伊達基実 – Wikipedia

伊達 基実(だて もとざね)は、江戸時代前期の武士。仙台藩一門第二席・亘理伊達家第4代当主。

寛文3年(1663年)、亘理伊達家第3代当主・伊達宗成の子として生まれる。幼名は千代松

寛文10年(1670年)、父・宗成の死去にともない、8歳にして家督を相続する。寛文11年(1671年)3月、大老酒井忠清邸で刃傷沙汰(寛文事件)が発生すると、事件を起こしたとされる原田宗輔の母・慶月院(伊達政宗の娘。基実の大伯母)の身柄を預けられたが、慶月院は同年7月に絶食して自害したため、遺体を陽林庵の片隅に埋葬した。

寛文13年(1673年)9月13日に元服し、藩主・伊達綱基の偏諱を受けて基実と名乗る。延宝3年(1675年)、伊東家の養子となっていた叔父・伊東重定が改易されると、身柄を預かって亘理領内の新地に閑居させた。

延宝7年(1679年)7月9日に切添新田として亘理郡のうち295貫681文、宇多郡のうち81貫60文、あわせて376貫741文を加増され、所領は合計2,385貫302文となった[1]

延宝9年(1681年)9月、先代の藩主綱宗の娘・夏姫を正室に迎えたが、翌天和2年(1682年)1月25日、仙台城下の亘理屋敷において疱瘡により死去した。享年20。

基実には子がいなかったため、亘理伊達家は断絶・減封の危機を迎えたが、母・清霄院らの訴えにより、岩出山伊達宗敏の二男・中村宗氏を基実の妹・虎乙の婿に迎えての完全相続が許され、亘理領は保全された(「天和の訴願」)。この時、亘理伊達家が祖先実元・成実の功績を述べ立てて、亘理領の完全相続を求めた訴状の文面は、後に『亘理忠儀記』としてまとめられた(昭和56年(1981年)、亘理町により文化財指定)。

                 ┏伊達綱村(綱基)
     ┏伊達忠宗━━伊達綱宗━┫
     ┃           ┗夏姫
     ┃             ┃
伊達政宗━╋伊達宗実━━伊達宗成 ┏伊達基実
     ┃       ┣━━━┫
     ┃      清霄院  ┗虎乙
     ┃             ┃
     ┗伊達宗泰━━伊達宗敏━━伊達実氏(宗氏)
  1. ^ 延宝7年(1679年)「御知行被下置御帳」(佐々久編『仙台藩家臣録』(歴史図書社、1978)第1巻5頁所収)

参考文献[編集]

  • 『亘理町史』上巻(宮城県亘理郡亘理町、1975年)
  • 『新地町史』歴史編(福島県相馬郡新地町、1999年)