カール・ツェルニー – Wikipedia

カール・ツェルニー(Carl Czerny ドイツ語: [karl ˈtʃɛrni], 1791年2月21日 ウィーン – 1857年7月15日 ウィーン)は、オーストリアのピアノ教師、ピアニスト、作曲家。父方の祖先はボヘミア出身の西スラヴ人(チェコ人)で、苗字の綴りは元はチェコ語: Černý([ˈtʃɛrniː] チェルニー、意味は「黒い」)であった。ドイツ語でも発音はチェルニーだが、日本ではツェルニーと発音・表記される事が多い。 ベートーヴェン、クレメンティ、フンメルの弟子で、リストおよびレシェティツキの師。作風は初期ロマン派の傾向に留まった。デビュー後のリストの演奏様式に懐疑的であった時期もあるが、ショパンやリストのような後代の作曲家の斬新性を高く評価し、彼らの編曲や校訂活動を熱心に行った。作品番号は861に上り、未出版のものを含めて1,000曲以上の作品を残した多作家であったが、現在は実用的なピアノ練習曲を数多く残したことで有名な存在である。「王立ピアノ学校~理論的かつ実践的ピアノ演奏教程」op.500は、当時の演奏風習までを網羅したツェルニー最大の著作である。ツェルニーの作曲活動は半世紀に及んだ。初期Op.1-199は純器楽曲の追求、中期Op.200-599からはクラヴィア練習曲または作曲法教程作家としてのメカニックの追求、後期Op.600-861からは(練習曲作家を継続こそしたが)宗教曲作家としての追求が嗜好に加味されていった。未出版に終わった「テ・デウム(1856年)」は死の前年に完成している。 ツェルニーはウィーンでチェコの音楽家の一家に生まれた。祖父はボヘミアのニンブルク(英語版)[注 1]のアマチュア・ヴァイオリニストであり、父のヴェンツェル(ヴァーツラフ)・ツェルニー(Wenzel Czerny, Václav Černý)は、プラハの修道院で合唱やオルガン演奏に従事したあと、軍隊に15年間務めた。結婚ののち、プラハからウィーンに出て、ピアノ教師として生計を立てるようになった。家庭内の会話はチェコ語で行われたため、ツェルニーは6、7歳になっても片言程度のドイツ語しか話すことができなかった。神童であったツェルニーは3歳でピアノを弾き、7歳で作曲を行った。最初にピアノを教えたのは父で、息子に主にバッハ、モーツァルト、クレメンティなどを教えた。やがて彼は父の友人を介してベートーヴェンの作品を知るに至り、弟子入りを志願。10歳の時に、ベートーヴェンの家を訪れて「悲愴ソナタ」を弾く機会に恵まれ、弟子入りを果たした。ツェルニーは続く3年間ベートーヴェンの指導を受け、ピアノ演奏の基礎から学びなおさせられた。また彼はフンメルからもレッスンを受けた。さらにクレメンティがパリ、ウィーン、サンクトペテルブルク、ベルリン、プラハ、ローマ、ミラノで開いていた講座にも出席した。 ツェルニーがはじめて公開演奏を行ったのは1800年、曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第24番だったと伝えられている。ツェルニーは暗譜力に優れていたためベートーヴェンの曲は全て演奏することができた。しかしながら、演奏家ではなく作曲家・教師あるいは音楽理論家に天職を見出した彼は、演奏活動から身を引いてしまった。彼が再び公での演奏を行うのは1812年2月、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」のウィーン初演(世界初演はライプツィヒにて)のソリストに選ばれた時であった。ツェルニーによるウィーン初演後、「皇帝」がベートーヴェンの生前に演奏されることはなかった。ベートーヴェン没後、ツェルニーの作曲のペースは非常に速くなり、周囲の期待にこたえて多くの作品を速筆で生み出した。 当時のベートーヴェンは「ピアノ演奏法という著作をどうしても編みたいが、時間の余裕がない」と語っており、彼の願望は練習曲集や理論書の著者であるツェルニーやクレメンティやクラーマーに受け継がれていくことになる。作品番号の膨大さからもわかるように収入には困っていなかったが、コンサート・ピアニストとして表舞台に立つことはほとんどなかった。ツェルニーは生涯を通じてほとんどウィーンに留まっており、1836年にライプツィヒ、1837年にパリとロンドン、1846年にロンバルディアに赴いただけである[1]。彼は痛風を患い、66歳でウィーンに没した[2]。生涯独身を貫き、近しい親族もなかった。体調を大きく崩した1857年には、ツェルニーが評価したショパンやシューマン、メンデルスゾーン、シューベルトなどの年下の多くの作曲家はすでに鬼籍に入ってしまい、ピアノ・ヴィルトゥオーゾの時代も終わってしまっていた。 死の直前、友人で弁護士であったゾンライトナー[注

