々な種類の緊急ロケータービーコンが使用されており、航空機の墜落や船舶の沈没、登山者の遭難など緊急事態が発生した場合に送信機が稼働することによって継続的な無線信号の送信を開始する。この信号によって捜索救難組織は「緊急事態である」旨の発見を容易にし、救助活動を行う際の位置特定に用いられる。全ての緊急ロケータービーコンは要救助者が「Golden day[1](カーラーの救命曲線)」以内に早急に救助されることを目的としており、外傷性イベントを受けてから24時間以内に救助されることで大幅に生存率が上昇する。 目次 1 種類 1.1 COSPAS-SARSAT 406MHz 遭難ビーコン 1.2 その他海事用ビーコン 1.3 SEND-Satellite Emergency

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キャラウェイ – Wikipedia

ヒメウイキョウ(姫茴香、学名:Carum carvi)は、セリ科ヒメウイキョウ属(キャラウェイ属)の二年草である。別名はキャラウェイ(英: Caraway)、カラム。原産地は西アジア、ヨーロッパとされる[3]。種子のように見える果実が、香辛料として用いられている。リンネの『植物の種(英語版)』(1753年) で記載された植物の一つである[4]。 同じセリ科のイノンド(別名: ディル)もヒメウイキョウと呼ばれる[5]。フェニキア人の手によってヨーロッパ中に広められた。キャラウェイの名はアラビア人が كراويا (karāwiyā; カラーウィヤー)と呼んたことに由来する。 草丈は30 – 60センチメートル (cm) に達する草本。茎は直立し、レース状のニンジンに似た羽状の葉がつく。2年目の終わりに小さな淡緑色の花が散形花序に付き、その後に濃茶色で薄茶色の筋が入った長さ3ミリメートル (mm) 程度の三日月型の果実が付く[3]。 古代から香辛料として使われ、ヨーロッパでは中世から栽培されている[3]。中世では、キャラウェイには人や物を引き止めたり結びつけたりする力があると信じられ[3]、その種子を入れておいた品物は盗難にあう事はなかったと言う。また、その実は惚れ薬の材料としても用いられていた[3]。 食用[編集] キャラウェイシードの名で流通している種子は、甘い香りとほろ苦い味、ぷちぷちとした食感が特徴。外観がクミンとそっくりなので混同されやすい。料理店などで口直しに単体で供されることもある。若葉はパセリに似た味で生食や飾り付けに使われ、根もニンジンやパースニップのように食べられる[6]。 中央ヨーロッパ、ユダヤ料理でよく使われ、パン、ソーセージ、スープ、ケーキ、ビスケット、焼きりんご、卵料理、チーズ、キャベツ料理、フルーツを使ったデザートなどの味付けに用いられるが、キャラウェイには人や物を引き止めたり結びつけたりする力があると信じられ[3]、その種子を入れておいた品物は盗難に遭うことはなかったという。また、その実は惚れ薬の材料としても用いられていた[3]。カレーにも時折使われる。特にキャベツとの相性がよく、ザワークラウトには欠かせないスパイスとされている[7]。また、ドイツではリキュールの材料として用いられ、シルバー・ブリット等のカクテルに用いられる。イタリアのリキュール、カンパリのフレーバーとしても知られている。

