Month: March 2022

快傑ズバット – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2014年2月) 『快傑ズバット』(かいけつズバット)は、1977年2月2日から9月28日まで、東京12チャンネルで毎週水曜19:30 – 20:00(JST)に全32話[注釈 1]が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中に登場する変身ヒーローの名称である。「怪傑ズバット」は誤記[注釈 2]。 概要 本作品は、元々は前年より放送されていた『超神ビビューン』(NETテレビ)の後番組として企画されていたが、同時期に東京12チャンネルにて放送されていた『忍者キャプター』が打ち切りとなったため、その後番組へ変更された[2]。『ビビューン』の後番組にはテレビアニメ『氷河戦士ガイスラッガー』(テレビ朝日系列、東映・東映エージエンシー制作)が充てられた。 脚本のほとんどを執筆した長坂秀佳の独特の世界観、そして主人公・早川健を演じる宮内洋の独特の台詞回しと軟硬自在の演技などで、数々の特撮ヒーロー番組の中でも高い人気がある。宮内は本作品の終了直後、『ジャッカー電撃隊』(テレビ朝日系列)のテコ入れ策として行動隊長・ビッグワン役としてレギュラーに加わるが、役作りの上で早川健のテンションを高く持ち誇張した芝居が大きく影響したせいか、主役の4人が手下同然に見えてしまうような状態だったという。 メインライターの長坂は全32話中30話を執筆しているが、2話分(第7話と第12話)を他の脚本家に任せたのは「1年続くと思っていたので、一人では全部書けないと思ったから」とその理由を明かしている。しかし、作風の違いが目立ったため、残りは自分で書くことになった。結局32話で終了したため「そうなると最初から分かっていれば全部自分で書いた」とも語っている。 企画 本作品の企画や世界観を語る上で、小林旭主演の日活映画「渡り鳥シリーズ」が参考とされ、大きく影響していることが知られている[6][7][8][注釈 3]。また本作品の企画を立ち上げた鈴木武幸は松竹大谷図書館に通って「渡り鳥シリーズ」の台本を読むなどしたが、多忙のため、第1・2話のホン直しの時点で降板となった[9]。一方でメインライターを務めた長坂秀佳は日活の「渡り鳥シリーズ」をほとんど観たことがなく、「人に聞いた大体の雰囲気で書いた」と語っている[10][7]。 最初の企画書のタイトルは放送作品と同一であるが、「視聴者参加・スーパーヒーロー多次元ドラマ」となっており、視聴者のアイディアをもとにドラマを作る試みが考えられていた。また、早川健の名前は「高見沢冬彦」となっており、宇宙から来た地球監視員で大邸宅の御曹司という設定となっていた。番組放送開始直前の『テレビマガジン』1976年12月号では、「大募集! きみがつくる新ヒーロー」のタイトルで、複数のヒーローデザインと乗物および名前を掲載し、読者投票で正式デザインを採用するイベントも行われている。 その後、『探偵ズバット』と書かれた企画書を経て、放送内容と近い企画書が書かれた。ただし、設定の細部および登場人物の名前は異なっている。 高視聴率と早期終了 当時、東京12チャンネルが制作に関わったアニメ・特撮作品の中でも高視聴率をマークしたのが本作品であり、1977年3月9日放送分の第6話では15.5%にまで達した。しかし関連玩具が売れ行き不振のため、スポンサーだったタカトクが降板。これに伴い本作品も3クール弱の全32話で打ち切りになった[7]。脚本の長坂秀佳も、番組終了をいきなり聞かされたために理由を尋ねたところ、「数字が良すぎて終わる」と言われたという。実際、番組の人気は、制作側が設定していた年齢層より上の年代である大学生が中心で、それがキャラクター商品の不振の一因ともなった。当時の東京12チャンネルは系列局がなく(中京、近畿では独立UHF放送局がその代わりをしていた)、リアルタイムで観られなかった地域も存在した(北海道地区など)[6]。 このように早期終了となった本作品であるが、のちに1時間枠での再開を図っていたとされる[17]。 あらすじ 科学者の飛鳥五郎は、妹の勤める幼稚園へ地域掌握のため現れた暴力団・地獄組と対峙、命を狙われることとなる。しかしそこに妙な風来坊が現れた。その男は飛鳥の子供のころからの親友であり、何をやっても日本一の私立探偵・早川健。地獄組の用心棒を追い払い、親友との再会に喜ぶ早川だったが、幼稚園バスに爆弾が仕掛けられているのを発見。園児たちを無事に避難させ、飛鳥は独りバスを安全な所まで運ぶが爆発で重傷を負ってしまう。