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摂家将軍 – Wikipedia

摂家将軍(せっけしょうぐん)は、鎌倉幕府将軍のうち、摂家である九条家から迎えられた将軍のこと。源氏将軍が絶えた後を継いだ第4代・藤原頼経と、その嫡男の第5代・藤原頼嗣の2人がこれにあたる。藤原将軍あるいは公卿将軍とも呼ばれる。 建保7年(1219年)、第3代将軍源実朝が暗殺された。実朝には実子が無く、継嗣も定めていなかったため、これにより、初代源頼朝、頼朝の嫡男である第2代源頼家、頼朝の次男である第3代源実朝と、源氏嫡流(河内源氏義朝流)が征夷大将軍を継いだ将軍家は断絶した。この3代の将軍を源氏将軍と呼ぶ。すでに鎌倉幕府の実権を握っていた北条氏は、執権の北条義時と、頼朝の正室で頼家・実朝の母であり幕府の指導的立場にもあった北条政子を中心として、後継の鎌倉殿(鎌倉幕府の長)たる将軍の選定を進めた。 まず、実朝亡き後も、頼朝の兄弟をはじめ、源氏の一門や遠縁が絶えたわけではなかったため、源氏に連なる者を新たな「源氏将軍」として立てることが考えられる。しかし、北条氏の権勢が強まる中で、御家人から信奉を集めやすい「源氏将軍」は、執権政治の維持の上では不都合であったため、源氏の親類縁者の多くは北条氏から疎まれて謀反の罪を着せられ、追討を受けることとなった。また、北条政子は、後鳥羽上皇の皇子の一人を後継将軍として迎えることを望んだものの、上皇ら朝廷方から断られたため、これを断念した。 結局、名門の公家である藤原氏の九条家より、頼朝の妹の曾孫にあたる2歳の三寅(後の藤原頼経)を将軍として迎えることとした。もともと縁戚関係にあったとはいえ、3代にわたり源氏将軍を主宰者とした鎌倉幕府で、藤原氏の将軍は前代未聞のことであり、幕府では頼経の源氏改姓も審議されたが、藤原氏のままとされた[注釈 1]。頼経の曾祖母である坊門姫は源頼朝の同母姉妹であり、 と両親ともに女系ながら河内源氏の血を引いていた。加えて、頼経の出身の九条家は、公家の頂点にあたる摂家の家格を有しており、近衛家(後に形成される五摂家の筆頭)に次ぐ家門で、一条家・西園寺家と共に親幕府的な家門とみなされていた。こうして、いまだ物心もつかぬ幼児であった頼経が将軍として推戴され、第2代将軍頼家の娘である源鞠子をその室とした。摂家から迎えられた将軍は、3代の源氏将軍と区別して、摂家将軍と呼ばれる。 当時の血族観念として源平藤橘といった「氏」の下位概念として「家」「苗字」という概念も生じ、同じ氏族の者が後継者となることを「家督を継ぐ」、異なる氏族の者が後継者となることを「名跡を継ぐ」といった[注釈 2]。源氏将軍から摂家将軍に替わる一連の流れは、藤原氏(「氏」)に属する九条家(「家」)を出身とする藤原頼経が、源氏(「氏」)に属する鎌倉将軍家(「家」)を相続して、名跡を継いだものといえる。 