斉藤一也 – Wikipedia

斉藤 一也(さいとう かずや、1968年6月6日 – )は、テレビ東京社員。2019年まで総合編成局アナウンス部長(アナウンサー)を務めた。血液型B型。 来歴・人物[編集] 栃木県宇都宮市出身。宇都宮大学教育学部附属中学校、栃木県立宇都宮高等学校を経て早稲田大学に入学するも、第一志望への憧れや経済的な負担に鑑み、在学中に東京大学を再受験し合格。東京大学経済学部を卒業後、1992年にテレビ東京にアナウンサーとして入社。同期には佐々木明子がいる。 幼少時に父親と死別。生活に困窮した母子家庭で過ごすも、奨学金や各種授業料免除制度を利用して東大に進学した努力家として知られる。デビュー当初はスポーツ中継のアナウンサーとして出演したがその後は報道アナウンサーとなる。2007年12月開催の『柔道ワールドグランプリ』で久々のスポーツ実況を担当以後は、再びスポーツ中継のアナウンサーとしても活躍している(スポーツ中継と報道番組を掛け持ちしている)。2012年のロンドンオリンピックではジャパンコンソーシアムの一員として卓球やフェンシングなどの競技の実況やインタビュアーを担当。 趣味はギター演奏。中学校の時にバンド雷舞(ライブ)を結成(ギター・斉藤/ベース・篠崎功/キーボードの3人構成)。中学生ながらにして栃木放送(ラジオ)に出演しオリジナル楽曲を披露する。同僚の梅津智史(アナウンサー → 記者→現・編成局アニメ部)と、音楽ユニット「虎ノ門四丁目」を結成し、ライブ活動を行っている。 テレビ東京アナウンス部公式ホームページ内のアナウンサーブログではインディーズバンド・歌手を取り上げていた。 2015年4月1日付で編成局(現・総合編成局)アナウンス部長に昇格した[1]。 2020年1月1日付でアナウンス部長職を解かれ、[2]、テレビ東京アナウンス部公式サイトより抹消された。 2020年4月1日付で報道局ニュースセンター解説委員から報道局クロスメディア部長に異動とプレスリリースされる[3]。 過去の担当番組[編集] ほか 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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千本通 – Wikipedia

千本通(せんぼんどおり[1])は京都市の主要な南北の通りの一つ。二条以南は、かつて平安京の朱雀大路のあった場所を通る。 北は北区鷹峯から南は洛中を離れ、伏見区納所町の旧京阪国道納所交差点まで延びている (淀の近隣地域で、京都競馬場や京阪電気鉄道の淀駅が近くにある)。 七条から八条までは梅小路公園、京都鉄道博物館などで中断。 また、一筋西に新千本通があるため、五条通から久世橋通間は旧千本通と呼ばれる。九条通以南は、かつての鳥羽街道である。 三条以北は明治から大正にかけて拡幅されており、大部分は片側2車線となっているが、途中今出川から丸太町までは片側1車線である。三条以南では、南北の主要な通りとしての機能は、京都市電の経路そのままに四条通以南で大宮通へとつながる後院通に譲っている。三条以南の千本通そのものは以前からの道幅を残し、大半が南行き一方通行となっている。 歴史、由来[編集] 平安京の中心である朱雀大路の故地を通る。この朱雀大路は船岡山が正面に来るように決められたとも言われる。しかしもともと通行に必要な幅をはるかに超えていたことに加え、右京の衰退によって都の西のはずれとなったこともあり耕作者による占拠が進んだため、82~84メートルの幅があったとされる朱雀大路の面影はもはや残っていない。さらに、大内裏の焼失に伴い、その跡地(内野)を貫いてさらに北へと延びている。 千本通の名前については、船岡山西麓の葬送地への道に千本の卒塔婆を建て供養したのを通り名とした、または、『日蔵夢記』で、日蔵が地獄へおちた醍醐天皇と出会い「自分を地獄の責め苦から救い出すために千本の卒塔婆を立ててほしい」と、訴えられたので卒塔婆千本立てたことに由来する。 明治末から大正初期の京都市三大事業の一つ、その後大正末から昭和に掛けての都市計画事業として拡幅と市電の敷設が行われ、北大路から三条は京都市電千本線が通っていた。明治、大正の頃には三条から今出川の北にかけて河原町と並ぶ繁華街として栄えた。 沿道の主な施設[編集] 交差する道路など[編集] ここでは、主要な通りとしての三条以北について記述する。 交差する道路などの特記がないものは市道。 ^ 京都市内の通りの名称は「通」となっていて「り」を送らない。例外として道路標識では「通り」として送る表記を採用しているが、印刷資料で送るものは極めて珍しい。京都市内の通り#表記参照 関連項目[編集]

