北宇和島駅 – Wikipedia

予讃線(右側)と予土線(手前)の分岐 北宇和島駅(きたうわじまえき)は、愛媛県宇和島市伊吹町にある、四国旅客鉄道(JR四国)の駅である。駅番号は予讃線がU27、予土線がG46。標高は8.8 m[2]。 乗り入れ路線[編集] 予讃線を所属線としており[3]、予土線を加えた2路線が乗り入れる。予土線はこの駅が線路名称上の終点であるが、予土線の列車はすべて予讃線経由で宇和島駅まで乗り入れている。そのため、この駅を始発・終着とする列車は設定されていない。 駅番号は、予讃線がU27、予土線はG46である。 島式ホーム1面2線を有する地上駅。高光駅方・務田駅方の両渡り線で予讃線と予土線が分岐している。 駅前商店で近距離乗車券を発売する簡易委託駅。 のりば[編集] のりば 路線 方向 行先 1・2 ■予讃線 上り 八幡浜・松山方面 ■予土線 江川崎方面 ■予讃線(■予土線含む)

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紀元前600年 – Wikipedia

世紀 前7世紀 – 前6世紀 – 前5世紀 十年紀 前620年代 前610年代前600年代 前590年代 前580年代 年 前603年 前602年 前601年 紀元前600年前599年 前598年 前597年 紀元前600年(きげんぜん600ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元154年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前600年と表記されるのが一般的となった。 目次

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天野ひろゆき – Wikipedia

天野 ひろゆき(あまの ひろゆき、1970年(昭和45年)3月24日 – )は、日本のお笑いタレント、声優、ナレーター。お笑いコンビ「キャイ〜ン」のツッコミ担当。相方はウド鈴木。 本名及び旧芸名は天野 博之(読み同じ)。愛称は天野っち(アマノッチ)。2000年代には映画監督としても活動した。 愛知県岡崎市出身。浅井企画所属。岡崎市立羽根小学校、岡崎市立南中学校卒業[1]。愛知教育大学附属高等学校、日本大学国際関係学部国際文化学科(現・国際教養学科)卒業。 1991年に事務所の先輩・ウド鈴木とともにキャイ〜ンを結成。 1995年、ニッポン放送のラジオ番組『キャイ〜ン天野ひろゆきのMEGAうま!ラジオバーガー!!』でコンビを離れての初の単独レギュラー出演。 映画監督としての一面もあり、2001年に『B5』でデビューし、2009年現在3作品を撮っている(詳しくは後述)。 2003年7月、TBS『元カレ』でテレビドラマ初出演。 2003年に、ミュージカル『天使は瞳を閉じて』に出演。そのテーマソングを杏里とのデュエットでCDシングルとして発売。 2004年、天野が監督をした短編映画「CAGE」が、ゆうばり映画祭オフシアターコンペに出品され、約500本の応募作の中から入選[2]。 2011年、「ボウリングマスメディア大賞」グランプリ受賞。テレビ番組「リンカーン」(TBS)で天野自身が企画したボウリング企画が好評を得たことで受賞した[3][4]。 2011年12月に行われた「THE MANZAI 2011」(フジテレビ)では審査員を務めた。以後、同じくTHE MANZAIやABCお笑いグランプリ、R-1ぐらんぷりなどの全国的なお笑い賞レースの審査員を務めている。 2012年、フジテレビ主催のイベント「お台場合衆国」の「番組対抗カレー選手権」で「もしもツアーズ」代表として牛スジカレー「お台場スジテレビカレー」で参加。約17000票を獲得し、2位(約9000票)に大差を付けて優勝した[5]。