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百済王神社 – Wikipedia

百濟王神社 拝殿 所在地 大阪府枚方市中宮西之町1-68 位置 北緯34度48分55.5秒 東経135度39分37秒 / 北緯34.815417度 東経135.66028度 / 34.815417; 135.66028 (百済王神社)座標: 北緯34度48分55.5秒 東経135度39分37秒 / 北緯34.815417度 東経135.66028度 /

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公害対策基本法 – Wikipedia

この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 公害対策基本法(こうがいたいさくきほんほう、昭和42年8月3日法律第132号)は、日本の4大公害病である水俣病、第二水俣病(新潟水俣病)、四日市ぜんそく、イタイイタイ病の発生を受け制定された公害対策に関する日本の基本法である。 1967年8月3日公布、同日施行。1993年11月19日、環境基本法施行に伴い統合され廃止された。 公害といっても様々な種類のものがあるが、この法律では大気汚染、水質汚濁、土壌汚染、騒音、振動、地盤沈下、悪臭の7つを公害と規定していた[注釈 1]。(典型7公害) 国民の健康で文化的な生活を確保するうえにおいて公害の防止がきわめて重要であることにかんがみ、事業者、国及び地方公共団体の公害の防止に関する責務を明らかにし、並びに公害の防止に関する施策の基本となる事項を定めることにより、公害対策の総合的推進を図り、もつて国民の健康を保護するとともに、生活環境を保全することを目的として制定された(同法1条参照)。 いわゆる「調和条項」[編集] 同法の法案の検討時、公害対策の原則として「経済の健全な発展との調和」に配慮することを目的に規定すべきという主張と、健康の保護に関しては経済との調和は不適切との主張があり、最終的な法案としては、生活環境の保全について「経済の健全な発展との調和」を図ることを目的として規定するというものになった。 法案の国会審議(1967年〈昭和42年〉第55回国会)の結果、この「経済の健全な発展との調和」の規定は、生活環境の保全に関する内容について留意事項的に第1条第2項に「前項に規定する生活環境の保全については、経済の健全な発展との調和が図られるようにするものとする。」と定められることになった[1]。 この「調和条項」については、1970年(昭和45年)の第64回臨時国会(いわゆる「公害国会」)において、他の公害対策関連法における調和条項とともに削除された[2]。 注釈[編集] ^ 当初は土壌汚染が含まれていなかった。 出典[編集] 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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音楽祭 – Wikipedia

音楽祭(おんがくさい)とは、一定の期間に特定の地域もしくは会場で集中的に、複数の出演者によるオペラやコンサートなどを行う一連の音楽行事である。大規模なものでは数日がかりで開催したり、複数の会場で演奏を同時進行させたりする。 クラシック音楽の音楽祭[編集] 伝統ある音楽祭としてはザルツブルク音楽祭(Salzburger Festspiele)やバイロイト音楽祭(Richard-Wagner-Festspiele)が有名だが、いずれも原語では音楽を意味する言葉はなく、単に「祝祭上演」(Festspiele)という意味である。また同じ意味で「ベルリン芸術週間」「国際モーツァルト週間」といった名称も使われ、総じてヨーロッパでは伝統ある「音楽祭」ほど、改めて「音楽」という言葉を入れない傾向にある。日本では「地名+音楽祭」として表記することが行われてきたため、一般の人にとってはわかりやすいが、原語との表記のギャップが生まれる結果となった。 西ヨーロッパ[編集] アイルランド[編集] イギリス[編集] オランダ[編集] フランス[編集] 南ヨーロッパ[編集] イタリア[編集] スペイン[編集] 中部ヨーロッパ[編集] オーストリア[編集] スイス[編集] チェコ[編集] ドイツ[編集] ポーランド[編集] 北ヨーロッパ[編集] スウェーデン[編集]

