Month: March 2022

中島 (江別市) – Wikipedia

中島(なかじま)は北海道江別市にある地名。 四方を篠津川と石狩川に囲まれており、東隣の篠津地区とは「中島橋」で結ばれている。 対雁川下時代[編集] 現在石狩川の対岸にある対雁地区とは、かつて地続きであり、対雁川下と呼ばれていた。当時の対雁川下は馬蹄形に大きく湾曲した石狩川に囲まれており、増水の折には直進しようとする水流をまともに受けるという、水害常襲の地であった。 毎年起こる氾濫のため畑作に適した土地とは言えなかったが、土質はよかった。そこで盛んになったのが、杞柳の栽培である。杞柳はもともと但馬国(兵庫県)の特産品で、行李の材料として用いられた。植えてから3年目の春に刈り取り、皮をむいた「白芽」の状態で行李製造業者に卸したり、あるいは麻糸で編んだ「生地編」まで仕上げてから業者に送るのである。 対雁川下では当初、但馬出身の田原鶴蔵が杞柳を栽培していた。1913年(大正2年)ころ、田中広作とその兄の政一郎が田原から細工の手ほどきを受けたのを契機に、杞柳栽培が広まっていった。1925年(大正14年)、対雁副業組合が設立される。組合の中心人物となったのは田中広作で、北海道庁から副業嘱託講師に委嘱されるほどの腕前を誇った。行李の製造は6か月程度で習熟できるため副業に適していた一方、花篭や椅子のような細工物の製作にはより高い技術が必要となるのだが、対雁副業組合の細工物は1926年(大正15年)の全国副業展覧会で二等賞を射止めるに至った。以降、組合は杞柳細工の本場である但馬に組合員を派遣して、技術の研鑽を図った。 しかし1932年(昭和7年)、大水害により地区の杞柳の大半が枯れてしまうのだった。 中島時代[編集] 1933年(昭和8年)、水害を減らす目的で、湾曲する石狩川を直線化する切替工事が行われる。しかしそのために対雁川下は、石狩川の旧河道と新水路に囲まれて周りの地区から切り離された「陸の孤島」と化してしまった。他地区との連絡には渡船が必要となり、篠津の高橋太吉が船頭を務めた。 1935年(昭和10年)の町字名改正により、地区の名称が対雁川下から中島へと改定される。そしてこの年の前後、約20年にわたって続いた杞柳栽培と加工品製造は、急速にすたれていった。 1945年(昭和20年)ころに高橋船頭が辞職し、それ以降は対岸まで渡したロープを頼りに小舟で川を越えることとなった。さらにその後、丸太2本の上に平板を敷いた浮橋が2か所に設けられたが、篠津小学校へ通う子供たちが渡ることを考えると、危険であった。1962年(昭和37年)に中島橋が完成したことで、ようやく「陸の孤島」状態が解消する。 巣守神社[編集] 中島には巣守神社が鎮座する。この名を冠した神社は日本全国を見渡しても新潟県に14社と数少なく、北海道内ではこの地の社が唯一である。 1901年(明治34年)、新潟県北魚沼郡広瀬村[注 1]出身の佐藤栄次郎が、自家の守り神として故郷の巣守神社の神符を持参して、野幌北越殖民社農場に入った。しかし佐藤は、土地が狭く水害の多い野幌に数年で見切りをつけ、対雁川下に再入植することとなる。 おそらく1935年(昭和10年)に地域が「中島」と改称されたころ、住民たちを団結させるための鎮守の杜が希求され、佐藤が持参した巣守神社の神符が地域全体の守り神へと昇格したのではないかと考えられる。 当初の神社は石狩川右岸に設けられたが、水害や築堤工事で移転を重ね、1955年(昭和30年)ころ現在地に落ち着いた。このとき拝殿も新築されたが、その後さらに雨雪の害を被らないようにと集会場が建てられ、その中に拝殿や神殿が設けられることとなった。 また鳥居の右脇には土俵があり、地域の青年力士が毎晩稽古に励む時代もあったほか、1970年代までは祭りの子供相撲も執り行われた。 1985年(昭和60年)ころに篠津神社への合祀の話が持ち上がったが、実現はしなかった。 注釈[編集]