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ニューオータニ – Wikipedia

株式会社ニュー・オータニ(英: NEW OTANI CO.,LTD.)は、ホテルニューオータニ(総支配人:清水肇)などを運営する、東京都千代田区紀尾井町に本社を構えるチェーンホテル運営会社である。 1963年(昭和38年)に大谷米太郎が「大谷国際観光株式会社」として創業。東京オリンピックのあった1964年に国際ホテルとして「ホテルニューオータニ」が開業。帝国ホテル、ホテルオークラとともに、ホテルの「御三家」と称される。 東急グループがヒルトンホテルと提携して東京ヒルトンホテルを開設しようとした際に最初に候補となった土地を活用して、オーナーの大谷米太郎が開設したのが、現在同チェーンの中心となる、紀尾井町の「ホテルニューオータニ」であった。 このホテルは、森村誠一の小説で映画化もされた「人間の証明」の舞台となったことでも知られる。最上部の「回る展望台レストラン」のシルエットが物語の重要な鍵になっている。また、スパイ映画「007は二度死ぬ」(1967年)では、悪役組織の日本の本拠「大里化学」の本社ビルとして登場した。また、創業者の大谷米太郎が力士出身だったため、大相撲関係者の結婚式などのイベントにも使用される。 当初、ホテルの名前は「オータニ・シェラトン・ホテル」となる予定で開業前の従業員募集の広告などは「オータニ・シェラトン・ホテル」となっている[2] 。 一時期、最上階の回転レストランの回転を停止しようとの声が内部から上がったが、利用者からの反対により撤回された。なお、この回転技術は、戦艦大和の主砲の回転技術を考案した技術者により実現した。 1963年1月18日 – 大谷国際観光株式会社を設立。 1963年7月4日 – 紀尾井観光有限会社を設立。 1963年10月28日 – 紀尾井観光有限会社が大谷国際観光株式会社を吸収合併し、大谷観光株式会社に商号変更。 1964年9月1日

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アメデオ・アヴォガドロ – Wikipedia

アメデオ・アヴォガドロ(アメデーオ・アヴォガードロ、伊: Lorenzo Romano Amedeo Carlo Avogadro, Conte di Quaregna e Cerreto、1776年8月9日 – 1856年7月9日[1])は、サルデーニャ王国(現:イタリア)トリノ出身の物理学者、化学者。分子の研究に貢献し、1811年に発見した同圧力、同温度、同体積の全ての種類の気体には同じ数の分子が含まれるアボガドロの法則で名高い。 1809年にヴェルチェッリ王立大学の物理学教授を務め、1820年にはトリノ大学で理論物理学の初代教授を務めた。 Mémoire sur les chaleurs spécifiques 1776年8月9日、サルデーニャ王国(現:イタリア)ピエモンテ州トリノに母アンナ(Anna

