西尾吉次 – Wikipedia

西尾 吉次(にしお よしつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。武蔵原市藩主である。横須賀藩西尾家初代。

享禄3年(1530年)、三河国東条城主吉良持広の子として生まれる。初名は義次。持広は松平清康の妹を妻に迎えて勢力維持をはかったが、天文4年(1535年)、清康が世にいう森山崩れで横死した。三河は今川氏と織田氏の勢力の狭間となり、苦境に立たされた東条吉良、西条吉良の両吉良家は反目しあっていたが和睦した。義次は幼少のため、東条吉良家には、西条吉良家から吉良義堯の子義安が養子として迎えられた。義次は織田信長への人質として送られ、桶狭間の戦いを経て信長に仕えることとなる。以後安土城築城の石奉行、対武田戦に備えての徳川家への兵糧搬入や、検使役を務め、長篠の戦いにも参加している。

また、徳川家康への担当取次として、家康が信長に書状を送る際は義次を宛先として、意向を伝えていた[1]

天正10年(1582年)、徳川家康の饗応役を命じられ、本能寺の変が起こるとこれを急報し、護衛をして伊賀越えを決行、家康を無事に送り届け、そのまま家康の家臣になった。この功により天正14年(1586年)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)より「吉」の字の偏諱を受けて吉次と改名した。天正18年(1590年)、家康の関東移封にともない武蔵国足立郡原市に5000石の所領を与えられ、慶長4年(1599年)に従五位下・隠岐守に叙任された。関ヶ原の戦いで旗本備として功をたて、1602年に美濃国内で7000石加増され、原市藩を立藩する。慶長11年(1606年)伏見で死去、娘婿の忠永が家督を継いだ。享年77。

吉次の再興した菩提寺妙厳寺(埼玉県上尾市)には信長より拝領した永楽通宝紋鞍と鐙があり、平成10年(1998年)に埼玉県指定有形文化財に指定されている。『新編武蔵風土記稿』には、「吉次ゆかりの品」との記載があり、長い間所在不明になっていたが、昭和60年(1985年)に寺の薬師堂解体の際、その床下から発見された。

  1. ^ 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』平凡社〈中世から近世へ〉、2017年。ISBN 978-4-582-47731-3。