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グリフィス・ベイリー・コール – Wikipedia

日本空母を攻撃する急降下爆撃機(1942) グリフィス・ベイリー・コール(Griffith Baily Coale、1890年5月21日 – 1950年8月20日)[1]はアメリカ合衆国の画家である。第二次世界大戦中のアメリカ海軍の戦闘の場面を描いた戦争画などを描いた[2]。 ボルチモアの名士の息子に生まれた。早くから絵画の才能を示し、家族の熱心な支援を受けて、画家の道に進んだ。1909年から1911年までボルチモアのメリーランド美術学校(Maryland Institute College of Art)で学んだ[3] 後、パリに留学し、私立の美術学校、アカデミー・ジュリアンでウィリアム・ラパラに学んだ。フランスで活動していたアメリカ人画家のリチャード・E・ミラーからも学んだ。1913年と1914年のパリの展覧会にも出展した。その後ミュンヘンに移り、モーリッツ・ハイマン(Moritz Heymann)の私立の美術学校でも学んだ[4]。 その後、イタリア、スペインを旅し、1815年にボルチモアに戻って結婚した[1] 。第一次世界大戦が始まり1817年から1818年の間は合衆国海運委員会(U.S. Shipping Board)の依頼で、ボルチモア港で、軍用船や民間船のカモフラージュ塗装の仕事をした[4]。 第一次世界大戦後はニューヨークやコネティカットを旅し、1922年からニューヨークで活動し、肖像画や壁画を描いた。アメリカ壁画家協会(National Society of

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Wi-Fi – Wikipedia

この項目では、無線LANの規格について説明しています。その他の用法については「Wi-Fi (曖昧さ回避)」をご覧ください。 Wi-Fi(ワイファイ)とは、無線LANに関する登録商標である[1]。Wi-Fi Alliance(アメリカ合衆国に本拠を置く業界団体)によって、国際標準規格であるIEEE 802.11規格を使用したデバイス間の相互接続が認められたことを示す名称。 オーストラリア連邦科学産業研究機構(CSIRO)で天文学や宇宙科学を研究していたジョン・オサリヴァンがWi-Fiの父であるといわれている。オサリヴァンは当時CSIROで、ミニブラックホールの研究をしていた。原子ほどの大きさのミニブラックホールの爆発で生じる電波を検出する実験のために、ノイズなどの影響をなるべく受けないような方法が必要であった。そして彼はそのためのワイヤレスネットワークを作った。実験は結果としては失敗に終わったが、その副産物としてWi-Fiが生まれたのである[2]。 無線LANが商品化された当初は、同一メーカーであってもラインナップの異なる製品間では相互接続は保証されていなかった。このため、購入検討にあたり実際に接続可能かどうかユーザーに分かりづらく、無線LANの一般への普及に問題があった。 Wi-Fiに認定されるには、Wi-Fi Allianceという団体による認証が必要である[3]。Wi-Fi Allianceは、ユーザーのニーズを汲んで技術が成熟できるように、この問題を解決するための団体として1999年にWireless Ethernet Compatibility Alliance (WECA) という団体名でスタートし、2000年3月から認定業務を開始した。その後Wi-Fiの認知度が高まってきた2002年10月にWi-Fi Allianceに改名した。 ある製品が同じブランドを表示する他の製品と組み合わせて利用できるということをユーザーが確認できるようにするため、Wi-Fi AllianceはWi-Fi CERTIFIEDブランドを作った。認定された機器には、Wi-Fi Allianceの登録商標であるWi-Fiロゴの使用が許可される。

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SBJ銀行 – Wikipedia

株式会社SBJ銀行(かぶしきがいしゃエスビージェーぎんこう、英: Shinhan Bank Japan; 韓: SBJ은행)は、韓国の大手銀行、「新韓銀行」 (Shinhan Bank; 신한은행) を中核とする 「新韓金融グループ」 (Shinhan Financial Group; 신한금융그룹) の日本現地法人。 なお 「新韓金融グループ」 は、「韓国取引所」 (KRX) および

