Month: March 2022

ホンタイジ – Wikipedia

この項目では、清の皇帝について説明しています。称号については「ホンタイジ (称号)」をご覧ください。 太宗 アイシンギョロ・ホンタイジ(愛新覚羅皇太極) 後金→清 第2代皇帝(フワンディ) 王朝 後金→清 在位期間 天命11年9月1日 – 崇徳8年8月9日(1626年10月20日 – 1643年9月21日) 都城 盛京(mukden) 姓・諱 愛新覚羅皇太極 蒙文尊称 セチェン・ハーン

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円空 – Wikipedia

この項目では、江戸時代の僧侶・仏師について説明しています。 三善為康の『拾遺往生伝』に記述がある平安時代の僧侶については「円空 (平安時代)」をご覧ください。 浄土宗西山深草派の流祖となった鎌倉時代の僧侶については「円空立信」をご覧ください。 若くして出家し法名・円空を号した鎌倉時代の公卿については「園基氏」をご覧ください。 円空(えんくう、寛永9年(1632年) – 元禄8年7月15日(1695年8月24日))は、江戸時代前期の修験僧(廻国僧)[1]・仏師・歌人。特に、各地に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られる[1]。 円空は一説に生涯に約12万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに約5,300体以上の像が発見されている。円空仏は全国に所在し、北は北海道・青森県、南は三重県、奈良県までおよぶ。多くは寺社、個人所蔵がほとんどである。その中でも、愛知県、岐阜県をはじめとする各地には、円空の作品と伝えられる木彫りの仏像が数多く残されている。そのうち愛知県内で3,000体以上、岐阜県内で1,000体以上を数える。また、北海道、東北に残るものは初期像が多く、岐阜県飛騨地方には後期像が多い。多作だが作品のひとつひとつがそれぞれの個性をもっている。円空仏以外にも、多くの和歌や大般若経の扉絵なども残されている。 出生から出家[編集] 群馬県富岡市の一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)旧蔵の「大般若経」断簡(現在は千葉県山武郡芝山町のはにわ博物館所蔵」)には「壬午年生美濃国圓空」と記され、円空は壬午年すなわち寛永9年(1632年)の出生で美濃国[2]の生まれであるとされる[3]。 具体的な生地は不明であるが、寛政2年(1790年)の伴蒿蹊『近世畸人伝』では円空の生地を「美濃国竹が鼻」とし、これは岐阜県羽島市竹鼻町とされる。蒿蹊の友人には画家の三熊思考がおり、思考が岐阜県高山市丹生川町の千光寺を訪れており、蒿蹊は思考を介して知った千光寺の伝承を基に円空の生地を「竹が鼻」としている[4][5]。また、下呂市に所在する薬師堂の木札でも円空の生地を「竹ヶ鼻」としている[5]。千光寺所蔵の館柳湾『円空上人画像』(寛政12年(1800年)作)の跋にも円空の生地を「竹が鼻」と記している[4]。また、下呂市金山町祖師野の薬師堂に伝わる文政9年(1826年)作『圓空彫刻霊告薬師』の木札にも円空の生地を「竹ヶ鼻」としている[6]。 