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常高院 – Wikipedia

常高院(じょうこういん、永禄13年(1570年)- 寛永10年8月27日(1633年9月30日))は、戦国時代から江戸時代前期の人物。若狭小浜藩の藩主京極高次の正室。本名は浅井 初(あざい はつ)で、一般に「初」の呼び名で知られる。また、幼名は御鐺(おなべ)、於那。浅井三姉妹の一人。 父は近江国小谷城主・浅井長政、母は織田信秀の娘・市(織田信長の末妹)。姉は豊臣秀吉の側室となった茶々(淀殿)、妹は徳川秀忠正室(継室)の江(崇源院)。兄に万福丸、異母弟に万菊丸、同母弟または異母弟に浅井井頼。 高次との間に子はなく、妹・江の娘で2代将軍・徳川秀忠の四女・初姫(興安院)や氏家行広の娘・古奈(母は高次の妹)らを養女とし、側室の子で嫡子の忠高(母は山田氏)や高政(母は小倉氏)、また詳細不明の養子1名を始めとした血縁・家臣らの子女の養育に積極的に関わったとされる。後に養女の初姫と忠高を娶わせるが、この両者にも子はできなかった。 近江国小谷城[注 1]に生まれる。 天正元年(1573年)、父の長政は伯父・織田信長と交戦し、小谷城は父・長政と祖父・久政の自害により落城。母の市と三姉妹は藤掛永勝に救出され、以後伯父の織田信包の下で庇護を受けたとも、尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたともいわれている(『渓心院文』)。天正2年9月29日に織田信次が戦死した後に、織田信長の岐阜城に転居することになる。 天正10年(1582年)、6月2日の本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に討たれた為、6月27日の織田家後継者を決める清洲会議によって、母・市は織田家の重臣・柴田勝家と再婚し、娘達とともに越前国北ノ庄城へ移る。天正11年(1583年)、清洲会議がきっかけで羽柴秀吉と対立した勝家は賤ヶ岳の戦いで争うも敗北。北ノ庄城の落城の際に市は勝家と共に自害したため、三姉妹は秀吉の庇護を受ける。また北ノ庄城落城後に三姉妹は遥の谷に匿われた上で羽柴秀吉に知らされ、これを聞いた秀吉が直ちに迎えを出して、三姉妹を安土城に入城させ(『玉輿記』)、その後は秀吉ではなく織田信雄が三姉妹を後見して面倒をみたともいわれている。 天正15年(1587年)、秀吉の計らいにより、浅井家の主筋にあたる京極家の当主であり従兄でもあった京極高次と結婚する[注 2]。 慶長5年(1600年)、秀吉の死後に五奉行の一人、石田三成と五大老の筆頭・徳川家康が対立し、石田三成ら(西軍)が挙兵すると京極高次は三成側に就くと思わせ、関ヶ原の戦いで大津城に籠城して東軍に転じる(大津城の戦い)。決戦前に開城したものの、西軍を足止めした功績で京極高次は若狭一国(若狭小浜8万5000石)を与えられる。 慶長14年(1609年)、夫・高次と死別すると剃髪・出家して常高院と号す。この頃から甥・豊臣秀頼(姉の茶々〔淀殿〕が豊臣家の実権を掌握とも)と徳川家康(妹・江の舅)の対立が露呈するようになり、常高院は豊臣方の使者として仲介に奔走した。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では徳川側の阿茶局とともに和議を取りまとめ、両家の和議に尽力した。 慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると秀頼の娘、後の天秀尼の助命を家康に嘆願したとも言われている。その後は妹・江とよく会っていた。江が亡くなる少し前に常高院は江戸で再会し、対談したという。 寛永10年(1633年)、京極忠高の江戸屋敷(現・東京都港区虎ノ門)で死去、享年64。 墓所は若狭(福井県小浜市)の常高寺。常高寺は後瀬山山麓にあり、後瀬山山頂にはかつて後瀬山城があった。後瀬山城は京極高次が徳川家康より若狭一国を拝領した時、初めに入った城である。墓所は、常高院永昌尼公の石塔を中心に、尼公に仕えていた尼僧達の石塔が会席する形をとって並んでいる。同寺には常高院の肖像画も伝わっている。 常高院没後の翌寛永11年(1634年)、京極氏は出雲松江藩に国替えした時も、常高院の墓所である常高寺は若狭に残された(京極高次の供養等は京極家の国替えの際に出雲に移された)。以後、京極家が出雲、播磨、讃岐へと国替えになっても、その庇護を受け続けた。 常高寺には侍女であった桂久院十一世恵林尼(小少将局)・光雲院九世義裕尼(たき)・節心院十一世智栄尼(しん)・昭陽院・法心院・清涼院・盛春院らの墓も残っている。 文禄2年(1593年)、高次の侍女於崎が忠高を懐妊すると、初(常高院)は嫉妬し殺害を企てた。高次の家臣・磯野信高は、忠高を預かって浪人となり、初の機嫌が和らぐ文禄4年(1595年)まで幼い忠高をかくまったという。松江歴史館学芸員・西島太郎が、『高島町史』編纂の過程で発見された高次の書状や「磯野家由緒書」を調べた結果として、2011年に同館の研究要綱[4]で発表した[5]。

