雷門 – Wikipedia

この項目では、浅草寺の山門について説明しています。台東区の地名については「雷門 (台東区)」をご覧ください。 座標: 北緯35度42分40秒 東経139度47分47秒 / 北緯35.71111度 東経139.79639度 / 35.71111; 139.79639 雷門。上から昼、夜、背面。 雷門(かみなりもん)は、浅草寺の山門。東京都台東区浅草一丁目2番 – 3番地に位置し、雷門通りに面している。正式名称は風雷神門(ふうらいじんもん)であり、「雷門」と書かれた提灯の逆側には「風雷神門」と書かれている[1][2]。 門に向かって、右側に風神、左側に雷神が配される、朱塗りの山門である。門の中央には高さ3.9メートル・直径3.3メートルの提灯が吊り下げられており、浅草のランドマークとなっている。東京および日本を象徴する風景として、外国人向けの観光パンフレット、お土産のレリーフなどに写真やデザインが用いられることも多い。 目次 1 歴史 2

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日産・エキスパート – Wikipedia

この項目では、アベニールがベースのエキスパートについて説明しています。ADエキスパートについては「日産・AD」をご覧ください。 エキスパート(Expert )は、かつて日産車体が製造、日産自動車が販売した、4ナンバーサイズ(小型貨物自動車登録)のライトバンである。 1999年6月 VW11型登場。「アベニールカーゴ」(W10型)のモデルチェンジ版であるとともに、販売台数の低迷と商用車の排ガス規制強化に伴い生産を終了したセドリックバン、グロリアバン(VY30型)の後継車としての意味合いも兼ねている。W10型同様、基本設計はアベニールと同一。最大積載量は500kg(4WD車の最大積載量は400kg)。トランスミッションは、2WD、4WDそれぞれに4速ATが組合わされる。5速MTはディーゼルの2WDのみ。 2001年3月末 日産車体京都工場での生産を終了。生産を日産車体湘南工場に移管。 2002年8月 マイナーチェンジ。車名ロゴをNE-01書体に変更。グリルの意匠やインパネイルミ色等を一部変更。 2004年12月 ディーゼル車廃止。 2005年11月 姉妹車のアベニールが販売終了。ただし、エキスパートは継続生産。 2005年11月 一部改良。ヘッドライトにマニュアルレベライザー機能とフロントフェンダーにターンシグナルランプを設定し、灯火器保安基準に適合させた。 2008年12月[1] ADバンへの統合に伴ってエキスパートは販売終了となった(なお、2016年11月のマイナーチェンジに伴って車種名をNV150 ADに改名し、「エキスパート」は上級仕様を示すグレード名(「エキスパートLX」・「エキスパートGX」)となった。2021年5月の一部仕様向上に伴って車種名をADへ再改名)。また、最大積載量が450kgとなったため、最大積載量500kgのライトバンは消滅した。なお、今回のフルモデルチェンジにより、日産製のライトバンはブルーバードバンとスカイラインバンが統合したアベニールカーゴを前身とするエキスパートとサニーバンとパルサーバンを前身とするADバンが統合し、集約したこととなる。 車名の由来[編集] 「エキスパート」は、英語で「熟練者」、「達人」を意味する。

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太田プロダクション – Wikipedia

テレビ番組・中継内での各種情報(終了した番組・中継を含みます)は、DVDやBlu-rayなどでの販売や公式なネット配信、または信頼できる紙媒体またはウェブ媒体が紹介するまで、出典として用いないで下さい。検証可能性に基づき除去される場合があります。 株式会社太田プロダクションOHTA PRODUCTION Inc. 種類 株式会社 市場情報 非上場 略称 太田プロ 本社所在地 日本〒160-0004東京都新宿区四谷3-12 フロンティア四谷2F 設立 1963年(昭和38年)7月20日 業種 サービス業 法人番号 5011101003877 事業内容 芸能タレント、音楽家、スポーツ選手、文化人等の育成ならびにマネージメント音楽、映画、演劇、演芸、公演の企画・制作並びにその請負又は委託とその興業他