一方、愛知県名古屋市中川区の荒子観音寺に伝わる天保15年(1844年)の十八世・金精法印『淨海雑記』では『近世畸人伝』を引用しつつも、円空の生地を「西濃安八郡中村」の生まれとしている[6]。長谷川公茂は「安八郡中村」に円空の痕跡が残されていないことから、実際に円空の生地としての伝承が残されていたのは長良川を挟んで対岸に位置し、円空開祖の中観音堂が所在する「中島郡中村」であるとしている。ほか、茨城県笠間市大町に所在する月崇寺の観音像背銘に「御木地土作大明神」とあることから、円空の生地を岐阜県郡上市美並町とし、「木地土」を「木地士」と読み、円空の出自を木地師とする説もある。これに関して小島梯次は円空像の背銘には通常尊名のみが記され文章を書く事例が見られない点や、円空の時代に「木地師」は「木地屋」と呼ばれている、「木」と「本」の読み違えなどから、「御木地士作大明神」は「御本地土作大明神」作と読むべきであると指摘し、さらに円空の郡上市美並町出身とする説を否定している。 円空に関する記録の最初の所見は寛文3年(1663年)11月6日で、郡上市美並町根村に所在する神明神社の棟札によれば、同社の天照皇太神と阿賀田大権現、八幡大菩薩を造像している。これ以前に出家していると見られているが、円空の出家に関しても諸説が存在する。 『近世畸人伝』や『淨海雑記』、『金鱗九十九塵』では幼少期に出家したとのみ記しており、『淨海雑記』では天台宗の僧となり、長じて愛知県北名古屋市の高田寺において修行したと記している。『金鱗九十九塵』では円空は最初は禅門にあり、後に高田寺で修行したとしている[12]。一方、岐阜県立図書館所蔵の明治5年(1872年)の『真宗東派本末一派寺院明細帳 拾五冊之内十』のように円空を浄土真宗の僧とする説もある[12]。さらに、円空は郡上市美並町の粥川寺において出家したとする説も見られる[12]。これは貫前神社旧蔵の大般若経断簡の文章を円空が18年前に出家即動法輪をしたと解釈して、その頃に円空がいた粥川寺において出家したとする説であるが、谷口順三や小島梯次は出家から初転法輪までの間には歳月が存在することからこれを否定している。 諸国の廻国と造仏活動[編集] 2014年時点で最古の円空仏は郡上市美並町の神明神社の諸像であるが、初期の円空仏は郡上市美並町や郡上市八幡町、関市、岐阜市など岐阜県下に分布しているほか、周辺の三重県、愛知県にも分布している[14]。初期の円空仏は小像が多い[14]。 寛文6年(1666年)1月、弘前藩の城下を追われる。『津軽藩日記』寛文6年正月29日条や北海道に分布する円空仏の背銘に拠れば、同年春には円空は青森経由で蝦夷地(北海道)の松前にへ渡っている。北海道の円空仏は道南地方に多く分布し、同一形式の観音像が多い。2014年時点で45体が確認され、現存像はこれに移入仏6体が加わる。寛政元年(1789年)の菅江真澄『蝦夷喧辞辯』(えみしのさえぎ)に拠れば、久遠郡せたな町の太田山神社(太田権現)には多数の円空仏が存在したと記しているが、これは現存していない。後に木喰の弟子・木食白道による『木食白導一代記』に拠れば安永7年(1778年)に木喰とともに北海道へ渡った白道は同社で「多数の仏」を実見したという。小島梯次は現存する北海道の円空仏は同一形式の観音像が多いのに対し、菅江真澄も木食白道も太田山神社の像は多種類の仏であったと記されていることから、太田山神社の像を円空仏であることを慎重視している。 円空の作品[編集]