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呂不韋 – Wikipedia

呂 不韋(りょ ふい、拼音: Lǚ Bùwéi、? – 紀元前235年)は、中国戦国時代の秦の政治家。荘襄王を王位につけることに尽力し、秦で丞相として権勢を振るった。荘襄王により、文信侯(ぶんしんこう)に封じられた。始皇帝の実父とする説もある。 奇貨居くべし[編集] 呂不韋の出身地は二説あり、韓の陽翟(『史記』呂不韋列伝)と衛の濮陽(『戦国策』)とである。商人の子として生まれ、若い頃より各国を渡り歩き、商売で富を築いた。 趙の人質となっていて、みすぼらしい身なりをした秦の公子の異人(後に子楚と改称する。秦の荘襄王のこと)をたまたま目にして、「これ奇貨なり。居くべし (これは、思いがけない品だ。仕入れておくべきだ)」[1]と言った。陽翟に帰った呂不韋は父と相談し、話し合いの結果、将来のために異人に投資することで結論がまとまったという。やがて呂不韋は再び趙に赴き、公子の異人と初めて会見した。 当の異人は、当時の秦王であった昭襄王の太子の安国君(後の孝文王)の子とはいえ、20人以上の兄弟が居ただけでなく、生母の夏氏が既に父からの寵愛を失っていたため王位を継げる可能性は極めて低く、母国にとっては死んでも惜しくない人質であった。しかも趙との関係を日増しに悪化させていた秦の仕打ちによって、趙での異人は監視され、その待遇は悪く、日々の生活費にも事欠くほどであった。だが呂不韋はこの異人を秦王にし、その功績を以て権力を握り、巨利を得る事を狙ったのである。無論、呂不韋には勝算があった。 世子を擁立[編集] 呂不韋は異人に金を渡して趙の社交界で名を売る事を指導し、自身は秦に入って安国君の寵姫の華陽夫人の元へ行った。呂不韋は華陽夫人に異人は賢明であり、華陽夫人のことを実の母親のように慕って日々を送っていると吹き込んだ。さらに華陽夫人の姉にも会って、自身の財宝の一部を贈って彼女を動かし、この姉を通じて異人を華陽夫人の養子とさせ、安国君の世子とするよう説いた。華陽夫人は安国君に寵愛されていたが未だ子がなく、このまま年を取ってしまえば自らの地位が危うくなる事を恐れて、この話に乗った。安国君もこの話を承諾して、異人を自分の世子に立てる事に決めた。 趙に帰った呂不韋が異人にこの吉報をもたらすと、異人は呂不韋を後見とした。また異人はこのとき、養母となった華陽夫人が楚の公女だったのでこれに因んで名を子楚と改めている。 呂不韋は趙の豪族の娘(趙姫)を寵愛していたが、子楚は彼女を気に入り譲って欲しいと言い出した。呂不韋は乗り気ではなかったが、ここで断って子楚の不興を買ってはこれまでの投資が水泡に帰すと思い、彼女を子楚に譲った。このとき、彼女は既に呂不韋の子を身籠っていたが、子楚にはこれを隠し通し、生まれた子も子楚の子ということにしてしまったという。これが政(後の始皇帝)であるとされる。この説が真実かどうか今となっては確かめる事はできないが、当時から広く噂されていたようで、『史記』呂不韋列伝でもこれを事実として書いているが、秦始皇本紀では触れていない。 秦の宰相[編集] 紀元前252年、秦で高齢の昭襄王が在位55年で逝去し、その次男の孝文王が立つと子楚は秦に送り返され太子となったが、間もなく孝文王が50代で逝去したために太子の子楚が即位して荘襄王となった。呂不韋は丞相(当時は相邦と呼ばれていた)となり、文信侯と号して洛陽の10万戸を領地として授けられた。呂不韋の狙いは見事に当たり、秦の丞相として彼の権勢は並ぶものがなかった。 紀元前246年、荘襄王が若くして死に、太子の政が王となった。呂不韋は仲父(ちゅうほ、父に次ぐ尊称あるいは「おじ」という意味)と言う称号を授けられ、呂不韋の権勢はますます上がった。 紀元前241年、楚・趙・魏・韓・燕の五国合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した(函谷関の戦い)[2]。このとき、全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた呂不韋と考えられている。

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豊見城市 – Wikipedia

豊見城市(とみぐすくし、沖縄方言: ティミグシク、トゥミグシク[1])は、沖縄本島南部に位置する沖縄県第6の都市。2002年に島尻郡豊見城村から町とならずに、市制を施行した。 沖縄県の県庁所在地である那覇市の南に隣接しているため、ベッドタウンとして人口が増加している。東洋経済新報社が調査した「成長力ランキング」で2006年は全国1位となった。2008年の順位は3位、2009年は7位と下がったが、2010年に再び全国1位となった。市制を施行して以降、8年連続で上位10位以内を維持している[2]。 2008年12月20日に、豊見城道路に道の駅豊崎がオープンした。 沖縄本島南部の西海岸に位置し、東シナ海に面している。東西に長い長方形をなしており、北は那覇市に隣接している。中部を饒波川が西流、のち北流して漫湖へ注ぐ。 瀬長集落から600m沖合に周囲1.5kmの瀬長島がある。戦前まで島内に小さな集落が形成されていたが、戦後は無人島になった。1946年に米軍に接収されたが、沖縄の本土復帰後の1977年に返還される。現在は橋がかかっており自動車での往来が可能で、釣りや潮干狩りの名所として知られるほか、海水浴場・キャンプ場や野球場などの娯楽施設が整備されている。 字一覧[編集] ※()内のカタカナ表記はしまくとぅば名[3] 伊良波(いらは、イラハ) 上田(うえた、イータ) 翁長(おなが、ウナガ) 嘉数(かかず、カカジ) 我那覇(がなは、ガナハ) 金良(かねら、カララ・カニラ) 宜保(ぎぼ、ジフ)一 – 五丁目 座安(ざやす、ザー) 瀬長(せなが、シナガ・アンジナ) 平良(たいら、テーラ)