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小島ラベル – Wikipedia

小島ラベル印刷(こじまラベルいんさつ、略称:小島ラベル(こじまラベル)、英語: Kojima Label Printing Co., Ltd.、略称:KOJIMA LABEL)は、日本の印刷会社である。神奈川県伊勢原市にあるシール専門の印刷会社である。 主に法人用のパッケージ用ラベル・シールの作製を行っている。一般的なシール印刷はもちろん、特殊加工をプラスした他とは違った演出や、素材を貼り合わせた特殊なラベルの製作が可能です。印刷会社、デザイン事務所、工業関係、化粧品関係、食品関係などさまざまな業種のシール・ラベルを高品質で製作しています。 会社名 株式会社小島ラベル印刷 法人番号 3021001021063 設立 1959年9月 所在地 〒259-1116 神奈川県伊勢原市石田414-1 ご連絡 初回のお問い合わせはフォームからのみ可能。 代表取締役 小島 哲也

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ぺこぱのオールナイトニッポンX – Wikipedia

オールナイトニッポンX > ぺこぱのオールナイトニッポンX ぺこぱのオールナイトニッポンX 放送方式 生放送 放送期間 X枠2021年4月2日(4月1日深夜)- 2022年4月1日(3月31日深夜)(予定)0(ZERO)枠2022年4月6日(4月5日深夜)- (予定) 放送時間 X枠毎週金曜 0:00 – 0:58(木曜深夜) 0(ZERO)枠毎週水曜 3:00 – 4:30(火曜深夜)(予定) 放送局 ニッポン放送

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中城ハンタ道 – Wikipedia

座標: 北緯26度16分46秒 東経127度47分46秒 / 北緯26.27944度 東経127.79611度 / 26.27944; 127.79611 中城ハンタ道(なかぐすくはんたみち)は、沖縄県中頭郡中城村にある、14世紀後半~17世紀後半の街道遺跡。 2015年3月10日、国史跡に指定された。また「古道ハンタ道(歴史の道)と世界遺産。郷土を愛し地域をおこすサークル活動」が平成25年度手づくり郷土賞受賞。 中城ハンタ道は、琉球王府時代、首里から中城を経て勝連に至る交通の動脈として機能したハンタ道の一部である。道は、標高100~160mの丘陵上の縁辺部を通過し、おおむね太平洋を眺望することが可能な立地である。 ハンタ道は、首里を起点として西原間切の幸地城を通り沖縄本島の東側を北上し、中城間切の新垣城・中城城を経て、勝連間切の勝連城に至る道筋で、首里・中城・勝連の各城を結ぶ最短ルートである。「ハンタ道」とは崖沿いの道の意味である。街道整備の時期は明確ではないが、中城城の主要部が築かれた14世紀後半までには、首里城と中城城を経て勝連城までを結ぶ主要道として整備されたものと考えられている。15世紀中頃の尚泰久時代、中城城や勝連城で繰り広げられた護佐丸・阿麻和利の乱では、王府や勝連の軍勢がこの道を往来する等、琉球史の抗争の舞台ともなったとされている。また、15世紀後半代以降の第二尚氏時代に首里を中心とした王命や物資を伝達する道路網の整備が行われる一環として、首里から中城を経て、越来間切、金武間切に向かう中頭方東海道の道筋となり、間切と間切を結ぶ宿次の道(宿道)としても機能した。17世紀中頃の道筋の様子は、『正保三年琉球国絵図』(国宝島津家文書、東京大学史料編纂所蔵)に描かれている。しかし、1671年に宜野湾間切が新設されると、中頭方東海道は西原間切から新設の宜野湾間切を経由するようになり、中城ハンタ道は宿道としての機能を終え、それ以後は地域の集落や間切をつなぐ生活道として利用された。1853年には、米国ペリー艦隊が沖縄島の調査のため探検隊を出し、ハンタ道を使って首里から中城間切を通って北上した。 新垣地区には、約330m分の道が良好に残る。発掘調査の結果、15世紀頃と近世の二時期の石敷きが見つかった。近世の道では幅員1.8から2.4m、路面には比較的小形の不定形の石材を敷き、縁石は大形の石材を使用している。道沿いには14世紀から近代にかけての集落跡(新垣上原遺跡)、集落の井戸であるミージャーガー、集落を守る機能をもち、14世紀から16世紀前半の時期とされる新垣城跡がある。また、新垣集落からやや離れた道沿いには、ペリー探検隊が休息し、旗を立てたターチイシーやターチャーイシと呼ばれる高さ約15mの琉球石灰岩の岩塊が現存する。 伊舎堂地区は史跡中城城跡に近接し、約250m分の道が良好に残っている。道の北側斜面部に、中城城や新垣集落で神事を司ったノロ、添石ヌンドゥンチの墓がある。琉球石灰岩の崖面を掘り込み正面に切石を積んだ近世の破風墓(はふうばか)である。 このように、中城ハンタ道は、14世紀後半頃には整備され、首里から中城城を経て勝連城までを結ぶ主要道として、また中頭方東海道として機能した道であり、往時を偲ぶ道路が良好に残存し、沿道には関連遺跡も残っている。琉球における交通・土木の歴史を理解する上で重要。