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九州共立大学 – Wikipedia

九州共立大学 画像をアップロード 九州共立大学 大学設置 1965年 創立 1947年 学校種別 私立 設置者 学校法人福原学園 本部所在地 福岡県北九州市八幡西区自由ケ丘1-8 北緯33度52分18.605秒 東経130度42分12.591秒 / 北緯33.87183472度 東経130.70349750度 / 33.87183472;

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シブスタ S.B.S.T – Wikipedia

『シブスタ』は、テレビ東京(関東ローカル)で2004年3月29日から2005年3月31日まで放送していた若者向けバラエティ番組。放送時間は、月曜日から金曜日の17:25 – 17:55。司会進行は各曜日レギュラーで、若手芸人とグラビアアイドルが司会を務めた。 毎週平日の夕方に東京・渋谷の『SHIBUYA BOXX』のスタジオから生放送を行っていた。このスタジオでは、『ぎんざNOW!』に似たものとなっていた。 増刊号的な番組として2004年10月3日から2005年3月27日まで日曜日の深夜2:15 – 2:30で、「シブスタ袋とじ」も放送されたが、なぜかレギュラー版を放送していない名古屋のテレビ愛知でも放送されていた。 夕方の時間帯では深く取り上げることのできない、フェロモン中学生(略称・フェロ中)、水着クイーンなどを取り上げている。    当時のお笑いブームに乗って若手芸人を司会に抜擢したが、力不足は否めず、伊集院光はラジオで彼らに同情する発言をしていた。 当初は毎曜日視聴者のケータイ投票があり双方向をアピールしたがしだいに縮小された。 月曜の無名芸人がネタ披露する「お笑いインディーズ」は赤いプルトニウムや狩野英孝を輩出した。 レギュラー[編集] 途中で降板したレギュラー[編集] 桜木睦子(月曜日、2004年3月29日 – 2004年10月25日) 岩佐真悠子(火曜日、2004年3月30日 –