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伊予鉄道横河原線 – Wikipedia

停車場・施設・接続路線 横河原線(よこがわらせん)は、愛媛県松山市の松山市駅から愛媛県東温市の横河原駅までを結ぶ伊予鉄道の鉄道路線である。 松山東郊に延び、沿線には四国第四十九番霊場の浄土寺や、愛媛大学医学部附属病院などがある。 全線にわたって単線で多くの交換駅がある。起点の松山市駅で高浜線との直通運転を実施している。 路線データ[編集] 沿線概要[編集] 起点の松山市駅を発車した列車は南東へと進路をとり、松山市都心部を走る。都心部を抜けると松山市を東西に走る石手川を渡るが、その橋梁上には石手川公園駅が設置されており、これは全国的にも珍しい。石手川公園駅を過ぎるとそれまでとは一転して住宅街が広がり、砥部方面へ向かうバスの接続拠点となるいよ立花駅に到着する。同駅からはかつて森松線という路線が分岐していた。 いよ立花駅を過ぎると直線区間が続き、次の福音寺駅までの区間は横河原線内で最も駅間距離が長いということもあり列車は快走する。続く北久米駅で直線区間は終わり、左手から見えてきた愛媛県道334号線(小松街道)と並走をして久米駅に至る。久米駅は伊予鉄道によって交通結節点とされており、南側に広がる公共交通空白地帯とを結ぶ電車連絡バスが発着している。駅付近にある四国八十八箇所霊場の西林寺を訪ねる際に利用できる。 久米を出ても列車はそのまま小松街道と並走をしながら、鷹ノ子・平井と住宅街の中を進む。平井駅で小松街道に別れを告げ、小野川を渡ると、今度は愛媛県道209号線(讃岐街道)と並走をして梅本駅に到着する。この駅も久米駅と同じく交通結節点とされており、付近にある国立四国がんセンターや大型商業施設などとを結ぶ電車連絡バスが運行されている。梅本を出ると東温市に入り、讃岐街道と別れるとすぐに愛媛県営牛渕団地の最寄り駅となる牛渕団地前駅に到着する。 牛渕団地前駅と続く牛渕駅の周辺には田園が広がるが、それもつかのま、旧重信町の中心部となる田窪駅あたりから再び住宅街の中へと入る。東温市役所の最寄り駅である次の見奈良駅では、北東方向へと大きく進路を変え、そのまま愛大医学部南口駅を過ぎると、終点の横河原駅に達する。 運行形態[編集] 普通列車のみで、ほとんどの列車が高浜線と直通運転している。昼間時間帯で15分間隔の運転である。 平日の朝のラッシュ時間帯は3 – 4両編成、平日日中および日曜祝日は2 – 3両編成となる。ワンマン運転は行っていない。 なお、毎年8月第1(または第2)日曜日に行われる松山港まつり・三津浜花火大会開催時は松山市駅23:21発まで終電が延長される。 地元からの要望に応じて開業した。しかし沿線からの株式調達失敗、兄弟路線と言える森松線の沿道有志による会社設立が難航、という経緯を見ても、横河原・森松両線の前途は多難が予想された。無論、採算がおぼつかない延伸は株主の反発を招き、平井延伸は「既存路線と新規路線の独立採算」を提案することによって、ようやく株主の了解を得るに至った。つまり、横河原線の損失は高浜線の利益で補填をしない、という不思議な経営形態をとっていた。しかも株式までそれぞれの路線ごとに分かれ、当然その配当も別々という、同一会社とは思えない珍策であった。 主力路線の高浜線・郡中線が早くに電化・高速化されたのに対し、横河原・森松の両線については1950年代初頭の段階で電化するほどの需要規模ではなく、将来性や費用対効果の観点で大規模な設備投資には問題があった。このような事情から、戦後の石炭不足を何とか乗り切った両線では蒸気機関車(坊っちゃん列車)による運行が続いていた。しばらくすると燃料事情が変化して軽油が安価に供給されるようになり、同時に石炭価格が急騰したことなどを受け、巨額の設備投資を要する電化ではなく内燃機関車(ディーゼル)への転換による近代化が検討されることとなり、1954年(昭和29年)にディーゼル化された[2]。