頼経が鎌倉に遷ってから将軍宣下を受けるまでの将軍空白期には、後鳥羽上皇により承久の乱が起こされ、朝廷と幕府との関係は険悪となった。尼将軍として幼い頼経の後見役を務めた北条政子が主導して、戦乱は幕府の圧勝に終わったものの、朝廷から将軍に任命される武家政権という幕府の性格上、朝廷との関係は依然として重要であった。摂家将軍は、朝廷における人臣最高の家系である摂家から将軍後継を招くことで、朝幕関係の紐帯としての役割も期待された。さらに、摂家将軍とその後に続く宮将軍の時期には、後見役の影響力を行使しやすい幼い間のみ将軍として擁立し、成人してからは都に返されて、また新たに幼い将軍を立てるということが慣例となった。それはあたかも摂関政治全盛期のように、政治的に無力な最高権威(天皇=将軍)の下に、政治的実権を持つ有力者(摂関=執権)が臣従するという体制であった。将軍は摂家の家格を持つ九条家の一門のままにしておくことで、京都への帰還を容易にすることも、摂家将軍を擁立する思惑のひとつであった。 頼経、頼嗣2代の摂家将軍は、官位こそ源氏将軍と大差ないものの[注釈 3]、摂関に上る可能性を秘めた人物だけに、鎌倉将軍をより高貴な位置へ、しかも、武家の棟梁という性格から遠ざけるという意味で大きな意味を持った。4代執権北条経時と、5代執権北条時頼は、いずれも将軍藤原頼経の偏諱(名前の一部)を受けているが、鎌倉幕府の権威として執権政治を安泰たらしめるという意味でも、摂家将軍の意義は大きかったといえよう。 頼経、頼嗣2代の摂家将軍の在任期間は、それぞれ藤原頼経が18年間(1226年 – 1244年)、藤原頼嗣が8年間(1244年 – 1252年)と比較的長期間ではあったものの、幼いころから成人するまでの期間であって政治的な力は全くなく、幕府の実権は、北条氏が完全に掌握していた。このため、将軍とは名ばかりの傀儡であった。特に、藤原頼経は成人後は傀儡であることを嫌い、名越光時・三浦光村ら有力な御家人と結びついて幕府内紛を導く兆しもあったため、執権・北条氏への「謀反」を疑われ、寛元4年(1246年)の宮騒動で鎌倉から京に追放された不遇の将軍であった。こうしたことも、幕府が高貴で幼い鎌倉将軍を擁立し続ける大きな要因となった。 建長4年(1252年)、第5代頼嗣の後の将軍には、後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王が迎えられ、鎌倉幕府は宮将軍(皇族将軍)を戴くことになる。北条政子が当初は上皇の皇子を将軍に望んだことからも窺えるように、実権なき象徴として王家・皇族に勝る存在はない。結果的に摂家将軍は、宮将軍を擁立する上で大きな布石としての役割を果たした。 注釈[編集] 出典[編集] 参照文献[編集]

