能久親王妃富子 – Wikipedia

能久親王妃富子(よしひさしんのうひ とみこ、文久2年閏8月8日(1862年10月1日) – 1936年(昭和11年)3月20日)は、日本の皇族。北白川宮能久親王妃。

宇和島藩最後の藩主だった伊達宗徳(のちに侯爵)の次女。後に旧薩摩藩国父の島津久光(のちに公爵)の養女となる。

1886年(明治19年)7月10日に北白川宮能久親王と結婚。能久親王の信頼も厚く、日清戦争が始まった1895年(明治28年)には明治天皇のご機嫌伺いに広島の大本営へ遣わされた。しかしその翌年に台湾に出征した能久親王が現地で病没、若くして未亡人となる。能久親王との間にもうけた一子成久王が北白川宮を継承したが、能久親王にはこのほかにも5人の側室との間に10人の子女があり、富子はその教育にも力を傾けた。

それも一段落ついた1923年(大正12年)、こんどは最愛の成久王を留学先のフランスで自動車事故で失うという悲劇に見舞われる。その悲しみからか以後は葉山の別邸でひっそりと過ごすようになった。1926年(大正15年)10月に台湾に渡り、能久親王を祀った台湾神社に参拝したのが数少ない表立った行動だった。1936年(昭和11年)に74歳で薨去。

  • 国のためたてしいさをはもりそにの 山より高くおもほゆるかな
  • この島のあらむ限りは輝かむ 名も高砂の神のみいつは
  1. ^ 『官報』第1605号「叙任及辞令」、明治21年11月2日
  2. ^ 『官報』第1928号「宮廷錄事」「彙報 – 大日本帝国憲法発布記念章送付」、明治22年11月30日
  3. ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」、明治41年9月28日

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