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江ノ電バス – Wikipedia

株式会社江ノ電バス(えのでんバス)は、神奈川県藤沢市に本社を置くバス事業者。江ノ島電鉄の完全子会社。小田急電鉄の連結子会社(孫会社)であり小田急グループに属する。 「江ノ電バス」の名称は時系列とともに以下の変遷が存在するが、本項ではこれら全てを一括して扱う。 「江ノ島電鉄株式会社」が直営していたバス事業の通称。 江ノ島電鉄株式会社が運営するバス事業の委託・移管を目的とし、1998年(平成10年)に設立されたバス事業者(江ノ電バス株式会社)。 2007年(平成19年)に設立された「株式会社江ノ電バス横浜」および、2008年(平成20年)に前述の江ノ電バス株式会社から商号を変更した「株式会社江ノ電バス藤沢」が運営するバス事業の総称。 前述の株式会社江ノ電バス藤沢が株式会社江ノ電バス横浜を2019年(平成31年)に吸収合併した後の商号(株式会社江ノ電バス)。 現在は江ノ島電鉄の分離子会社である株式会社江ノ電バスが、路線バス・高速バス・貸切バス・特定バスの運行を行っている。一般路線バスの路線網は神奈川県内のみを運行し、江ノ島電鉄線の沿線である藤沢市南部と鎌倉市のほか、同社の鉄道路線が走らない横浜市にも拠点を持つ。横浜市内では南部の戸塚区・港南区・栄区・磯子区を中心に路線網を持ち、2019年12月15日までは横浜駅にも乗り入れていた。 もともとは江ノ島電鉄がバス事業を直営していたが、1998年に江ノ電バス株式会社を設立し、一部路線の移管と管理の受委託を進めてきた。2007年に江ノ電バス横浜を設立し、江ノ島電鉄が直営していた横浜営業所と鎌倉営業所の一部を移管し、バス事業の分社化を完了した。江ノ電バスも江ノ電バス藤沢に改称し、旧鎌倉営業所の一部路線とともに管理を受託し、江ノ島電鉄による直営は終了した。 過去の子会社[編集] いずれも江ノ島電鉄の子会社であった。 江ノ電バス藤沢[編集] 江ノ島電鉄より譲渡された旧藤沢営業所・旧手広営業所管轄路線、鎌倉湖畔線の一般路線の運行と、京都・大阪、金沢、秋田(田沢湖・角館)方面の夜行高速バスの運行、公共施設や一般の貸切バス事業も行っていた。車両後部裾部には「江ノ電バス藤沢」と表記されていた。 江ノ電バス株式会社として1998年(平成10年)8月12日設立、江ノ島電鉄から藤沢営業所の路線を運行受託。2002年(平成14年)7月には手広営業所の路線を運行受託する。 2007年(平成19年)12月1日、江ノ島電鉄から藤沢営業所・手広営業所のバス事業を譲受。バス運営の事務部門を受託し、江ノ島電鉄本社内に事務所を置く。 江ノ電バス横浜の発足に伴い、2008年(平成20年)4月、江ノ電バス株式会社が株式会社江ノ電バス藤沢へ商号変更。 2011年(平成23年)6月26日、藤沢営業所・手広営業所を統合し、湘南営業所を藤沢市宮前に設置。 2019年(平成31年)4月1日 – 株式会社江ノ電バス藤沢が株式会社江ノ電バス横浜を吸収合併して社名変更、新たに株式会社江ノ電バスとなる[4]。 社員の制服は灰色。制帽に紫のラインが入ったものを着用しているのは初任運転士を指導教育する指導運転士。非運転職はダブルの制服で袖裾に階級ラインが入る。

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熊延鉄道 – Wikipedia

熊延鉄道(ゆうえんてつどう)は、かつて熊本県熊本市の南熊本駅から同県下益城郡砥用町(現・美里町)の砥用駅までを結んでいた鉄道路線およびその運営会社である。1964年(昭和39年)に廃止された。 熊延鉄道という社名は熊本と延岡(宮崎県)を結ぶ鉄道を計画していたことに由来するが、実現には至らなかった。会社は現在、熊本バスとしてバス事業を営んでいる。 同地区では日本国有鉄道(国鉄)が宇土から浜町(現・上益城郡山都町)を経由して高千穂で国鉄高千穂線に接続する路線(延宇線)を計画していたが、宇土 – 佐俣 – 砥用間で路線バス(佐俣線)を運行しただけで着工には至らなかった。 なお、熊延鉄道線で使用されていた気動車は江若鉄道と玉野市営電気鉄道[注釈 1]へ、ディーゼル機関車は江若鉄道へ譲渡された。 路線データ[編集] 路線距離(営業キロ):28.6km 軌間:1067mm 駅数:17駅(廃止時点、起終点駅含む) 複線区間:なし(全線単線) 電化区間:なし(全線非電化) 閉塞方式: 交換可能駅:8(鯰・上島・御船・下早川・浅井・甲佐・砥用) 運行形態[編集] 1961年(昭和36年)9月当時 運行本数:南熊本

