Month: April 2022

章学誠 – Wikipedia

章 学誠(しょう がくせい、1738年(乾隆3年) – 1801年(嘉慶6年))は、中国清代の史学者。字は実斎。号は少巌。もとの名は文酕。本貫は会稽郡上虞県偁山。父は応城県の知県の章鑣。 北京に上って国子監生となるも屡々科挙に落第した。彼は7回郷試に落ち、31歳にして初めて郷試に及第し、41歳で進士となった。これは当時として珍しいことではない。彼は14歳になっても四書すら暗誦できなかったと自ら語るが、決して暗愚であったわけではない。それは受験勉強をさぼって歴史書を読みふけり、歴史家のまねごとをするなど、歴史少年だった。朱筠に文を学び、実力をつけ、進士及第後も任官せず、書院の主構として生計を立てつつ執筆活動をおこない、その中で、『文史通義』を書き、独自の歴史理論を世に示したのであった。[1]。 劉宗周や黄宗羲に代表される浙東学派に影響された。 以後、邵晋涵・洪亮吉らと交流を持つようになり、また各地の地方志類の編纂に従事するようになって、史学の研究に没頭するようになった。 41歳で進士及第を果たすが、任官せずに流浪生活を送るようになり、華北地方の書院を遊歴した。 晩年は、畢沅の許で地方史書である『湖北通志』を編纂したが、最期は不遇のうちに亡くなった。 没後、日本の中国学の第一人者である内藤湖南によって、その著書『文史通義』や『校讐通義』等が、「六経皆史」という言葉で表現される独特の史学理論の書として評価されるようになって、清朝の史学者として注目されるようになった。 「章実斎先生年譜」(内藤湖南) 「章実斎先生年譜」(胡適) 山口久和『章学誠の知識論――考証学批判を中心として――』(創文社、1998年) 黒田秀教「章學誠「史徳」説の背景」(『中国研究集刊』50、2010年1月) 稲葉一郎「章学誠と『文史通義』」(『中国史学史の研究』第6部、2006年) 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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川尻哲郎 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “川尻哲郎” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年10月) 川尻 哲郎(かわじり てつろう、1969年1月5日 – )は、東京都中野区[1]出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・監督・コーチ・野球解説者。 プロ入り前[編集] 実家は酒屋を営む。日大二高では、1986年の第68回全国高等学校野球選手権西東京大会で準決勝に進出するが、野林大樹のいた日大三高に延長13回サヨナラ負けを喫し、甲子園出場はならなかった。高校卒業後は亜細亜大学に進学。同期に小池秀郎、高津臣吾両投手がおり、あまり登板機会には恵まれなかった。1年上にはプロでも同僚の弓長起浩がいた。東都大学野球リーグでは1990年に春秋季連続優勝[1]。リーグ通算24試合に登板し4勝1敗。 大学卒業後は日産自動車に入社[1]。投球フォームをサイドスローに変えて頭角を現し[1]、チームのストッパーとなる。1992年にはチームを都市対抗出場に導き、1993年にもいすゞ自動車に補強され、前年に続いて都市対抗に出場する。同年の社会人野球日本選手権は北川哲也ら投手陣を牽引。決勝に進み住友金属の尾山敦に完封負けを喫するが、この大会の敢闘賞を獲得する。1994年には3年連続となる都市対抗出場。同年の社会人野球日本選手権では決勝で日本通運に8-9と惜敗するが、2年連続準優勝と大活躍。同年のワールドカップ日本代表にも選出される。1994年度ドラフト会議にて阪神タイガースから4位指名を受けて入団[1]。担当スカウト菊地敏幸[2]。 阪神時代[編集] 1995年4月28日のヤクルトスワローズ戦では2番手で投げてプロ初登板初勝利[1]。その後も先発ローテーションに入りチーム2位の8勝を挙げルーキーながら規定投球回もクリアした。 1996年は開幕当初はアマチュア時代の経験を買われリリーフで開幕を迎えたが内容があまり良くなく、同じく先発で結果のでなかった郭李建夫と入れ替わる形で先発に復帰。先発では復帰一戦目の対広島7回戦で1安打完投負けの不運もあったが下位に低迷するチームの中リーグ3位の自己最多となる13勝(リリーフで2勝)を挙げ防御率でも4位になる、9月には月間MVPを獲得する。以降は同い年の藪恵壹と共に1990年代後半・低迷期の阪神を支える存在となる。

