福原広俊 – Wikipedia

福原 広俊(ふくばら ひろとし)は、大江姓安芸福原氏の人物。同姓同名の一族が多いため下記に記す。

福原氏は同じ名前を名乗った者が多いため、以下にまとめる。

福原広世
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福原朝広
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福原広俊 (8代当主)
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福原貞俊(9代当主)
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福原広俊 (10代当主)
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福原貞俊(11代当主)
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福原元俊(12代当主)
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福原広俊 (13代当主)
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福原元俊 (14代当主)
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福原広俊 (15代当主)

」の字は安芸福原氏の祖先にあたる大江広元に由来する字であり、まずは広世・朝広・広俊(8代当主)の3代に亘り代々使用されたが、広俊(8代当主)をきっかけとして以降しばらくは「」の字が代々通字として用いられるようになった。その孫である広俊(10代当主)は祖父に肖ったか、もしくは従兄弟にあたる毛利興元・元就兄弟のいずれかから広元由来の「広」の字を賜ったかによってその名を称した。その曾孫にあたる広俊(13代当主)は毛利輝元期の人物であり、名乗りの理由も同様と考えられる(特に広俊(10代当主 / 13代当主)の代には福原氏以外にも「広」の字を与えられた家臣が多く見られる)。そして、輝元の1字を受けた13代の子の元俊 (14代当主)の代からは長州藩主の毛利氏から偏諱を受ける慣習が生まれ、その子の広俊(15代当主)は毛利綱広(輝元の孫)の代に「広」の1字を受けたため同名を名乗ることとなった。

尚、同名に関しては「福原広俊」のみならず、系図を見ての通り、「福原貞俊」や「福原元俊」と名乗った人物も複数名(2名ずつ)おり、やはり祖先に肖るか、毛利氏からの偏諱の授与によるかのいずれかによって生じたものである。

福原広俊 (8代当主)[編集]

福原 広俊(ふくばら ひろとし、生没年不詳)は、室町時代中期の武将。安芸毛利氏の一族である安芸福原氏当主。

福原朝広の子として誕生。毛利興元と毛利元就の外祖父にあたる。

安芸福原氏は、毛利元春の子・広世(広俊の祖父)が長井氏に養子に入った際、その領国の地名から福原姓を名乗ったのが始まりである。元春死後、孫の毛利光房の代になると、麻原氏など他の毛利氏分家が本家からの独立色を強める中で、祖父・広世と父・朝広は毛利本家のため忠誠を尽くし、後の福原氏発展の基礎を築いた。

広俊は光房の孫である毛利豊元に兄と呼ばれるほど信任を受け重用され、同じく毛利氏庶流の坂氏と協力し麻原氏らの勢力を弱めることに成功した。豊元が夭折した後は毛利弘元の外戚となり、毛利家における福原氏の地位を不動のものにした。弘元に嫁いだ娘は興元と元就を生んでいる。

福原広俊 (10代当主)[編集]

福原 広俊(ふくばら ひろとし)は、戦国時代の武将。安芸毛利氏の一族である安芸福原氏の第10代当主。

9代当主・福原貞俊の子として誕生。祖父は8代当主・広俊。毛利興元・元就兄弟の従兄弟にあたる。

毛利家の筆頭家老をつとめ、毛利元就の家督相続において、他の14人の宿老(署名順に中村元明、坂広秀、渡辺勝、粟屋元秀、赤川元助(元保)、井上就在、井上元盛、赤川就秀、飯田元親、井上元兼・元貞兄弟、井上元吉、桂元澄、志道広良)と共に起請文に署名した際に、筆頭として署名している。また、娘を各地の有力者に次々と嫁がせ、毛利家における福原氏の立場をさらに強化した。天文9年(1540年)、出雲国の尼子氏が安芸国に侵攻してきた際には、子の福原貞俊を郡山城に派遣し、自身は居城である鈴尾城に篭城し奮戦した。

弘治3年(1557年)、死去。

なお、広俊の次男の元正は、元就の次男・元春が吉川氏へ養子に入った際、家臣団の筆頭として同行し、吉川氏一族の宮庄氏を相続している。

関連作品[編集]

福原広俊 (13代当主)[編集]

福原 広俊(ふくばら ひろとし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。安芸毛利氏の家臣。毛利氏の一族である安芸福原氏当主。

永禄10年(1567年)、12代当主・福原元俊の子として誕生。祖父は11代当主・福原貞俊。子は同名の14代当主・元俊(隠岐守)など。

毛利輝元に仕え、天正19年(1591年)に家督を継承する。吉川広家と共に家中で重きをなし、朝鮮出兵に力を発揮した。関ヶ原の戦いにおいては西軍に味方した毛利氏の断絶を防ぐため、広家・宍戸元続・益田元祥・熊谷元直と談合の上で徳川家康に内通、領国安堵の約束を取り付けたが、戦後約束は反故にされ、輝元が減封されると広俊も本領を維持できず、以後は長門吉敷の地を領した。輝元は隠居したため、嫡男で幼少の秀就を広家・益田元祥・毛利秀元と共に支えた。

江戸において江戸幕府との折衝にあたり、毛利氏の居城の場所選定を本多正信・正純父子と話し合い(結果は萩城に決定)、慶長11年(1606年)の江戸城普請を担当するなど幕府との関係維持に腐心、長州藩内部の問題解決にも尽力、萩城築城中に起きた熊谷元直粛清事件(五郎太石事件)で藩内の動揺を鎮め、藩の政策決定にも関わっている。また、大坂の陣に際して佐野道可事件が発覚すると処理に奔走、元和2年(1616年)に国許へ戻り、元和8年(1622年)に嫡男の元俊に家督を譲り隠居した。

翌9年(1623年)に死去。子孫は代々長州藩の家老を務めた。

福原広俊 (15代当主)[編集]

福原 広俊(ふくばら ひろとし)は、江戸時代の武士。長州藩(毛利氏)藩士。14代当主・福原元俊(隠岐守)の子。藩主・毛利綱広より偏諱の「広」の字を受けたため、同名を称す。

参考資料[編集]

  • 福原家譜
  • 脇正典 「萩藩成立期における両川体制について」、藤野保先生還暦記念会編 『近世日本の政治と外交』 雄山閣、1993年。 
  • 家臣人名事典編纂委員会編 『三百藩家臣人名事典』 第六巻 新人物往来社、1989年。 

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