平山信 – Wikipedia
平山 信(ひらやま しん[1]、慶応3年9月9日(1867年10月6日) – 昭和20年(1945年)6月2日)は、日本の男性天文学者。名前の「信」は「まこと」と読まれることもある。同姓の天文学者・平山清次(天体力学、古暦の研究及び小惑星の族の発見で有名)とともに、月の裏側にあるクレーター「ヒラヤマ」の名前の由来となっている[注 1]。 幕臣平山詮の子として江戸(現・東京都)に生まれた[2]。兄に海軍教授、海軍大学校教官の平山順[2]。寺尾寿に師事した[3]。1888年7月に東京帝国大学理科大学星学科(現・東京大学理学部天文学科)を卒業、蘆野敬三郎と共に[4]同学科の第1回卒業生となった[1]。1890年、グリニッジへ留学、その数か月後にはポツダムへと移り、ヘルマン・カール・フォーゲルの下で当時勃興しつつあった天体物理学を学んだ[1]。1894年に帰国すると東京帝国大学理科大学星学科講師、翌1895年には教授となり、実地天文学、天文観測、天体物理学、恒星天文学、軌道論、測地学などを教えた[1]。1899年に理学博士[1]、1909年に帝国学士院会員となる[1][5]。1920年、寺尾寿の後任として東京天文台第2代台長に就任、1928年3月に退官するまでその任にあった[1]。台長を務めた間の1924年には、東京天文台を東京麻布から三鷹村(現・三鷹市)への移転を行った[1]。また1925年から理科年表の刊行を始めている。 1900年3月に2つの小惑星候補を発見する[1]も軌道を確定できず、発見者とは見なされなかった[6][7][8]。この2つの小惑星のうち一方は平山に命名権が譲られトキオ ((498) Tokio) と命名された[8]。もう一方もまた命名について平山に意見が求められ、平山はNipponを提案、これを女性名詞化したニッポニア ((727) Nipponia) と命名された[8]。 日食観測にもたびたび参加し、太陽関係の理論的な研究も行っている[1]。後には恒星天文学を主に研究した[1]。 日本天文学会の創立にも携わり、初代の副会長[9]、第2代、5代、9代の会長を務めた[10]。 位階 勲章等 家族関係[編集] 明治32年(1899年)11月:長男・坦誕生[2]。
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