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松本秀夫 – Wikipedia

ラジオ番組・中継内での各種情報(終了した番組・中継を含みます)は、CDなどでの販売や公式なアーカイブなど常に参照可能な状態のネット配信、または信頼できる紙媒体またはウェブ媒体が紹介するまで、出典として用いないで下さい。検証可能性に基づき除去される場合があります。 この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “松本秀夫” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年11月) 松本 秀夫(まつもと ひでお、1961年7月22日 – )は、日本のフリーアナウンサー。 東京都大田区出身。文教大学付属小学校、芝中学校・高等学校卒業。入学後は生物部魚班で活動し、1985年3月、早稲田大学政治経済学部を1年留年して卒業後、同年4月、ニッポン放送に入社。同期は、元アナウンサーの西田麻里、元アナウンサー、フリーアナウンサーで洗足こども短期大学幼児教育保育科准教授の内村直子、元デジタル&イベント局デジタルコンテンツ部長、編成局長、専務で現・同社代表取締役社長の檜原麻希。 スポーツアナウンサーを志望していたが、入社以後は編成局制作部に所属し、『NISSANラジオパラダイス・湯浅明の全国歌謡ヒット速報』の中継リポーターにてアナウンサーデビュー[3]。以後、バラエティ番組のリポーター等を2年担当し、1987年、入社時に希望であったスポーツ実況担当の部署である、編成局スポーツ部へ異動。同年7月24日、後楽園球場で行われたジュニアオールスターゲーム中継で実況デビュー。以後、『ショウアップナイター』の実況を1000試合以上担当。 スポーツ部異動年に、ロッテオリオンズを担当した縁でロッテファンとなった。 入社5年目に幼馴染の保育士と結婚する。のちに東京都大田区にある妻の両親の土地に二世帯住宅を建てたが、現在は東京都内にある松本の家族が暮らしていたマンションの空き部屋を引き取っているため妻とは別々に暮らしている(明言はしていないが離婚をしたと思われる発言は何度かあった)。 55歳になったのを機に早期退職優遇制度を活用し、2017年3月にニッポン放送を退職してフリーアナウンサーへ転向[4]。ニッポン放送の社員として最後に、3月31日に東京ドームで催された2017年セントラル・リーグ開幕戦の読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズ戦を、里崎智也の解説とともに実況中継した[5]。以後、個人事務所の株式会社チェンジアップを設立し、ニッポン放送とは契約アナウンサーとして、『ショウアップナイター』の実況と並行し、各プロ野球球団やプロ野球OB主催のイベント司会や実況等の活動を継続している。また、元来興味を抱いていた芝居にも挑戦しており、過去に芝居脚本を複数回執筆していたが[6]、2018年に「劇団チェンジアップ」を旗上げし、全編野球コント芝居の「笑(しょう)アップアップナイター」の興行を行った[7][8]。

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カルヴァン主義 – Wikipedia

ジャン・カルヴァン カルヴァン主義(カルヴァンしゅぎ、Calvinism)とは、すべての上にある神の主権を強調する神学体系、およびクリスチャン生活の実践である。 宗教改革の思想家ジャン・カルヴァンにちなんでカルヴァン主義と名づけられている。このプロテスタントのキリスト教は、改革派の伝統、改革派信仰、改革派神学と呼ばれる。 改革派の伝統は、マルチン・ブツァー、ハインリヒ・ブリンガー、フルドリッヒ・ツヴィングリなどの神学者によって進展し、また、トマス・クランマーら英語圏の宗教改革者にも影響を与えた。 それでも、ジャン・カルヴァンの大きな影響と信仰告白、教会の議論における役割のため、これは17世紀から、一般にカルヴァン主義として知られている。 今日、この語はカルヴァンが初期の指導者であった改革派教会の教理と実践を意味する。またこの神学体系は予定説と全的堕落の教理により、最もよく知られている。 日本語では「カルビン主義」表記で知られる。 目次 1 歴史的背景 1.1 進展 2 神学者 2.1 カルヴァン以降 2.2 19世紀 2.3 20世紀