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中西永輔 – Wikipedia

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ラーオ語 – Wikipedia

ラーオ語(ラーオご、ພາສາລາວ ラオ語、ラオス語とも)は、タイ・カダイ語族に属する言語。ラオスの公用語である。 ラーオ語は、純粋言語学的にはタイ語と同一言語の地域変種の関係にある。また、ラオス人の多くはテレビなどのメディアを通じてタイ語を習得し、ラーオ語の一部にタイ語を混ぜて使用している。そのため、ラーオ語話者とタイ語話者はある程度の意思疎通が可能である。しかし、タイ人の中でも特に中部から南部地方のタイ人にとって、ラーオ語を即座に理解するのは困難である。ラオスは、独立国家であり、ラーオ語(タイ語群からみるラーオ変種)はタイ語(タイ変種)と政治的には同レベルの「国家公用語の地位」にある。そのため、ラーオ語はタイ語との差異を一層大きくしている[3]。 ラーオ語の表記には、タイ文字と起源を共有するが字形の異なるラーオ文字が用いられる。ラーオ語の表記は表音的表記法を用い、語源的表記を用いるタイ語との差異をできるだけ際立たせるようになっている。これは元来ラーオ言語変種の表記が、タイ言語変種の表記よりも表音的で、字母数が少なかったことに由来する[4]。 言語学者のターオ・ボンが現代のラーオ語正書法の基礎を築いた。それ以前は、フランス植民地政府(1893–1953)時代の言語学者は、タイ語と同様の語源的表記をしていないことをもって「サンスクリット・パーリ語の語彙を保全していない」と評価し、「劣等言語」である証としていた[5]。ターオ・ボンは、「タイ語同様語源的表記を行うため、字母の追加を行うべき」とする意見を「盲目的にシャム(後のタイ王国)の正書法に事大する必要などない」、「純粋に音に従った表記こそ最適」と批判した。さらに、「字母数の少ない表音的表記を取っていることこそラーオ語の表記がタイ語のそれに対して優越している証」と見なした[6]。 タイ語とラーオ語は純粋言語学的には同一言語の地域変種である。社会言語学的・政治的には、両者とも独立した正書法をもち、その正書法を強制できる力をもつ領域国家により支えられているために、異なる言語として扱われる。特に、ラオスではタイからの政治的・文化的影響力を遮断し、国家の自立を守るという意図から、政治的なプロパガンダにより、「ラーオ語はタイ語からは分離している」として、積極的に分離の歴史を作り上げてきた[7]。 「ラーオ」とはラーオ語でラーオ族という意味である。日本では、国名から、ラオス語、またはラオ語がよく使われる。 ラオスでは、現在20 – 30歳代の若い世代[いつ?]でも不就学のためにラオス語の読み書きができない人たちも多い。社会の急激な変化に伴い、日常生活の様々な場面でラオス語教育を必要とするようになっている。 ラーオ語は、主に以下のような方言を持つ。 東ラーオ語 西ラーオ語 このうち特に西ラーオ語はタイ国内のイーサーン(東北タイ)で話されており、ラオス国内で話されるラーオ語に酷似している。ラオス国内ではヴィエンチャン方言が標準語であると見なされているが、ラオス国内の義務教育が完全に一律とは言えず、地方ではこのヴィエンチャン方言を話すことができない場合もある。 また、ラーオ語と比較的似た言語に北タイ語などがある。 ラーオ語と標準タイ語[編集] 先述したように、ラーオ語と標準タイ語(以下タイ語としたところは標準タイ語を指す)は類似しているが、生活に即した語彙での違いが見られる。たとえば、「田を耕す」という表現をラーオ語では「ヘット (het)(行う)・ナー(田)」と表現するのに対し、タイ語では「タム (tʰam)(作る)・ナー」と表現する。このような場合でも、ラオスでは特にヴィエンチャン付近を中心にタイ語のテレビを見ることができ、またタイでもイーサーン語による演歌、モーラムが全国各地で流れているため、このような単語の違いは実際の会話では些細な違いとして気にされずに済むことが多い。 また、ある語彙が全く別のものを指すという現象もたまに見られる。たとえば「パーアナーマイ」という言葉はそのまま訳せば「衛生布」となり、ラオスでは「トイレット・ペーパー」を意味するが、タイでは「生理用おむつ」を意味する。これは、日本語における「手紙」の言葉が中国語では「トイレット・ペーパー」を意味するのとよく似ている。ちなみにイーサーン語においては、この「パーアナーマイ」という言葉はタイ語の影響を受けて「生理用ナプキン」の意味の方が一般的である。