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名古屋高速5号万場線 – Wikipedia

名古屋高速5号万場線(なごやこうそく5ごうまんばせん)は、愛知県の、名古屋市中区の新洲崎ジャンクション(JCT)から名古屋市中川区の名古屋西JCTへ至る、名古屋高速道路の路線である。道路法上は、名古屋市道高速1号(中川区島井町 – 千種区鏡池通)の一部である[1]。このことから本項では5号万場線と2号東山線をまとめて解説する場合、便宜的に「高速1号」と表記する。 名古屋市の中心部と市内西部地域を連絡する東西方向の路線である。西端の名古屋西JCTにて東名阪自動車道と名古屋第二環状自動車道(名二環)および東端の新洲崎JCTにて都心環状線、2号東山線と接続する。このことから万場線は三重県や関西方面と名古屋市内を連絡する使命を担っている。 名古屋高速において3番目に供用された路線である。最初に供用された3号大高線が計画台数を大きく下回る中で[4]、2番目に供用された都心環状線の一部区間の開通によって利用台数が上昇に転じ、続く5号万場線の開通は利用台数の大幅な上昇と料金収入のアップを公社にもたらした。 万場線は全線高架一層式となっている。起点の新洲崎JCTでは、都心環状線とはランプウェイで連絡するが、2号東山線とは直線で繋がっている。路線は黄金出入口付近までは直線で、そこから先はあおなみ線、JR関西線、近鉄線を横断することから大きくカーブする。横断後、再び西に進路を変えて愛知県道115号津島七宝名古屋線の上を通って終点の名古屋西JCTに至り、東名阪自動車道へは直線で、名二環へはランプウェイで連絡する。 路線データ[編集] 起点 : 愛知県名古屋市中村区名駅南四丁目 終点 : 愛知県名古屋市中川区島井町 距離 : 6.8 km 出入口 : 6箇所(入口:3箇所・出口:3箇所) 分岐 : 2箇所 車線 : 4車線

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社会科学部 – Wikipedia

社会科学部(しゃかいかがくぶ、School of Social Sciences)は、政治学・法学・経済学・経営学・会計学、近現代史・言語文化・地域研究・国際関係・社会学など、「社会諸科学」の相関性を重視する立場から、学際的な学びを志向する社会科学の総合学部。 Faculty of Social Sciences(社会科学部)という名称は、ヨーロッパ・アメリカ・アジアなど諸外国の大学では、普遍的に見られ、日本でも1950年代はじめの南山大学、東洋英和女学院大学(神谷不二教授、香西泰教授が在籍)などミッション系の大学を中心に見られたが、日本語の「社会科学」と「社会学」、「社会科学部」と「社会学部」を混同する向きがあることから、東洋英和女学院大学の様に、英語名は「Faculty of Social Sciences」のままとしながら、日本語名称を「国際社会学部」と変更したり、杏林大学では「総合政策学部」と変更した(杏林大学では、日本初の社会科学分野を複合・横断的に出来る「社会科学群」としての実験的要素が強く、千住鎮雄教授を中心に「管理工学」系統の科目が置かれた)。 「社会学部」との類似[編集] 国内の主要な「社会学部」には、英語表記も「Faculty of Sociology(社会学部)」とする大学がある一方で、英語名を「Faculty of Social Sciences(社会科学部)」とする大学も存在する。一橋大学社会学部では、大学案内で以下のような説明を行っている。 『(社会学部は)英訳名Faculty of

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首都高速1号上野線 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “首都高速1号上野線” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年5月) 首都高速1号上野線(しゅとこうそく1ごううえのせん)は、東京都中央区の江戸橋ジャンクション(JCT)で都心環状線と分岐し台東区の入谷出入口へ至る、首都高速道路の路線である。 1号上野線は江戸橋ジャンクションで都心環状線の京橋JCT方面と連絡しているのみであり、都心環状線の呉服橋出入口方面・6号向島線方面とは連絡していない。1号上野線と連絡するルートが限られていて、中央環状線と接続していないため、交通量は少なく、ほとんど渋滞しない。 全線に渡り土曜夜22時から日曜朝7時まで、大型貨物自動車の通行は禁止されている。これは全線が週末の大型貨物乗入規制の基準である環七通りより内側にあり、かつ終点の入谷出入口も規制区域内のため。 路線概要[編集] 「都道首都高速1号線」は東京都台東区北上野を起点、大田区羽田旭町を終点とする21.9kmの路線であるが、このうち江戸橋ジャンクションと浜崎橋ジャンクションの間は首都高速都心環状線の路線呼称があり、江戸橋JCT以北が「首都高速1号上野線」、浜崎橋JCT以南は「首都高速1号羽田線」と呼ばれている[1]。 1962年(昭和37年)12月20日に日本初の都市高速道路として開通した京橋出入口 – 芝浦出入口に引き続き、1963年(昭和38年)12月21日に既開通区間に接続して本町出入口から江戸橋JCTを経て都心環状線の京橋出入口まで、および羽田線の芝浦出入口と鈴ヶ森出入口の間が開通した[2]。本町以北は1965年9月に着工され、1969年5月31日に開通した。首都高速1号上野線は全区間昭和通りの上部を高架構造で建設され、往復各2車線。本町出入口では、地下駐車場と一体構造で建設された。神田川の和泉橋付近以北は地下に日比谷線が並行する。地下鉄の躯体を地中梁で跨ぐ特殊構造となっており、一部の地中梁は日比谷線建設時に同時施工された。総武本線との交差部では、首都高速が鉄道(昭和橋架道橋)の下をくぐる。上野駅付近では権利関係の複雑な土地の買収を要した。日比谷線上野駅上部では躯体幅が大きく、土被りも浅かったため地中梁を設けることができず、地震時の荷重を各橋脚に分散するためのオイルダンパーを支承に設置した[3]。 延伸計画[編集] 高速1号上野線は入谷出入口まで開通しているが、北へ延伸し中央環状線に接続する高速1号線(2期)の計画もある。同路線の足立区本木付近には、高速1号線(2期)と接続するジャンクションを建設するための準備施設が用意されている。しかし現在まで都市計画決定等はされておらず、具体的なルートや整備時期などの詳細は未定である。 1992年(平成4年)12月、首都高速道路公団(当時)は1号線延伸計画案を公表した[4]。公共用地以外の場所は高さ20メートル程度の高架で高速道路を、その下にマンションを建設し、その土地の居住者には等価交換でマンションに入居してもらうという提案で、1995年(平成7年)頃の都市計画決定を目指していた[要出典]。