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ビューエル – Wikipedia

ビューエル ライトニングXB12Ss 2009年モデル ビューエル (Buell) は、アメリカ合衆国で生産されていたオートバイのブランドである。 本項では現在のエリック・ビューエル・レーシングについても記述する。 1983年に当時ハーレーダビッドソンのエンジニアだったエリック・ビューエル(英語版)がイギリス・バートン社製2サイクル四気筒エンジンを搭載したオリジナルバイクの「RW750」を製作したことを機に、1986年ビューエルモーターサイクルカンパニーを設立した。 ウィスコンシン州に設立した当時はハーレーダビッドソン製のエンジンをオリジナルフレームにマウントし、ハーレーダビッドソンと異なるロードスポーツバイクを製作し販売していた。 1998年、ハーレーダビッドソンにより買収されて社内ブランドとなってからは、必然的に「自社製」のエンジンを搭載したバイクを製造しているが、エンジン部品をハーレーダビッドソンブランドの車両と共通にして用いることが多くなり、ハーレーダビッドソン車両全体の近代化に貢献した面がある。 S1Wホワイトライトニングでは、専用ピストンとシリンダーヘッドを採用した「サンダーストームエンジン」を搭載し、ハーレーダビッドソン系純正エンジンでは初めて100馬力を超えたとされている。 また2008年にはロータックス製水冷エンジンを搭載する1125シリーズを発売した。 ビューエルはアメリカ生産のスポーツバイクとしてユーザーからも一定の評価受けていたが、2009年10月にハーレーダビッドソン本社は第3四半期の売上低迷を受けてビューエルの生産を2009年10月末をもって中止し、スポーツ・バイク分野からは撤退することを発表した[1]。 ビューエルの特徴[編集] ライトニングX-1(2000年モデル) ファイヤーボルトXB12R ビューエルのオートバイは、他のメーカーにない特徴を持っている。 ラバーマウントによりフレームとエンジンを繋ぎ、振動の抑制を図っている。 マフラーやサスペンションエンジンなど重い部品を車体中心の低部に集中させている。(マスの集中化) スポーツスター系エヴォリューションエンジンをベースに独自のチューニングを施し、既存のOHVエンジンとは一線を画したエンジンレスポンス。