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ベッドの下の男 – Wikipedia

ベッドの下の男(ベッドのしたのおとこ)とは、アメリカの都市伝説の一つ[1]。「下男[2]」「ベッドの下の通り魔」「ベッドの下の斧男」等と呼ばれることもある。 あらすじ[編集] マンションで一人暮らしをしている女性の部屋に友人が遊びに来た。部屋にはベッドが一つしかないので、自分はベッドに寝て、友人は床に布団を敷いて寝させることにした。夜も更けて寝ようとする女性に、突然友人は外へ出ようと誘う。あまりにしつこく誘う(コンビニに行こうと言いだし、女性が「一人で行けばいい」と言っても、どうしても一緒に行きたいと強引に誘うパターンが多い)のでしぶしぶ部屋を出ると、友人は血相を変えて彼女に「ベッドの下に包丁を握った男がうずくまっている」と言った、という話。 対象が友人の友人であったり、姉妹であったり[3]、友達大勢であったり[4]、男が持っている凶器が斧や鎌であったり[1]、男が隠れているのがクローゼットの中であったり[5]、押入れであったり[4]、舞台が海外のホテルや山中のペンションであったりと似たような様々なバリエーションが存在する[3]。 アメリカ発祥の都市伝説ではあるが[5]日本にも伝わっており、1994年に文京女子短期大学で行われたアンケートによると、既に当時の女子短大生たちの間にはこの話が浸透している。また1998年には雑誌『ダカーポ』9月号にて、20歳代のOLから自身の体験談として同様の話が投稿されている[3]。またレディースコミックへの読者投稿で、渋谷区で偶然入ったラブホテルのベッドの下に女が潜んでいたという話があるが、ノンフィクション作家・宇佐和通は、これは都市伝説を知った者が自分でアレンジして投稿したものとみている[4]。 この話の元ネタは映画『ラストサマー』であるという説もあるが、アメリカではかなり昔から同様の話が存在していたようなので、『ラストサマー』がその話を用いたと考えるべきである。また都市伝説との関連性は不明だが、同じくアメリカで1912年に同名の『ベッドの下の男』(Tha man under the bed)という題名の映画が制作されている[6]。またヨーロッパでも類似の都市伝説として、あるホテルに泊まった男性が、ベッドの上で寝煙草をしていて煙草を床に落としてしまったところ、ベッドの下で何者かの手が煙草を揉み消すのが見えたので、「トイレに行きたい」などと独り言を言いつつ部屋を出て難を逃れたという話がある[7]。 この話はテレビ朝日の深夜ドラマ『ココだけの話』や『渋谷怪談』で映像化されている。また、2011年8月25日深夜に放送された日本テレビのオムニバスドラマ「新あなたの知らない世界」内の1話「覗くな」においては、同じく有名な都市伝説である「偽の警察官」と共にこの話が題材として扱われた。 日本の鎌倉時代の説話集『古今著聞集』にも、旅人が通りがかりの空き家に泊まったところ、室内に鬼が潜んでいることに感付き、それとなく外に停めてある馬の様子を見に行くふりをして家を出て難を逃れるという、類似の説話がある。このことから妖怪研究家・山口敏太郎は、この都市伝説の発祥地がアメリカとは断言できないとしている[8]。 なお、都市伝説のみならず、以下のように現実の事件の事例もある。 2001年1月18日、東京都中野区で、女子大生の部屋にストーカーの男が留守中に忍び込んでベッドの下に隠れ、発見されて逮捕された[4][6]。 2020年12月31日、徳島県鳴門市で、30代女性が午前2時ごろに帰宅したところ、ベッドの下から人の息遣いが聞こえたため、電気をつけたまま友人宅に行き難を逃れる事件が発生。住居侵入の現行犯で50代男性が逮捕された[9]。

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魔法のエンジェルスイートミント – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “魔法のエンジェルスイートミント” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年7月) 『魔法のエンジェルスイートミント』(まほうのエンジェルスイートミント)は、テレビ東京系列にて1990年5月2日から1991年3月27日まで毎週水曜18時から18時30分(JST)にて放送されたテレビアニメ作品である。全47話。 概要 本作は、葦プロダクション制作の魔法少女アニメ第二弾[1]。当時、東映系の魔法少女アニメ「魔法使いサリー 1989年版」(1989年)「ひみつのアッコちゃん第2作目」(1988年)が新シリーズとして放送されており、「アッコ」の提供であったタカラ(現・タカラトミー)は、アッコの変身コンパクトでの成功を収めていた。そこで「サリー」(提供はバンダイ 現・バンダイナムコ)に対抗しうるポスト「アッコ」と位置付けられたのが本作である。タカラにとっては、初のオリジナル魔女っ子作品となる。 企画書の段階では、ミントは感謝の心を忘れがちな少女として設定、娘の行く末を心配した王様が魔法を抑えさせた上、人間界に追放するというところから始まる。またミントのほか、プラムの前身と思われる「クルミ(ただし女の子)」、そして「ナッツ」も魔法が使え、ミントのお店が各自の能力によりいろいろな業種のお店に変わるといったアイデアも見受けられた。 前作「ミンキーモモ」から引き継いだ「魔法の国のお姫様」「お伴のペット」「使命」といったアイデアは本作でも活かされ、「人間界に来た魔女の、複数の友人がその正体を知っている」という本作の構図は、後の「花の魔法使いマリーベル」でも使われたアイデアである。また「お店とその地域が舞台の中心となっている」のも、本作の特徴である[2]。 ストーリー ミントの住む魔法の国では王位継承のしきたりとして、12歳になると人間界の困っている人たちに幸せの種を蒔き、魔法の国の虹色の谷の花々の色を取り戻していく「魔法のエンジェル」として、修行に行かなくてはならない掟がある。 人間界でハーブおばさんが経営している「しあわせショップ」を舞台に、お供のワッフル、修行の助っ人に選ばれた二人の友人プラムとナッツ、そして魔法のことは秘密にされているタクトらと、「しあわせショップ」に訪れるお客達を相手に、ミントの修行が始まった。人間界に来た次の日には「魔女熱」でおかしな魔法を使ってしまい、少年に売った「魔法をトッピングした自転車」が暴走する失敗を起こすも、仲間たちの協力で解決するなど、危なっかしい事も多々あった。とはいえ持ち前の元気と明るさ、なにより周囲の協力のおかげで、トアールタウンの人々に笑顔を届け、笑顔を返されるようになっていた。「霧の魔法使い」トラッディーの庇護も受け、時には万物や異世界の精霊や生物などにも、手を差し伸べることもあった。またトアールタウンのみならず、トナーリタウンや遠い異国の地、さらには魔法界へと、冒険に赴くこともあった。 ある日、王様より急遽魔法界に戻るよう言われ、戻ってみると「占いで修業は切り上げることになった。もう人間界に行かなくても良い」との命令を受ける。「突然すぎる、せめて友達にさよならを言わせて」と懇願するミントに国王は「3時間だけ猶予を与える、一秒でも過ぎたらミントは魔法を失う」との条件で、人間界に行くことを許可される。ナッツにはさよならが言えたが、プラムは南の島へ家族旅行中。そこでナッツと一緒に魔法で急ぎプラムのもとへ急ぐが、プラムは土産の真珠を採取していた最中に事故に遭い、病院で処置を受けないと命が危ない状態になっていた。病院へ行く道が落石で塞がれていたが、魔法で救急車ごと病院に運び、プラムは一命を取り留めたところで、約束の時間となった。実はこの一件は「魔法の国の儀式」の一つで、「命とも言える魔法を捨ててまで、守るべきものを守れるか」を確かめる試練であった。無事この試練をミントは乗り越え、魔法の力はそのままに、修行に戻るのであった。王様はこの時「虹色の谷の色は、ミント自身の心の色ともいえる」と説明をしていた。

