松尾 孝(まつお たかし、1912年(明治45年)7月15日 – 2003年(平成15年)10月28日)は、日本の実業家。カルビー創業者。広島県広島市出身[3]。 若年期[編集] 黒が自宅兼松尾糧食工業工場、黄がのちにカルビー工場となる宇品陸軍糧秣支廠、赤が爆心地。かっぱえびせんのエピソードに出てくるエビは自宅前の旧太田川で取っていたものであるという[4]。 カルビーの前身は1905年(明治38年)広島市宇品で創業した広島名産柿羊羹製造の“松尾巡角堂”である[5]。ただ孝が幼少時代での家業は、米ぬかを中心とした穀粉製造販売を行っていた[3][6]。幼少期は比較的不自由なく生活していた[3][6]。太田川(旧太田川)で捕った小エビで母親が作ってくれたかき揚げが大好物だった[7]。孝は小エビを獲る名人で、これがのちにかっぱえびせんにつながっていく[7]。 そこへもち米の暴落で父が相場で失敗し[7]、当時の金で1万円の莫大な借金を抱えた[7]。さらに1927年(昭和2年)広島第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)5年のとき、母が亡くなり、病弱で足も不自由な父と弟を養わなくてはならなくなり家業を始めた[7]。1931年(昭和6年)広島第一中学校卒業[3]。そこへ、父親が不慮の事故で死亡したため中学卒業とともに家業を継ぐことになった[3][6][8]。 松尾糧食工業[編集] 家業を継いだものの、多額の借金を抱え経営は苦しい状況であった[6][8]。たとえば1933年(昭和8年)広島商工会議所発行『商工人名録』には孝の名前は記載されていない[補足 1][9]。 新たな商売として、賀茂鶴酒造から米ぬかを調達し飼料として農家に売ったり、砕けた小米をのりに加工し京友禅業者に販売し始める[8]。1937年(昭和12年)“松尾食糧工業所”を立ち上げる[3]。太平洋戦争中は、胚芽を粉にしたものやさつまいもの澱粉粕に小米などを入れた団子などの“代用食”を軍需工場や各学校に収めていた[2]。 1945年(昭和20年)7月召集、同年8月福岡県北九州に居た時に広島市に原子爆弾が投下される[3][7]。当時の自宅は爆心地から約1.5kmにあった楠木町にあり、広島には妻と3人の息子を残して出征したが奇跡的に全員助かった[2][3]。 復員して、戦後も続いた食糧難に対応するため、まだ死臭の漂う広島市内で[7]、戦中時代に作っていた代用食や、新たに鉄道草(ヒメムカシヨモギ)の団子やキャラメルを作り始める[3][2][7]。孝は戦中戦後の食糧難の中で「健康にいい栄養のあるお菓子をつくること」を志した[6]。これが今日のカルビーの社名やかっぱえびせん誕生へとつながっていく[6]。 1945年12月、宇品にあった旧宇品陸軍糧秣支廠跡地を買い取り事務所とした[2]。ここがカルビー発祥の地である。1949年(昭和24年)株式に改組し“松尾糧食工業株式会社”と社名変更[2][3]。この時代、岡山にカバヤ食品・山口にカンロと地方で飴屋が続々と登場したことに加え朝鮮特需の影響で販売競争は激化し、さらに当時の主要市場だった九州地方を台風被害が襲ったことから、1953年(昭和28年)秋に松尾糧食工業は不渡りを出し倒産してしまった[2]。 かっぱえびせん[編集] 1955年(昭和30年)新会社“カルビー製菓”として再スタートする[8]。債権者には必ず負債を返済すると宣言した上での設立だった[8]。 試行錯誤していく中で、当時配給制で値段が高かった米の代わりにアメリカから大量に輸入されていた小麦粉を使う食品作りに転換し、その中で日本で初めて小麦あられ製造に成功、1955年“かっぱあられ”販売にこぎつけた[8]。この名は当時の人気漫画『かっぱ天国』からとったもので、作者で長崎市出身の清水崑とは被爆の話で意気投合し、かっぱあられ発売時のデザインは清水が担当した[8]。 以降“鯛の浜焼きあられ”“いかあられ”“かっぱあられ味大将”“かっぱの一番槍”など小麦あられシリーズ商品を10年近く発売し続けたもののヒット商品は生まれず、その最後の商品として発売したのが“かっぱえびせん”であった[6][10][8]。孝は小麦あられシリーズを発案していく中で、小エビが海辺で干してあるのを見て殻ごとすりつぶしあられに入れることを思いつき[8]かっぱあられ味大将を発売、そしてスティック形状はかっぱの一番槍発売の際に考えだされ、この2つの特徴を一つにまとめたのがかっぱえびせんであった[10]。
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