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弘前バイパス – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “弘前バイパス” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年5月) 弘前バイパス(ひろさきバイパス)は、青森県弘前市堀越を起点に、南津軽郡藤崎町境の平川橋に至る国道7号のバイパス道路である。 起点で石川バイパスと、終点で藤崎町で常盤バイパスと接続する。また、弘前市高田で国道102号黒石バイパスに接続し、黒石市・十和田湖方面にアクセスする。 全線4車線である。また、一部の主要道路とは立体交差されている。 弘前市津賀野から堅田の区間の沿道には、ソメイヨシノ366本が植えられ、弘前さくら祭期間(開花状況で変動あり)中は、夜間には桜のライトアップが行われる。読売新聞社選定の「新・日本街路樹100景」(1994年)のひとつに選定されている[1]。 路線データ[編集] 全長:10.16km 起点:青森県弘前市堀越河合 終点:青森県南津軽郡藤崎町藤崎 規格:第3種1級 道路幅員:23.5m(一部暫定13.0m) 車線数:4車線(一部暫定2車線)

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マルシン工業 (トイガンメーカー) – Wikipedia

マルシン工業株式会社Marushin Industry Co., LTD. 種類 株式会社 本社所在地 日本〒332-0023埼玉県川口市飯塚三丁目9番35号 設立 1964年9月24日 業種 製造業 法人番号 8030001077291 事業内容 軽合金のダイカスト鋳造並びに販売金属玩具の製造並びに販売 代表者 川嶋博(代表取締役) 資本金 1,000万円

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ピウス7世 (ローマ教皇) – Wikipedia

ピウス7世(Pius VII、1742年8月14日 – 1823年8月20日)は、第251代ローマ教皇(在位:1800年3月14日-1823年8月20日)、カトリック教会の司祭。本名、ジョルジョ・バルナバ・ルイージ・キアラモンティ(Giorgio Barnaba Luigi Chiaramonti)。ナポレオンと激しく対立して幽閉されるも、結果的に欧州外交界において教皇庁の地位を高めることになった。 ルイージ・キアラモンティは1742年に教皇領のチェゼーナで貴族の家に生まれた。ラヴェンナで学び、1756年にベネディクト会に入会した。彼は同郷の友人であったジョヴァンニ・ブラスキが教皇職につくための援助を惜しまず、その功によって教皇ピウス6世となったブラスキからローマのサン・カリスト修道院院長、司教、そして枢機卿に任命された。 1799年にピウス6世が没したため、コンクラーヴェが行われた。3か月にわたって紛糾した選挙の末に選ばれたのはキアラモンティであり、彼は友人であった前任者の名前を引き継いでピウス7世を名乗った。 ピウス7世が教皇としてまず取り組まなければならなかったのは、カトリック教会と世俗国家の関係修復であった。当時はガリカニスム、フェブロニウス主義などが盛んで、反教会的な雰囲気が最高潮に達していた。彼は手始めにフランスの第一執政であったナポレオン・ボナパルトと折衝を開始し、1801年にコンコルダートを成立させることで、フランス革命以来断絶していたフランス政府とカトリック教会の関係が公式に修復された。彼の外交面での成功には、右腕となった枢機卿エルコール・コンサルヴィの働きが大きかった。 しかし1804年、ナポレオンの戴冠式に招かれてフランスを訪れたピウス7世は、政府が教会を支配するシステムが確立していることに愕然とし、ナポレオンが教皇の権威を政治的に利用している現実に直面した。このときのピウス7世の心情は、ジャック=ルイ・ダヴィッドの傑作『ナポレオンの戴冠』でナポレオンの後ろに座っているピウス7世の渋い表情によく表されている。 以後、教会を利用しつくそうとするナポレオンと教皇の関係は急速に悪化し、ナポレオンが教皇領を接収するにおよんで、ピウス7世はナポレオンを破門した。1809年、ナポレオンはこれに応えてピウス7世を北イタリアのサヴォーナに監禁した。ナポレオン退位後、1814年にようやくローマへ戻った教皇を、市民は歓呼をもって迎えた。 ピウス7世と教皇庁の地位は、ヨーロッパ諸国においても認知されるものとなり、ウィーン会議では教皇領の復活が認められた。ピウス7世は23年の在位期間において、1814年のイエズス会の復興、ロシアとプロシアとのコンコルダートの締結など多くの成果を残した。 ピウス7世は任期の前半においてナポレオンと激しく対立したが、ナポレオン没落後は一族をローマにかくまったり、臨終のナポレオンのためにセント・ヘレナ島に司祭を派遣したりする粋な一面も見せている。