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書記 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “書記” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年1月) 書記(しょき)とは、本来は記録などを残すために文字を書き記す職業またはその職務にあたる者をさす。古来は右筆(ゆうひつ)と言われた。団体の幹部職の名前に転用されている。 政党における書記[編集] 共産主義政党においては最高幹部がこの名で呼ばれることが多い。その筆頭である党の書記長(かつて存在したソ連や東ドイツ)や総書記(中国)は最高権力者にあたる役職の名称となっている[1]。北朝鮮やベトナムでは同義の役職名として「秘書」(朝鮮語: 비서、ベトナム語: Bí thư の漢字表記)があるが、日本語と中国語では「書記」と訳すことが一般的である。英語ではsecretaryと表記され、直訳すれば「秘書」であるが、アメリカの国務長官を “Secratary of State” と表記するように、「長官」ないし「大臣」といった意味も含まれている。

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藤城翔 – Wikipedia

藤城 翔(ふじしろ しょう、3月27日 – )は、日本のイラストレーター、漫画家。静岡県伊豆の国市出身。女性。血液型はA型[1]。 広告代理店での勤務を経て、1999年に芳文社のまんがホームに作品を連載開始。以降、竹書房や双葉社等の雑誌で作品を連載している。 2008年から2010年にかけては「藤城ショーコ」というペンネームを使っていた。 芳文社の超本当にあった(生)ここだけの話に作品を連載していた(2015年まで)。 学生時代はテニス部に所属しており、自身のテニス経験に関連する作品がある。 声優の藤原啓治と若林正恭(オードリー)のファンである[2]。 姉が1人いる。 Honey honey パニック(1999年、まんがホーム(芳文社)) ここにおいでよ。(2000年 – 2002年、まんがホーム(芳文社))原作:三田武詩 3色タンゴ (2002年 –

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フランシス・ベーコン (芸術家) – Wikipedia