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キルク・キズ – Wikipedia

キルク・キズ遺跡(ウズベク語:Qirq-Qiz、ロシア語:Кырк-кыз)は、ウズベキスタンのテルメズ近郊に位置する9世紀の遺跡で、出典によってはKyrk-Kyz、Qyrq-Qyz、Qirq-Qizと表記されることもある。 この歴史的遺構は一般的に要塞、城郭の類といわれているが、研究者はその用途や歴史についていくつかの仮説を立てている。「四十人の娘」を意味するその名前の由来も、いくつかの伝説が挙げられているように、はっきりとしたことはわかっていない。 名称にまつわる伝説[編集] キルク・キズの名称は「四十人の娘たち」を意味するが、由来は不明である[1]。 その中の一つに、モンゴルの女戦士40人の話がある[1]。彼女らは剣を振り回し、ガヴァル Gavhar[2]またはGulaim[3](出典による)という美しいアマゾネスに導かれていたという話がある。彼女たちは、他の遊牧民族による襲撃に対して四十日と四十夜、城を守ったという伝承がある。戦いの終盤、重傷を負ったガヴァルは敵のリーダーに一騎打ちで挑んだと伝えられており、その美しさと勇敢さに感銘を受けた敵将は、軍に退却を命じる前に彼女に許しを請うたという[2]。 別の出典では、当時テルメズを治めていたパーディシャーには四十人の娘がいたと伝えられている[2]。スーフィーの賢者の来訪は、この貴族の相談役であるムッラーたちの間でパニックを引き起こした。その賢者は預言者ムハンマドの教えをよりよく知っていたからである。その後、聖職者たちは賢者についての中傷的な噂を広め、パディシャは最終的に賢者を火刑に処した[2]。40人の娘たちが沐浴をしているときに、賢者の灰がアムダリヤ川に注がれ、その後、彼女たち全員が妊娠していることが判明したため、父親の怒りを買い、彼女たちを城塞に閉じ込め、そこで40人の男子を出産したとされている[2]。 別の伝説によると、この名前はキルギスの始祖である40人の母親を指していると言われている[1]。 また、40人の乙女が中央アジアの魂を宿したという伝説もある[1]。 歴史・構造[編集] キルク・キズは、主都から3キロ離れたテルメズ地区のナモウナ村付近に位置している。 建設は9世紀に始まった。おそらく、9世紀から10世紀にかけて、サーマーン朝のモンゴル支配者の居城として、あるいは単に首長(エミール)の夏の宮殿として使われていた[2]。テルメズから離れていることで、貴族たちは周辺にある庭園やアリク(中央アジアの水路)を利用することで、人口の密集した都市の息苦しい空気から逃れることができた[4]。その他にも、研究者によって、キルク・キズの使われ方についての仮説が提唱されており、例えば、テッケ、キャラバンサライ、あるいは単なる土木構造物など、その使用について研究者によって色々な仮説が提唱されている。開口部の数と要塞機能の脆弱さは,その主目的が防衛ではなかったことを示唆している[4]。 それはソグド、あるいは前ソグド以降の封建時代の強い特徴である[1]。その建築様式は、プレ・イスラムとイスラムの影響を組み合わせている[1]。粘土と乾燥れんがでできており、すべて黄色がかった粘土で覆われている。長い年月と浸食によって角がすり減っている[2]。城壁は、側面が55メートル[3](出典によっては54メートル[4])の正方形で、正門を含む四つの門がある。城壁には窓が穿たれており、隅櫓が四隅を補強している[2]。 内部は50の部屋で構成されており、一部が吹き抜けになっているアーチ式の廊下で結ばれている[1]。全体は、中央で交差する経路により、同じ大きさの4つの部分に分かれている。もともとは中庭を中心とした2階建てであったが、1階部分とその屋根は失われている[1]。中庭も正方形をしており、一辺が11.5メートルある。この中庭の上にドームが過去に存在していたかどうかについては、研究者の間で意見が分かれている。 部屋には寝室と6つのドーム型モスクがある[1]。北側の2つの宿舎は同じ間取りで、5つの部屋が回廊につながっています。南西部はほぼ同じレイアウトで、3本の柱を持つ大きな部屋で、おそらくmikhmankhana、すなわちリビングルームとして使用されていた。 アーチとヴォールトを除けば、内部の装飾はかなり貧弱である。ヴォールトに塗料が残っている[2]。この遺跡を誰が建てたかは不明である[2]。 ^ a b c

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デイヴィッド・カーネギー (第4代準男爵) – Wikipedia