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順治帝 – Wikipedia

順治帝 アイシンギョロ・フリン(愛新覚羅福臨) 清 第3代皇帝 王朝 清 在位期間 崇徳8年8月26日 – 順治18年1月7日(1643年10月8日 – 1661年2月5日) 都城 盛京(mukden)→順天府 姓・諱 アイシンギョロ・フリン(愛新覚羅 福臨) 満洲語 ᠠᡞᠰᡞᠨ ᡤᡞᠣᠷᠣᡶᡠᠯᡞᠨ(aisin

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国立博物館 – Wikipedia

この項目では、国立の博物館を運営していた日本の独立行政法人について説明しています。その他の国立博物館については「国立博物館 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 独立行政法人国立博物館(どくりつぎょうせいほうじんこくりつはくぶつかん)は、かつて存在した文化庁所管の独立行政法人。 2001年4月に発足し、東京国立博物館、京都国立博物館、奈良国立博物館、九州国立博物館を運営していたが、2007年4月に、独立行政法人文化財研究所と統合し、独立行政法人国立文化財機構になった。なお、2006年4月には、役職員の地位が公務員型から非公務員型に移行した。 国立が冠されている博物館は他にも、国立科学博物館(独立行政法人国立科学博物館運営)や国立民族学博物館・国立歴史民俗博物館(大学共同利用機関法人人間文化研究機構運営)、東京国立近代美術館・京都国立近代美術館・国立国際美術館(独立行政法人国立美術館運営)、国立近現代建築資料館(文化庁所管)などがあるが、それぞれ別組織が運営している。国立博物館と国立科学博物館は、今後統合される可能性もとりざたされている。 東京国立博物館 奈良国立博物館 京都国立博物館 九州国立博物館 外部リンク[編集] 独立行政法人国立文化財機構 典拠管理 LCCN: n2009011679 NDL: 01006047 VIAF: 267085127, 255950616 WorldCat

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理学 – Wikipedia

この項目では、一般概念について説明しています。法人名などその他の「理学」については「理学 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 理学(りがく)とは基本的に自然科学の別名であり、特に物理学・化学・天文学などを指す[1][注 1]。明治時代初期には、特に物理学を指した[2]。英語では“natural science”(自然科学)[3]、“physical science”(物理科学)[3]、“science”(科学)など[3]。 狭義の自然科学に分類されるのは、数学・物理学・天文学・化学・生物学・地球科学(地学)である[4]。広義の自然科学には、工学・農学・医学なども含まれ得る[4]。 狭義の自然科学(ナチュラルサイエンス)は自然法則・物質の原理を追求する諸分野であり、「どうなっているのかの原理を解明する」諸分野である。これに対し、狭義の工学(エンジニアリング)は「どのように実現するかの原理を解明する」諸分野であり、実用や適用を目的としている。 また「理学」という用語・概念は「基礎科学」という用語・概念と重なるところも多いので、「応用科学」に分類されることのある工学・農学・医学・薬学などと対比される。なお、応用数学は数理物理学などの基礎科学のみならず、数理工学や数理医学などの応用科学とも重なっている。 大学の理学部における理学教育 何を理学部で教えるかについては大学ごとに若干扱いが異なっている。一般に科学の基礎となる数学、物理学、化学、生物学、地球科学、天文学などが含まれる。 数学は自然を探求対象としてるわけではないので自然科学そのものではないが、自然科学(という学問群)を支える基礎(あるいは重要な道具)と見なされているので[注 2]理学部で教育されている。計算機科学も数学系の学問と見なされ理学部で教育されていることがある。なお「natural science 自然科学」は、呼称が示しているように、あくまで自然を対象としているサイエンスのことであるので、一般に数学は含まれないものとされている[5]。 大学によっては、地理学や人類学なども理学部で取り扱っているところもある。ただし、これらの学問は学際的であり、「理学」的領域と「人文学」的領域を併せ持つので、その学問全体をどの学部にふくめるかは大学ごとの判断による。文学部で扱うこともある。あるいは、その学問をさらに細分化したうえで、理学部・文学部などに分散する形で分属させていることもある。 宋~明[編集] 中国で宋時代から宇宙の本体とその現象を理気の概念で説いた哲学が興隆し[6]、「理」を追求したので「理学」と呼ばれた。また「性即理」と説いたので「性理学」とも呼ばれる。 明治時代以降[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “理学” – ニュース ·