この項目では、20世紀アイルランドの画家について説明しています。近世イングランドの哲学者については「フランシス・ベーコン (哲学者)」をご覧ください。 フランシス・ベーコン(Francis Bacon、1909年10月28日 – 1992年4月28日)は、アイルランド生まれのイギリス人画家。抽象絵画が全盛となった第二次世界大戦後の美術界において、具象絵画にこだわり続けた。20世紀最も重要な画家の一人とされ、現代美術に多大な影響を与えた。[要出典] 作品は大部分が激しくデフォルメされ、歪められ、あるいは大きな口を開けて叫ぶ奇怪な人間像であり、人間存在の根本にある不安を描き出したものと言われている。大きな口を開けて叫ぶ姿は、口を開けた状態の歯がたくさん載った写真集(歯医者向けのものと思われる)や、映画 『戦艦ポチョムキン』 の中で、銃で額を撃たれて叫ぶ老女の姿を参照している。 1909年、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国(現アイルランド)のダブリンに生まれた[1]。父方の家系はニコラス・ベーコン(準男爵、下院議員。哲学者フランシス・ベーコンの異母兄)の直系の子孫であるとされている[2]。父親のエドワードはボーア戦争に従軍した退役軍人で、競走馬の訓練士であった。小児喘息の持病があったベーコンは正規の学校教育を受けず、個人授業を受けていた。17歳の時、自宅で母の下着を身に着けていた所を父親に見つかり勘当された。 美術の専門教育は受けなかったが、1926年頃から水彩や素描を描き始めた。1927年から1928年までベルリン及びパリに滞在し、1929年からはロンドンで家具設計、室内装飾などの仕事を始めた。油絵を始めるのもこの頃である。ベーコンはゲイであったと言われ、当時のイギリスではLGBTへの偏見が強い中、ゲイである事を公表していた。 1934年、ロンドンのサンダーランド・ハウスで初の個展を行う。しかし、その後ベーコンは1930年代から1940年代の自作の大部分を破棄してしまった。 1944年から創作を再開し、1945年にはロンドンのルフェーヴル・ギャラリーで『キリスト磔刑図のための3つの習作』を発表している。 1949年には「頭部」シリーズの制作を始め、ロンドンのハノーヴァー画廊で個展を開いている。1950年からロイヤル・カレッジ・オブ・アートで後進の指導にもあたった。1954年にはヴェネツィア・ビエンナーレのイギリス館で展示しており、この頃から評価が定着する。 制作にあたっては、著名な過去の作品をモチーフにすることも多く、ベラスケスの 『教皇インノケンティウス10世の肖像』や、映画『戦艦ポチョムキン』 を元にして激しく変形した作品(映画『戦艦ポチョムキン』の中の保母のための習作)が知られる。 1978年、自らのアトリエとしたロンドン市内の雑居ビル一室で絵を描いていたところ、建物の下を車で通りかかったバリー・ジュールと知り合う。以降、彼とは親友であったと言われる。ベーコンは絵画を制作中に誰一人としてアトリエに足を踏み入れる事を許さなかったと言われるが、唯一、ジュールだけはそれを許された。やがてジョンはベーコンのアトリエの鍵を預かるまでになったという。 ゲイだったベーコンは生涯で5人の恋人と出会い、全て男だったがいずれも結婚には至らなかった。最後の恋人は1988年に出会ったスペイン人のホセ・カペッロと言う男だった。ゲイだったベーコンはホセに恋をし付き合い始めたが、すぐにホセから別れを切り出され破局、程なくホセはスペインへと帰国した。その後、どうしてもホセを諦めきれなかったベーコンは彼とのヨリを戻す為、1992年4月18日にホセに会いにスペインへ飛び立った。この際に、チェルシー空港まで車で送ったのが親友のバリー・ジュールであり、この日の朝、ベーコンと朝食を共にした後、ベーコンから自分の作品をすぐに車に積むよう言われたという。ジュールはそれを車に積んでどうしろと言うのかと尋ねたが、どうすべきか君は分かっている筈だと言われたと後に証言している。この時に車に積んだ作品集が、世に言うバリー・ジュール・コレクションである。ジュールはこれについて、「それはいつか彼がそれを返す様に頼まない限り私が持ち続けるという暗号でした」と語っているが、会ったのはこの日が最後となってしまった。 ジュールの車に乗ってロンドン市内をドライブした後、彼に別れを告げ、その日のうちにチェルシー空港からスペインへ飛び立ったベーコンだったが、10日後の1992年4月28日、スペインのマドリード市内の路上で心臓発作により倒れている所を発見されそのまま死去したと言われる。ホセと会えたのかは分かっていない。