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エアコー – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “エアコー” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年10月) エアコー (Airco: the Aircraft Manufacturing Company) はイギリスの初期の航空機メーカーである。ジェフリー・デハビランド(父)設計の航空機などを製作した。 イギリスのデイリーグラフィック誌(The Daily Graphic)の御曹司ジョージ・トーマス (George

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内田秀男 – Wikipedia

内田 秀男 (うちだ ひでお、1921年 – 1995年) は、日本の電子技術者。NHK技術研究所に勤め、後、内田ラジオ技術研究所長。工学博士。福井県出身。昭和20年代より『無線と実験』誌などに寄稿。NHK技術研究所時代には、新型真空管の開発に従事した。 イオンクラフトなどの研究もおこなった。 三極鉱石[編集] 一般にトランジスタの発明は、実用化につながった1948年のベル研究所によるものがよく知られている(トランジスタ#歴史を参照)。しかし、内田により、「三極鉱石」による増幅作用の発見が、それ以前に既になされていた、という話が伝えられている[1][2]。 『初歩のトランジスターラジオの研究』(1958年版 pp. 4-6、1967年版 pp. 6-7)によれば、同書の著者杉本(おなじく当時NHK技研)のところへ、1948年の正月に内田が訪れ、鉱石(通常、鉱石ラジオの鉱石には、針を1本だけ接触させて使用する)に2本針を立てると増幅作用があることを発見し1Vの入力が3Vになることを確かめたが、発表しようとしたところ「鉱石が増幅するはずはない、君は頭が変になったのではないか」と(1958年版には発言者については書かれていない。1967年版には「ある人から」とだけある)言われた、と述べたという。発明(原文ママ)は1947年の秋ごろのことで、杉本は半信半疑ながらも、自信があるなら早く実物で発表するとよい、と激励した、という。 1947年当時、内田が鉱石の増幅作用に多大な関心を寄せていたことを確認できる資料もあり[3]、「砿石とその受信機」には、もし鉱石で検波以外も真空管と同様のことができれば技術的革命が起きる、真空管以前から鉱石による増幅は研究され努力が続いており、最近ではRadio Craft誌1947年4月号に放射能を使う鉱石増幅素子のアイディアが発表されている、今後真空管と同様な鉱石による素子が可能か不可能かは断言できない、といった記述が「まえおき」にある(なお、「鉱石とは」という節に鉱石の負性抵抗やヒステリシス特性や周波数特性といった興味深い特性の記述はあるが、増幅に関する記述はない。また、半導体によるエレクトロニクスの革命の予見は珍しいものではなかった[4])。1954年にはゲルマニウムダイオードをトランジスタに改造する記事を発表している[5]。なお、参考にしたものか否かは不明だが、米国の「Wireless World」誌の同年1月号に、かなり趣旨が相似した「Home-Made Transistors」という記事がある。 誠文堂新光社の『おとなの工作読本』11号の記事などには、GHQの検閲により内田によるトランジスタ発明の雑誌発表が差し止められた、アメリカでの研究に先行して発表されないようにという工作ではなかったか、などという記述がある。同記事は無署名であり、誠文堂新光社に文責があると思われる[6]。但し、同様の記述は他の資料でも確認される[7][8]。前述の杉本の書籍も含め、いずれにせよ1950年代の中頃より前の確認できる資料は見つかっていない。

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