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康熙帝 – Wikipedia

康熙帝 愛新覚羅玄燁 清 第4代皇帝 王朝 清 在位期間 順治18年1月7日 – 康熙61年11月13日(1661年2月5日 – 1722年12月20日) 都城 北京 姓・諱 愛新覚羅玄燁(アイシンギョロ・ヒョワンイエイ) 満洲語 ᠠᡳᠰᡳᠨ ᡤᡳᠣᡵᠣᡥᡳᠣᠸᠠᠨ ᠶᡝᡳaisin

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景行天皇 – Wikipedia

景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年 – 景行天皇60年11月7日)は、日本の第12代天皇(在位:景行天皇元年7月11日 – 同60年11月7日)。『日本書紀』での名は大足彦忍代別天皇。日本武尊(ヤマトタケル)の父[1]。考古学上、実在したとすれば4世紀前期から中期の大王と推定されるが、定かではない。 活目天皇(垂仁天皇)の第三皇子、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)。垂仁天皇37年1月1日に21歳で立太子。 父皇が崩御した翌年に即位。即位2年、3月3日に播磨稲日大郎姫を皇后とした。皇后との間には大碓皇子、小碓尊らを得ている。即位4年、美濃国に行幸。八坂入媛命を妃として稚足彦尊(成務天皇)、五百城入彦皇子らを得た。即位12年、九州に親征して熊襲・土蜘蛛を征伐[1]。即位27年、熊襲が再叛すると小碓尊(16歳)を遣わして川上梟帥を討たせた[1]。即位40年、前もって武内宿禰に視察させた東国の蝦夷平定を小碓尊改め日本武尊に命じた[1]。3年後、帰途に伊勢国能褒野で30歳で逝去した日本武尊を埋葬し、大和国と河内国にも白鳥陵を造る。即位51年、8月4日に稚足彦尊を立太子。即位52年、5月4日の播磨稲日大郎姫の崩御に伴い7月7日に八坂入媛命を立后。即位53年から54年にかけて日本武尊の事績を確認するため東国巡幸。即位58年、近江国に行幸し高穴穂宮に滞在すること3年。即位60年、同地で崩御。 大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと) – 『日本書紀』、和風諡号 大足彦尊(おおたらしひこのみこと) – 『日本書紀』 大帯日子淤斯呂和氣天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと) – 『古事記』 大足日足天皇(おおたらしひこのすめらみこと) – 常陸風土記 大帯日子天皇(おおたらしひこのすめらみこと)