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ダレル・メイ – Wikipedia

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島津氏 – Wikipedia

島津氏(しまづし)は、武家・華族だった日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで薩摩を領し、維新後公爵家となった薩摩島津氏が最も有名だが、他にも多数の分家[注釈 1]がある。本項は主に、薩摩島津氏を本流とした記述である。通字に「忠」「久」[注釈 2]。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。 源平合戦終結のちの1185年8月、島津家の家祖島津忠久は、公家五摂家のひとつ近衛家領島津荘の下司職に任じられる。これに始まり、鎌倉幕府成立後には源頼朝より薩摩国・大隅国・日向国の3国の他、初期には越前国守護にも任じられ、鎌倉幕府有力御家人の中でも異例の4ヶ国を有する守護職に任じられた。以降、島津氏は南九州の氏族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至った。1587年には豊臣秀吉の九州平定を受けるも、3ヵ国の旧領は安堵された[2]。 関ヶ原の戦いで西軍に属して敗戦したが、領地を安堵されて江戸時代には77万石という外様大名屈指の雄藩となる。幕末には長州藩毛利家とともに討幕運動の中心勢力となり、明治維新の原動力となった。明治時代、大正時代には政財界に重きをなした[2]。島津家は本家、分家、旧支藩藩主家や旧一門家臣など14家が華族に列しており(公爵家2家、伯爵家1家、男爵家11家)、この数は松平家(28家)に次ぐ。 この薩摩島津氏の他、越前、信濃、駿河、若狭、播磨、近江に支流としての島津氏が派生し、それぞれ越前島津氏、信濃島津氏、河州島津氏、若狭島津氏、播磨島津氏、江州島津氏と呼ばれている。 出自・近衛家荘官・鎌倉幕府御家人[編集] 島津姓については、諸説ありとし、忠久が元暦2年(1185年)8月17日[4]近衛家の領する島津荘の下司職に任じられた後、文治元年(1185年)11月28日文治の勅許以降、源頼朝から正式に同地の惣地頭に任じられ島津を称したのが始まりとされている。忠久の出自については、『島津国史』や『島津氏正統系図』において、「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とされ、出自は頼朝の側室の子とされている。 同じく九州の守護に任じられた島津忠久と豊後の大友能直に共通していることは、共に後の九州を代表する名族の祖でありながら、彼らの出自がはっきりしないということ、いずれも「母親が頼朝の側室であったことから、頼朝の引き立てを受けた」と伝承されていることだろう。忠久は摂関家の家人として京都で活動し、能直は幕府の実務官僚・中原親能の猶子だった。この当時、地頭に任じられても遠隔地荘園の荘務をこなせる東国武士は少なかったと見られ、島津氏も大友氏も軍功ではなく荘園経営能力を買われて九州に下っている形が共通している[注釈 3]。 その他の出自に係る説について[編集] 忠久の実父については諸説あり、頼朝の実子であり惟宗広言の養子であったとする説以外に、広言の実子であるという説があるが、通字の問題などから広言の実子説については近年疑問視する説もある。 鎌倉時代[編集] 鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝より、元暦2年(1185年)忠久はわずか6才[5]で当時日本最大の荘園・島津荘地頭職に任命されて以降、薩摩・大隅・日向の守護職、ほどなくして越前の守護職も追加される。