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YOUR SONG IS GOOD – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “YOUR SONG IS GOOD” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年7月) YOUR SONG IS GOOD(ユア・ソング・イズ・グッド)は、日本のオルガンインストゥルメンタルバンドである。所属はカクバリズム。愛称は「ユアソン」、「YSIG」。 バンドの母体はNUTS & MILKのメンバー4人(タナカ、シライシ、ヨシザワ、マツムラ)とFRUITYのサイトウ”JxJx”ジュンが1997年に結成した1曲1分以内のファストチューンのソウルパンクバンドであるSCHOOL JACKETS。半年の活動でデモテープLIVEなどを集めた40曲入りCD『Back

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カピス州 – Wikipedia

カピス州 カピス州(カピスしゅう、Province of Capiz)は、フィリピン中部、ビサヤ諸島の西ビサヤ地方(Western Visayas, Region VI)に属する州である。州都はロハス(Roxas)=旧称カピス市。面積は2,633.2km2、人口は761,384人(2015年)。 パナイ島の中央に位置し、北にアクラン州、西にアンティーケ州、南にイロイロ州と接している。沿岸部はシブヤン海が広がり、ジントトロ海峡を挟んでビコル地方のマスバテ島(マスバテ州)がある。 ロハスとイロイロ市の間には鉄道が結ばれている。 表 話 編 歴 フィリピンの州と地方 ルソン I – イロコス地方 北イロコス |

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パーソナルエンスンステークス – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “パーソナルエンスンステークス” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年5月) パーソナルエンスンステークス(Personal Ensign Stakes)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州のサラトガ競馬場で行われる競馬の平地競走。ダート9ハロン(約1811m)で施行される。出走条件は3歳以上牝馬。競走格付けはG1。例年8月下旬に開催され、同日に行われるトラヴァーズステークスの前座競走となっている。 1948年、ニューヨーク州ジャマイカ競馬場において、3歳以上牝馬を出走条件とするハンデキャップ競走、「フィレンツェハンデキャップ」が創設されたことに始まる。競走名は19世紀後半に活躍した牝馬フィレンツェを記念したものであった。1986年より、ルイジアナロッタリー社創設者で馬主としても著名であったジョンA. モリスの名を競走名に冠し、「ジョン A.モリスハンデキャップ」に改称。翌1987年よりG1競走に格付けられた。 1996年、競走馬時代に「ミス・パーフェクト」の異名を取ったパーソナルエンスンが繁殖牝馬としてもエクリプス賞を受賞。1998年、その功績を記念し、競走名が「パーソナルエンスンハンデキャップ」に改称された。2005年、負担重量の決定法が従来のハンデキャップから賞金別定に変更され、競走名も「パーソナルエンスンステークス」と改称されたが、2012年に再度、ハンデキャップ競走の「パーソナルエンスンハンデキャップ」に戻された。 1948年 ジャマイカ競馬場・ダート8.5ハロンの牝馬限定ハンデキャップ競走「フィレンツェハンデキャップ」創設。 1958年 –

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レムノスのピロストラトス – Wikipedia

レムノスのピロストラトスまたはレムノスのフィロストラトス(英語: Philostratus of Lemnos ; 古代ギリシア語: Φιλόστρατος ὁ Λήμνιος ; 190年頃 – 230年頃)は、ローマ帝国期のレムノス島出身の著述家・弁論家・第二次ソフィスト。『エイコネス』第1部の著者。 同名・同業・同出身地のアテナイのピロストラトスの甥かつ義理の息子にあたる。また、同じく同名・同業・同出身地の小ピロストラトスの親戚でもあり、彼と区別して大ピロストラトス(Philostratus the Elder)とも呼ばれる。 『エイコネス』(古希: Εἰκόνες ; 英: Imagines ; 邦題:『絵画記』『絵画論』『模倣論』、220年ごろ成立)は、エクフラシスの代表的な作品[1]。全2部からなる。第1部は本項のレムノスのピロストラトスに帰されるが、アテナイのピロストラトスに帰されることもある。一方で、第2部は小ピロストラトスに帰される。というのも、第2部の冒頭には、レムノスのピロストラトスが第1部を著したことを示唆する謝辞が述べられている[2]。 本書はルネサンス期に広く受容された。16世紀のティツィアーノの絵画『ヴィーナスへの奉献』は、本書で文章化された絵画を再現した絵画である[3]。

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