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新空港インターチェンジ – Wikipedia

新空港インターチェンジの位置 新空港インターチェンジ(しんくうこうインターチェンジ)は、千葉県成田市にある新空港自動車道のインターチェンジである。成田国際空港への高速道路での出入口となっている。 流出ランプは、奥の「第1ターミナル・貨物地区」方面と、手前の「第2・3ターミナル」方面に分岐しており、分岐地点が正式な終点である(中央分離帯に「高速道路終点」の標識が立っている)。 料金所は当地に設置されておらず、東関東自動車道の成田IC料金所と隣接して本線料金所が設けられている[1]。 新空港道から空港内に入る際には、第1ゲート(直進側)もしくは第2ゲート(分岐側)を通過する。検問廃止前はこのゲートで一旦停止し、千葉県警察成田国際空港警備隊による自動車の検査と、身分証明書の提示(同乗者やバスの乗客も)を求められた。 なお、空港利用者以外は第1ゲートから芝山町方面に抜けることが可能。 新空港自動車道の延長線上には当インターから首都圏中央連絡自動車道(圏央道)までを結ぶ、成田空港平行滑走路横断道路の整備が構想として存在している[2][3]。 E65 新空港自動車道 東関東自動車道 (10) 成田IC/SIC/JCT – 新空港IC 新空港道には成田IC出口がないため当ICから成田ICまでの利用はできない。ETC車に限り時間限定(6:00 – 15:00)で、成田スマートICから新空港ICまでの利用が可能となっている[4]。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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鳩山会館 – Wikipedia

鳩山会館(東京都文京区) 鳩山会館(はとやまかいかん)は、内閣総理大臣を務めた鳩山一郎の邸宅を記念館として一般に公開したものである。東京都文京区音羽にあることから音羽御殿(おとわごてん)の通称で知られ、戦後政治史の舞台の一つに数えられている。 現在は、修復を加えて記念館として一般に公開され、往時の応接室や居間、鳩山家歴代の愛用品、記念品等を見学することができる[1]。 鳩山一郎の父・和夫が1891年(明治 24年)2月、牛込区東五軒町から小石川区音羽に転居し[2]、以来、鳩山家は音羽に居を構えてきた。 現在も残る建物は関東大震災直後の1924年、鳩山一郎の私邸として建設されたものである。一郎の高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)時代からの友人で当時の代表的建築家、岡田信一郎の設計による。 サンルーム 脳梗塞の症状からひとまず回復した一郎(右)を音羽御殿に訪ねて歓談する吉田茂(1952〜1954年頃) 応接室 音羽御殿の応接室に集まった自民党幹部(1956年)。中央に一郎、左に石橋湛山、その左に河野一郎、右には安藤正純、その右に三木武吉が見える。脳梗塞の後遺症で体が不自由だった鳩山はこの瀟洒な大邸宅を政治の場に活用した。 自由党の会合の場[編集] 1950年3月、民主自由党と民主党の大合同により自由党(現:自由民主党)が発足した。このとき一郎が中心人物の一人として動いたことから、彼の私邸が会合の場として度々用いられ、自由党の創設や政策論議を交わした[1]。一郎が首相に就任したのちにはソ連との国交回復に向けた打ち合わせもここで行われている[1]。 記念館として[編集] 鳩山邸は太平洋戦争中の空襲により屋根に損害を受けていた。また、一郎の没後、後継者の威一郎が書斎を増築するなどの改造が行われた。竣工後70年となり老朽化が著しく進んでいた。 鳩山家の業績を伝える記念館「鳩山会館」として再生することになり、1995年に大規模な修復工事が行われた。このとき増築部分の書斎を撤去、屋根が竣工当時の姿に復元され外壁も修復されるなど往時の姿を取り戻した。なお集会施設として使用するため、2階の寝室部分は大広間に改造された。1996年6月1日にオープン。 施設概要[編集] 鳩の装飾 木菟の装飾 当時としては珍しい鉄筋コンクリート造の洋館で、各所にハトやミミズクなど鳥をモチーフにした装飾が施されている。 設計者の岡田信一郎は様式建築を得意とし、その手腕は鳩山邸でも発揮されている。アダム・スタイルの応接間など、イギリスの邸宅を思わせるが1階部分では部屋の境の扉を大きく開くことで各室を連続して使用することができ、日本家屋のような開放的な空間を作り出している。