文治5年(1189年)には源頼朝率いる鎌倉幕府軍による奥州征伐では東北遠征に10才で従軍している。忠久は鎌倉幕府内で特別な御家人であったが、建仁3年(1203年)頼朝亡き後起こった比企能員の変に連座し一時、守護職を失うことになるが、後に薩摩・大隅・日向の守護職を回復している。 忠久の長男である島津忠時は承久の乱にて鎌倉幕府方の有力武将として相当の武功を挙げたとみられ、薩摩国・大隅国・日向国の他、若狭国守護職や伊賀国・讃岐国・和泉国・越前国・近江国など各地の地頭職も得るなど鎌倉幕府でも巨大な御家人となる。また承久の乱の際に忠時が使用した太刀は『綱切』と号されて、源氏の白旗、家祖・忠久愛用の大鎧は共に島津宗家当主が私蔵すべき家伝三種の重宝として相伝することとなった(『西藩野史』)。乱後、忠久は越前国守護職に補せられ、計五ヶ国を有するなど鎌倉幕府内でも筆頭守護人となる。1227年(安貞元年)、忠久の死去に伴い嫡子忠時が島津氏2代当主の座を継ぎ、所職を相続したが、越前国守護職はほどなくして後藤氏に交替している。 忠久以降の島津氏は幕府の有力な御家人の常として当主は鎌倉に在住し、現地における実際の差配は一族・家人を派遣し、これに当たらせていたが、3代・島津久経が元寇を機に下向して以来一族の在地化が本格化し、4代・島津忠宗は島津氏として初めて薩摩の地で没した。 南北朝時代[編集] やがて鎌倉幕府の力が衰えて倒幕の機運が高まると、1333年(元弘3年、正慶2年)に5代・島津貞久が後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加する。貞久は九州の御家人とともに鎮西探題を攻略し、鎌倉幕府滅亡後には初代・忠久以来の大隅・日向の守護職を回復した。その後建武の新政が崩壊すると、建武政権から離反した足利尊氏が摂津国で敗れて九州へ逃れてきたため、少弐氏と共に尊氏を助け、筑前国多々良浜の戦い(福岡県福岡市)で菊池氏ら後醍醐天皇の宮方と戦うなど、九州武家方の有力大名として活躍する。しかし、南北朝時代の1342年(南朝:興国3年、北朝:康永元年)中期に南軍の征西将軍として派遣された懐良親王が南九州へ入り、菊池氏と共に勢力を強大化させたため、一時は南朝方にも属するなど苦戦を強いられた。 その後、幕府方に復帰した貞久は死の直前の1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)に幕府に対して申状を送っている[6]。その中で貞久は島津荘は薩摩・大隅・日向一帯を占める島津氏の本貫であり、3国の守護職は源頼朝から与えられたもので大隅・日向の守護職は鎮西探題(北条氏)に貸したものに過ぎないとして3か国守護であることの正当性を訴えた。前述のように島津氏は比企能員の変で処罰された結果として大隅・日向の守護職を没収されたもので、貞久の主張は史実ではない。しかし、貞久のこの信念は彼の後継者や島津氏の一族・家臣団に共有されて後世に伝えられ、今日なお「島津氏は鎌倉幕府成立以来中世を通じて薩摩・大隅・日向3か国守護職を相伝し、700年にわたって3か国を領有した」という史実とは異なる認識を定着させることになる[8]。 貞久は嫡男の島津宗久を早くに失っていたため、3男の島津師久と4男の島津氏久にそれぞれ薩摩・大隅の守護職を分与し島津氏を分割継承させた。島津師久は上総介に任じられていたので、その子孫は総州家、島津氏久は陸奥守に任じられていたので、その子孫は奥州家と言われた。分割継承の後は、6代・氏久(奥州家)が水島の陣にて武家方である九州探題・今川貞世の少弐冬資謀殺(水島の変)に怒り、武家方を離反すると、同じく6代・師久(総州家)もこれに順じて武家方から離反するなど、両家は団結して島津氏に仇なす征西府と今川探題が一揆させた南九州国人一揆と戦い、やがてそれら外敵を退けることに成功した。

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