第4代準男爵サー・デイヴィッド・カーネギー(英語: Sir David Carnegie, 4th Baronet FRS FRSE、1753年11月22日 – 1805年5月25日)は、イギリスの政治家。1784年から1790年までと1796年から1805年まで庶民院議員を務めた[1]。サウセスク伯爵家の旧領を買い戻した後、1782年に伯爵位の継承を主張したが、失敗に終わっている[2]。 サウセスク伯爵位に向けた努力[編集] 第3代準男爵サー・ジェームズ・カーネギーと妻クリスチャン(Christian、旧姓ドイグ(Doig)、1820年11月4日没、デイヴィッド・ドイグの長女)の長男として[3]、1753年11月22日に生まれた[2]。1765年4月30日に父が死去すると、準男爵位を継承した[3]。この時点で11歳だったため、母や第6代準男爵サー・アレクサンダー・ラムゼイ=アーヴィンが保護者を務めた[2]。1765年から1769年までイートン・カレッジで教育を受けた後、セント・アンドルーズ大学に進学した[2]。1771年12月28日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1774年11月25日にM.A.の学位を修得した[4]。その後、グランドツアーに出た[1]。 父はサウセスク伯爵家旧領の買い戻しを進めていたが、志半ばで死去した[3]。その後、カーネギーの保護者たちはカーネギーの父の領地にかかった債務をピッタロー(Pittarrow)の売却(1767年1月、買い手は叔父ジョージ)で完済した[3][2]。カーネギーは伯爵家旧領の買い戻しを完了させると、1782年にサウセスク伯爵位の継承を主張して裁判を起こしたが、自身の雇った弁護士からの伯爵位への権利がないとのアドバイスを受けて主張を取り下げた[2]。1791年から1792年にかけて自領のキナード(英語版)を再建した[3]。 1784年1月26日にエディンバラ王立協会フェロー(英語版)に選出された[5]。1797年、アンガス(フォーファーシャー)のヨーマンリー連隊(英語版)の大尉に任命された[1]。1799年11月21日、王立協会フェローに選出された[6]。 1度目の議員期(1784年 – 1790年)[編集] 1780年イギリス総選挙では初代パンミュア伯爵ウィリアム・モールの支持を受けて、アバディーン・バラ選挙区(英語版)で現職議員アダム・ドラモンド(英語版)との選挙戦に挑もうとしたが、失敗に終わった[7]。1782年2月にフォーファーシャー選挙区(英語版)の補欠選挙に出馬してアーチボルド・ダグラス(英語版)に敗れた後、選挙申し立てでダグラスがアンガス伯爵位の推定相続人で庶民院議員への被選挙権がないと主張したが、これも失敗に終わっている[8]。一方、アバディーン・バラ選挙区での努力も続け、1783年までにブレッキン(英語版)、モントローズ(英語版)、アーブロース(英語版)といったバラへの支配を固めたため、ドラモンドはイングランドの選挙区での当選を模索し、アバディーン・バラ選挙区を諦めた[7]。カーネギーは1784年イギリス総選挙で野党候補としてアバディーン・バラ選挙区とフォーファーシャー選挙区から出馬した[2]。フォーファーシャーでは第8代ダルハウジー伯爵ジョージ・ラムゼイがダグラスを支持したためカーネギーが撤退したが[8]、アバディーンではハーキュリーズ・ロス(英語版)の挑戦を退けて当選した[7]。 議会ではアイルランド貿易問題(1785年5月)と摂政法危機(Regency Crisis、1788年

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八戸市立根岸小学校 – Wikipedia

八戸市立根岸小学校(はちのへしりつ ねぎししょうがっこう)は、青森県八戸市日計5丁目にある公立小学校。 1948年(昭和23年) 1953年(昭和28年)9月5日 – 校章制定。 1956年(昭和31年) 6月 – 日計官舎を学区に編入。 12月5日 – アメリカンスクールの建物を借用し、仮校舎とする 1958年(昭和33年)8月30日 – 校歌・校旗制定。 1960年(昭和35年)4月1日 – 木造の新校舎完成。 1961年(昭和36年)1月6日

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