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藤井来夏 – Wikipedia

獲得メダル アーティスティックスイミング オリンピック 銀 2000 チーム 銅 1996 チーム 藤井 来夏(ふじい らいか、1974年7月5日 – )は、日本人アーティスティックスイミング(シンクロナイズドスイミング)選手。アトランタオリンピック銅メダリスト。シドニーオリンピック銀メダリスト。京都府生まれ。身長164cm。立命館大学経営学部卒業。 現在、プロ・シンクロナイズドスイマーとして活動中である。 ライカエンターテイメント主宰である。 主な戦績[編集] ジュニア世界選手権(1991(平成3)年)チーム1位 日本選手権(1993(平成5)年 –

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自動空戦フラップ – Wikipedia

自動空戦フラップ(じどうくうせんふらっぷ)とは太平洋戦争中に日本海軍の戦闘機用として開発された、空戦時に機体速度と機体荷重(G)に応じて自動展開されるフラップもしくはその制御システム全体のことである。加速度感知を水銀柱によって行う川西航空機で開発された方式のものと、空盒によっておこなう海軍航空技術廠が開発した方式のものがある。川西航空機が開発したものは水上戦闘機「強風」に初めて装備され、以降、局地戦闘機「紫電」「紫電改(紫電二一型)」「陣風」「烈風」「震電」など海軍の単座戦闘機が同様の空戦フラップを実装、または装備が計画された。ただし、「烈風」は川西式の自動空戦フラップを装備して飛行実験中であったが、昭和20年7月27日の研究会において空技廠製「空盒式自動空戦フラップ」に変更することが決定されている。 この項では川西製のものについて説明する。 紫電改展示館(愛媛県愛南町) 目次 1 概要 2 仕組 3 コンセプトを同じくする装置 4 脚注 5 参考文献 6 関連項目 速度を落としながら効率的に旋回するために離着陸等に用いられるフラップを空戦で使用するという戦法は一部の熟練パイロットが零戦で用いていたものである。運動(速度)エネルギーが充分ある状態では補助翼に加えてフラップを下げることにより旋回半径を小さくして急激な方向転換を可能とする。(ただし、運動エネルギーが不充分なままフラップを下げれば失速するという問題もある。) その有効性は認められていたものの未熟な若年パイロットでは緊迫した空戦の最中にフラップ操作を行うことは不可能であったため、容易にそれを行えるようにフラップの角度を手動で二段階程度変えられる空戦フラップが発案され、「一式戦闘機」「二式戦闘機」(蝶型フラップ付)や「雷電」(ファウラーフラップ付)等の機体に実装された。 しかし揚抗比(機体に働く揚力と抗力の比)が最適になるようなフラップ角はある速度と荷重(揚力と同量・逆方向の慣性力)に対して狭い範囲に限られており、少数の有段式ではフラップ角が非効率になりがちであった。また手動式であったために緊迫してくると空戦フラップの操作どころではなくなってしまうという欠点もあった。そこで非熟練パイロットには調節が難しい調節を、速度検知によって自動的に妥当なフラップ下げ角を設定する装置が自動空戦フラップである。 川西航空機設計課の強度試験場係長清水三郎技師(後の新明和工業専務)を中心とした技術陣は、揚力係数をマノメータ(液柱圧力計)類似の装置でセンシングして適切なフラップ角に自動調節されるシステムを考案し、これを自動空戦フラップとして開発することにした。速度計の改造と制御用電磁石の設計には設計課電気係の仲精吾、田中賀之がそれぞれ携わった。1943年5月に最初の試作品が完成し、同年6月5日にこれを取り付けた強風の実験機が飛行を行っている。これは古典的なシステムではあったが、マノメータを使用するという着眼点が的確で装置の信頼性を保証することにつながった。装置の核となるマノメータを納めたユニットはコンパクトで、手のひらにのせられるくらいの大きさであったという。

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