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保釣運動 – Wikipedia

この記事は中国語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2021年4月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。 中国語版記事の機械翻訳されたバージョンを表示します(各言語から日本語へ)。 翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いることは有益ですが、翻訳者は機械翻訳をそのままコピー・アンド・ペーストを行うのではなく、必要に応じて誤りを訂正し正確な翻訳にする必要があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知|zh|保釣運動}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針についての説明があります。 保釣運動のプラカード(香港) 保釣運動(ほちょううんどう)とは、日本が実効支配している尖閣諸島は中国固有の領土であるとして、中国人社会で行われている「領土返還」運動である。中華ナショナリズムであることから、日本では親中国とか反日運動と見なされる場合があるが、必ずしもそうとは言えない。なお「保釣」の「釣」とは尖閣諸島の中国側による尖閣諸島魚釣島の呼び名「釣魚島」から来ている。 目次 1 概要 2 傾向 2.1 香港 2.2 台湾 3

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岩見沢駅 – Wikipedia

岩見沢駅(いわみざわえき)は、北海道岩見沢市有明町にある北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅である。函館本線および室蘭本線が乗り入れ、全ての特急が停車する。2020年3月13日までは、全ての快速列車[注 1]が停車していた。駅番号はA13である。事務管コードは▲130133である[4]。 2021年現在は、当駅の所属線である函館本線と、当駅を終点とする室蘭本線の2路線が乗り入れている。 北海道内で最古の鉄道である幌内鉄道[注 2]の主要駅として開業した非常に古い歴史を持ち、砂川方面や室蘭方面への延長拠点として発展して来た。鉄道網が広がるのに伴って、幌内鉄道の小樽-岩見沢間が大動脈とも言える函館本線に組み込まれた後も、残りの部分の幌内線や、室蘭本線志文駅から万字線が乗り入れたほか、戦後の高度成長期に増大した貨物輸送量を支えるために、東日本最大の操車場も存在した。幌内線・万字線が廃止された現在でも、隣接するバスターミナルには周辺市町村からのバス路線が集結しており、交通の要衝としての役目を担っている。 また、駅舎が全国初の公募型コンペでデザインを選定し、2009年度グッドデザイン賞大賞を受賞した事でも知られ、2013年からは駅舎ガイドツアーが開催される事もある。こうした駅舎のガイドツアーは大都市圏以外では珍しく、北海道内の駅で開催しているのはこの岩見沢駅が唯一とされる。 2016年7月27日現在、交通系ICカードが利用できる日本最東端の駅である。 利用可能な優等列車[編集] 優等列車はいずれも札幌駅発着で、すべての列車が停車する。 1976年の岩見沢駅と周囲約1km範囲。   かつては幌内炭鉱(三笠市)や空知炭鉱(歌志内市)をはじめとする空知地方の石炭を手宮・室蘭・苫小牧の港へ運ぶ貨物列車が多く往来したが現在は炭鉱の閉山により石炭輸送はなくなり、旅客輸送も札幌が中心となった。 広い駅構内が、かつての繁栄や三笠市や夕張市を中心とした北炭の歴史を物語っている。 2007年に完成した現駅舎は4代目にあたる。 年表[編集] 1882年(明治15年)11月13日:官営幌内鉄道札幌 – 幌内間開通。停車場(駅)は江別、幌内太(後の三笠)、幌内の3箇所と、フラグステーション(休泊所、または簡易停車場などと記される事がある。旗が立ててある時だけ停車する場所。乗車人や荷物がある時のみ旗を立てて停車させ、また下車する場合は車掌に申告した。)の白石、幌向太(後の幌向)の2箇所であり、岩見沢は開設されていなかった[注 3][注 4]。

