大谷光勝 – Wikipedia

大谷 光勝(おおたに こうしょう)は、江戸時代後期から明治時代にかけての浄土真宗の僧。法名は、「嚴如[1]」(ごんにょ)。東本願寺第二十一代法主[2] 。真宗大谷派管長。子に四男・大谷光瑩、九男・大谷勝信、次女(水谷川忠起の妻)、六女・梭子(おさこ。岩倉具経の妻)ら。

本ページでは、年齢は、数え年。日付は、暦の正確性、著作との整合を保つ為、天保14年12月29日(1844年2月17日[3] )までは、寛政暦表示。天保15年1月1日(1844年2月18日)から明治5年12月2日(1872年12月31日)までは、天保暦表示。明治6年1月1日(1873年1月1日)からは、グレゴリオ暦表示とする(誕生年月日を除く)。また本山は、「本願寺」が正式名称だが、「西本願寺」との区別の便宜上、「東本願寺」と表記。

  • 文化14年3月7日(1817年4月22日[3] )、東本願寺第二十代 達如の次男として誕生。近衛忠煕の猶子となる。
    • 文政6年(1823年)、東本願寺、両堂宇を焼失する。
    • 文政7年(1824年)、東本願寺、仮堂宇を立てる。
  • 文政11年(1828年)3月18日、得度する。院号を「霊心院」、法名を「逹住」、諱を「朗澄」と名乗る。長浜別院 大通寺と姫路別院本徳寺の住職を兼職する。
  • 同年12月10日、寶如の死去により法嗣となる。法名を「嚴如[1]」と改める。
  • 弘化3年5月23日(1846年)父・達如が隠退により、第二十一代法主を継承する。
  • 嘉永元年(1848年)12月16日 には、伏見宮邦家親王の四女・嘉枝宮和子女王を室に迎える。
  • 明治元年(1868年)、近代に入ると、親密であった東本願寺と江戸幕府との関係を払拭し、明治新政府との関係改善を図るため、勤皇の立場を明確にする。そのため、北陸や東海地方へ巡教・勧募し、軍事費1万両・米4千俵を政府に献上する。
  • 明治2年(1869年)、政府の北海道開拓事業を請け負うことを決定する。
  • 明治3年(1870年)、法嗣である第5子(四男)・現如(大谷光瑩)を北海道に派遣した。(⇒詳しくは「本願寺道路」の項を参照)
  • 明治5年(1872年)3月、華族に列せられる[4]
  • 同年9月、名字必称となり「大谷」の名字(姓)を用いる。
  • 明治12年(1879年)、焼失した東本願寺の両堂宇の再建を発願し、再建工事の着工を表明する。
    • 同年、大谷英麿と大谷温唐、東本願寺派関係の僧侶数名と共に慶應義塾入塾。
  • 明治14年(1881年)、公式の宗派名が「真宗大谷派」と定まる[5]
  • 明治22年9月14日(1889年)、現如に法主を譲り退隠する。法在職期間は、43年。院号を「眞無量院」とする。
  • 明治27年1月15日(1894年)78歳にて死去。

栄典・授章・授賞[編集]

位階
  1. ^ a b c 嚴如…旧字体が正式表記。「厳如」と新字体で表記する場合もある。
  2. ^ 正式には「本願寺」。一般には通称である「東本願寺」と呼称するので、「東本願寺第二十一代法主」と表記。
  3. ^ a b グレゴリオ暦。
  4. ^ 奥野研寿『厳如上人御一代記』P.42 – 43。
  5. ^ 柏原祐泉『近代大谷派の教団』真宗大谷派宗務所出版部、1986年、45頁。
  6. ^ 『官報』第372号「叙任」1884年9月22日。
  7. ^ 『官報』第1878号「叙任及辞令」1889年10月1日。
  8. ^ 『官報』第3162号「叙任及辞令」1894年1月16日。
  9. ^ 『官報』第4871号「叙任及辞令」1943年4月10日。

参考文献[編集]

奥野研寿『厳如上人御一代記』護法館、1895年5月、増訂。