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ジェマ・イスラミア – Wikipedia

ジェマ・イスラミア(インドネシア語: Jemaah Islamiyah、略称:JI、アラビア語: الجماعة الإسلامية‎、翻字:al-Jamāʿat ul-Islāmíyatu)は、東南アジアのイスラーム主義組織。 日本語ではジェマア・イスラミアなどとも表記される。「イスラームの会衆」という意味で、一般には略称の「JI」と表記される。 「ダルル・イスラム」(DI)の活動家であったアブドゥラ・スンカル(Abdullah Sungkar)とアブ・バカル・バシル(Abu Bakar Ba’asyir)によって両者の逃亡先であったマレーシアにおいて1993年に結成された組織で[1]、タイ南部、マレーシア、シンガポール、インドネシア、ブルネイ、フィリピン南部にわたるイスラム国家の樹立を目的としている。組織の精神的指導者はアブ・バカル・バシル(新聞等ではバシル師と表記されることが多い)。 元アフガン義勇兵が中核メンバーであり、構成員は500人から数千人程度とされている[1]。2002年に国際連合安全保障理事会決議でテロ組織に指定された。 1990年代[編集] JIのルーツは1942年にインドネシアで生まれた「ダルル・イスラム」(DI、「イスラムの家」の意)という急進的な反植民地・イスラム主義組織である。DIはシャリーアにもとづくイスラム国家建国を目標とし、インドネシア独立戦争では西ジャワを拠点に戦い、1948年のインドネシア共和国とオランダによるレンヴィル協定を結んだが、この停戦協定を不服として西ジャワに独立国の建国を宣言した。1949年にインドネシアが主権を獲得すると、DIとの紛争が勃発、南スラウェシやアチェでもDIに合流する動きが起こった。DIは、創設者であるセカルマジ・マリジャン・カルトスウィルヨが1962年に逮捕され銃殺刑に処されると表立った活動はなくなっていた。 JIは公式には1993年1月1日にハドラミーであるアブドゥラ・スンカルとアブ・バカル・バシールによって設立されたが、スハルト政権の弾圧で両名とも投獄され、釈放後はマレーシアを活動拠点とした(マレーシアでの活動は主にリクルートであり、2002年以前にはJIの痕跡は余り見られない)。スハルトが失脚すると1998年に両名はインドネシアに帰還し、スンカールはアルカーイダとの関係を構築したが、1999年に死亡した。バシル師はジハードを説いたが軍事行動には消極的であった。しかし、「ハンバリ」(Hambali)という通称で知られるリドゥアン・イサムディン(英語版)と出逢ったことでテロ活動に転じた。ハンバリは軍事部門の指導者となり、東南アジアにおけるウサーマ・ビン・ラーディンの代理のような存在となった。 2000年代[編集] JIはまずモルッカ諸島やスラウェシ島のポソでの紛争に介入し、9.11事件以降はインドネシア国内の西側の権益を攻撃対象としていった。9.11事件の数ヶ月後、シンガポール政府が、同国内で連続爆弾テロを企てた容疑でイスラム過激派十数人を逮捕し、彼らの所属組織をJIとして公表し、その存在が公にされた。JIはアル・カーイダやアブ・サヤフ、モロ・イスラム解放戦線、キリスト教徒からムスリムに改宗したフィリピン人たちの過激派であるラジャ・スレイマン運動(英語版)(RSM)などとの軍事面・資金面での共闘関係が指摘されている。 2002年10月12日のバリ島の爆弾テロ事件、2004年9月9日のジャカルタ・オーストラリア大使館付近での爆弾テロ事件、2005年10月1日のバリ島の爆弾テロ事件などがJIの犯行であるとされている。ハリド・シェイク・モハメド逮捕後はアル・カーイダでナンバー3の地位にあったハンバリは2005年にCIAとタイ警察によって逮捕され、その他のJIの幹部もインドネシア国家警察の対テロ特殊部隊(Detachment 88)などに相次いで逮捕・射殺され組織は一時的に弱体化した。しかし、インドネシア警察当局は2009年7月17日にジャカルタで発生したJWマリオット・ホテルとリッツ・カールトン・ホテル連続爆破事件も、組織のさらなる弱体化を懸念したバシル師の穏健路線に不満を持つ強硬派の犯行とする見解を発表している。 2009年9月17日、強硬派指導者であったヌルディン・トップが、Detachment

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