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イザヤ・ベンダサン – Wikipedia

イザヤ・ベンダサン (Isaiah Ben-Dasan、公称1918年生まれ[1][2]) は、山本七平の筆名。『日本人とユダヤ人』の著者として一躍有名になり、その後しばらくの間は、ベンダサン名義の書籍も続けて多数発行された。 神戸市中央区山本通で生まれたユダヤ人という設定。同書が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し単行本・文庫本の合計で300万部を超える大ベストセラーになったため、その正体をめぐってメディアで話題になった。 現在では、ベンダサンの正体は、『日本人とユダヤ人』の出版元であった山本書店の店主でベンダサン名義の作品の日本語訳者と称してきた山本七平であることは間違いがないとされる。山本と親しい渡部昇一との雑誌対談で山本自身が渡部の質問に答えそれを認めている[3]。筆名の由来は「いざや、便出さん」ではないかという推測が根強いが[4]、実際のところは定かではない。 山本七平『日本資本主義の精神』(1979年、光文社)に掲載されている牛尾治朗の推薦文の中に、「いつだったか、週刊誌などで、イザヤ・ベンダサンは山本さんのペンネームにちがいない、と騒がれたことがあったが、山本さんに聞くと、あれはヘブライ語で、‘地に潜みし者で、誰もさがしだせない者’という意味です、と例のおだやかな微笑みを浮かべられた」という文が見られる。 候補[編集] 山本書店版『日本人とユダヤ人』の初版本にも顔写真がなかったことから、何名もの人物が正体の候補として挙げられ、本を出版した山本書店の店主で「訳者」だとされていた山本七平と、米国人のジョセフ・ローラ、ユダヤ人のミーシャ・ホーレンスキーの共同ペンネームであったとされたこともあった。 しかし、同書の内容はユダヤ人やその文化に精通している者が関わったとは考えられないものであり[5]、現在では、事実上山本の著作であるとされることが多い。2004年5月発行の角川oneテーマ21版『日本人とユダヤ人』は山本の単独名義で刊行され、解説にも「イザヤは山本のペンネーム」という旨が明記されている。 山本七平の発言[編集] 当初『日本人とユダヤ人』の著者ではないかと言われることについて、山本は「私は著作権を持っていないので、著作権法に基づく著者の概念においては著者ではない」と述べる一方で、「私は『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも否定したことはない。」とも述べている[6]。 後に、1987年のPHP研究所主催の研究会では以下のように説明している[7] 山本書店を始めた頃に帝国ホテルのロビーを原稿の校正作業にしばしば使用していたら、フランク・ロイド・ライトのマニアということがきっかけでジョン・ジョセフ・ローラーとその友人ミンシャ・ホーレンスキーと親しくなった。 キリスト教が日本に普及しないのはなぜかという問題意識のもと3人でいろいろ資料を持ち寄って話し合っているうちにまとまった内容を本にしたのが『日本人とユダヤ人』である。 ベンダサン名での著作についてはローラーの離日後はホーレンスキーと山本の合作である。 ローラーは在日米軍の海外大学教育のため来日していたアメリカのメリーランド大学の教授で、1972年の大宅壮一ノンフィクション賞授賞式にはベンダサンの代理として出席した。 ホーレンスキーは特許関係の仕事をしているウィーン生まれのユダヤ人、妻は日本人。 また、「『日本人とユダヤ人』は知り合いのユダヤ人からヒントをもらって自分が書いた」と山本から直接聞いたという証言[8] もある。

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河合村 (岐阜県吉城郡) – Wikipedia

河合村(かわいむら)は、岐阜県吉城郡にあった村である。2004年(平成16年)2月1日に周辺町村と合併して飛騨市となった。 岐阜県北部に広がる飛騨高地北部の豪雪地帯に位置し、富山県と接する村である。 村全域が険しい山地であり、特に南西部の山々の標高が高く、宮川が流れる北東端が最も低い。 面積の94.3%が山林である。 南隣の大野郡清見村を源流とする小鳥川が南から流れ、跡津川断層沿いで東に向きを変えて村の中央部を流下する。 村南部を水源とする稲越川が村の東部を流れ、小鳥川と合流したのち宮川に流入している。 これらの河川沿いの標高817mから430mにかけて小規模な河岸段丘が分布しており、その上に集落と耕地が点在している。 合流点近くの小鳥川沿いが村の中心であり、村役場が立地していた。 1999年(平成11年)の年間平均気温は10.6度、年間降水量は2,216mm、年間降雪量は410㎝である。 隣接していた自治体[編集] 人口の推移[編集] 1960年 3,733人 (9.0%) 1970年 2,815人 (10.8%) 1980年 1,878人 (15.0%)

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