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高橋由一 – Wikipedia

高橋 由一(たかはし ゆいち、文政11年2月5日(1828年3月20日) – 明治27年(1894年)7月6日)は、江戸生まれの日本の洋画家。幼名は猪之助、のち佁之介。名は浩、字は剛。明治維新後に由一を名乗る。号は藍川、華陰逸人。居庵号は、石蒼波舎、伝神楼。 近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後末期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の「洋画家」といわれる[要出典]。 生い立ち[編集] 佐野藩(佐倉堀田藩の支藩)士高橋源十郎の嫡子として、江戸大手門前の藩邸で生まれる。家は代々新陰流免許皆伝で、藩内で剣術師範を勤めた。この頃婿養子だった父は母と離縁し、由一は祖父母と母に育てられる。天保7年(1836年)藩主堀田正衡の近習を務め、のち近習長となり図画取扱を兼務したという。 わずか数え2歳で絵筆を取って人面を描き、母たちを驚かせたという。12,3歳頃から堀田家に出入りしていた狩野洞庭、ついで狩野探玉斎という絵師に狩野派を学ぶ。しかし、当時は祖父について家業の剣術指南役を継ぐための剣術修行と藩務に忙しく、絵画修業は休みがちになってしまったため、探玉斎の門を退き以後独学で画を学ぶ。弘化4年(1847年)20歳の時に描いた廣尾稲荷神社拝殿天井画「墨龍図」は、狩野派の筆法で力強い龍を描いており、すでに日本画家として充分な力量を備えていた事が窺える。この頃になると、由一が絵の道に進むことを許さなかった祖父も、由一が生来病弱で剣術稽古も休みがちになっていったことを見て、ある時突然剣術の後継者は門人から選ぶので、武術を捨て画学の道に進むことを許される。親戚の紹介で文晁系に属する吉澤雪菴に師事するが、やはり藩の勤務が忙しく充分に学べなかったという。 洋画家を目指して[編集] ところが嘉永年間のある時、西洋製の石版画に接し、日頃目にする日本や中国の絵とは全く異なる迫真的な描写に強い衝撃を受ける。以後、洋画の研究を決意し、生涯その道に進むことになる。文久2年9月5日(1862年10月27日)に蕃書調所の画学局に入局し、川上冬崖に師事した。元治1年12月6日、開成所画学出役となった。本格的に油彩を学ぶことができたのは、慶応2年(1866年)、当時横浜に住んでいたイギリス人ワーグマンに師事したときで翌年にはパリ万国博覧会へ出展している。 明治時代に入り民部省の吏生や大学南校の画学教官など官職を務めるが明治6年(1873年)6月には官職を辞して日本橋浜町に画塾である天絵社を創設し(1879年天絵学舎と改称、1884年閉鎖)、弟子第一号の淡島椿岳や原田直次郎、息子の高橋源吉、日本画家の川端玉章、岡本春暉、荒木寛畝ら多くの弟子を養成する。天絵社で毎月第1日曜に展覧会をひらき、自作および門下生の作品を展覧した。明治9年(1876年)、工部美術学校の西洋絵画教師として来日した、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージと交流を深め、作画の指示を仰いだ。 明治12年(1879年)に金刀比羅宮で開かれた第2回琴平山博覧会で、天絵舎に資金援助してもらうため、作品を奉納した。そのため、金刀比羅宮は由一の作品を27点収蔵しており、現在は金刀比羅宮境内にある「高橋由一館」に展示されている。 人物、風景などの作品もあるが、代表作として挙げるべきは『鮭』であろう。極端に縦長の画面に縄で吊るされ、なかば身を欠き取られた鮭のみを描いたこの作品は西洋の模倣ではない文字通り日本人の油絵になっていると評されている。明治12年(1879年)には元老院の依頼で明治天皇の肖像も描いた。1880年4月から8月まで主幹として美術雑誌『臥遊席珍』全5号刊行。 明治14年(1881年)より山形県令であった三島通庸の要請により、三島の行った数々の土木工事の記録画を描いている。代表的なものとして『栗子山隧道図西洞門』がある。明治18年(1885年)12月21日、「展画閣ヲ造築セン事ヲ希望スルノ主意」を元老院議長佐野常民に提出する[1]。 明治27年自宅で逝去。法名は実際院真翁由一居士。墓所は渋谷区広尾の臨済宗祥雲寺。回想記に『高橋由一履歴』がある。洋画家の安藤仲太郎は甥。 ^ 高橋由一履歴 高橋源吉編 ^ 神戸市立小磯記念美術館編集・発行

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