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武内つなよし – Wikipedia

武内 つなよし(たけうち つなよし、男性、1922年2月26日 – 1987年4月17日)は、日本の漫画家、小説家。本名は、武内 綱義。神奈川県横浜市出身。代表作に『赤胴鈴之助』、『少年ジェット』がある。 太平洋美術学校で絵を学ぶ。終戦後は紙芝居作家として活動したのち、1952年『燃えない紙』(「探偵王」8月号)で漫画家デビューする。 1954年、『イガグリくん』などの作品で知られた福井英一が「少年画報」に『赤胴鈴之助』の連載を開始したが、第一回が掲載された直後に急死したため、これを描き継ぎ、大ヒット作品に育て上げた。1957年にはラジオドラマ化を皮切りに、映画化、そしてテレビドラマ化と立て続けに他メディアに進出。さらに1972年にはアニメ化[1]されている。 また、1959年から「ぼくら」に連載された『少年ジェット』はテレビドラマ化され大人気となり、連載も3年間継続された。 画調は当初、福井の画調とも共通する丸味のある絵が特徴だったが、次第にリアルな劇画調タッチに変化を遂げている。1970年、日本文華社「特集漫画トピックス」では、青年になった鈴之助が性に目覚めて悶々とする続編『青年赤胴鈴之助』が描かれている。また1972年、『鈴之助』がアニメ化され武内自身の手でリメイクの上、小学館の学年別学習雑誌に1年間連載された際も、アニメ版と全く異なる展開と迫力ある絵が人気だった。 晩年には『小説 赤胴鈴之助』などの小説にも挑戦。また古典落語の漫画化や『まんがでわかる新道交法』などのハウツーものなど、最後まで創作意欲に衰えを見せなかった。 1987年4月17日、肺癌のため死去。65歳没。 作品リスト[編集] 怪腕チン君 鉄腕ジャム君 西部の秘宝 ダン助捕物帖 赤胴鈴之助 ずんぐり大将

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根源 – Wikipedia

根元(こんげん)あるいは根源(こんげん)とは、 ものごとのおおもとのこと[1]。  起こり[1]。はじまり。 「根源」という言葉は「根」という字と「源」という字から成り立っており、「根」という字は、木へんの字で、意味は植物の根である。「源」という字ほうは、さんずいで、「みなもと」「水(み)のもと」という意味(=水源)である。 次に根源に関する言及を辿る。 古代ギリシアではものごとのἀρχή アルケーは何なのか、ということが問われた。このアルケーを日本語に訳す時に一般的に(/しばしば)「根源」があてられている。アリストテレスは『形而上学』で、先人たちのアルケーに関する見解を紹介し、ミレトスのタレースは万物のアルケーは水だとしたと言い、ヘラクレイトスは火、ピュタゴラスは数、エンペドクレースは土・水・火・空気の四大からなるリゾーマタ、デモクリトスはアトモス(不可分体)、アナクシマンドロスは無限定(ト・アペイロン、en:Apeiron)だとしたという[2]。 アルケーの対語は「τελος (telos テロス)」であり、「終わり・目的・完成」というような意味の言葉である。 古代ギリシア語の「ἀρχή アルケー」を、古代ローマのキケロがラテン語に翻訳する時に「principium プリンキピウム」という語をあてたという[3]。そしてἀρχή はprincipium系の言葉に訳すことが定着した。『新約聖書』の『ヨハネによる福音書』はもともとギリシア語であるがそのΚατά Ιωάννην Ευαγγέλιοは、その冒頭に、コイネーギリシア語で「Εν αρχηι ην ο Λόγος

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