荒木氏綱 – Wikipedia

荒木 氏綱(あらき うじつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。波多野氏の家臣。丹波国多紀郡荒木城主[3][注釈 2]

丹波の有力国人・波多野氏に仕えた[注釈 3]

天正5年(1577年)11月、丹波攻略を目指す明智光秀は多紀郡の東口に位置する籾井城・安口城やその他敵対する多紀郡内の城11か所を落とし、それらに拠っていた者たちは「荒木・波多野両城」に逃げ込んだという[6]

天正6年(1578年)4月、明智光秀・滝川一益・丹羽長秀の軍勢が荒木城を包囲し、水の手が止められたことで城は落城した[8]。降伏後は明智光秀に従ったとみられるが[9]、氏綱は光秀からの仕官要請を断って、代わりに子の氏清[注釈 4]を出仕させたともされる[10]

『本城惣右衛門覚書』によると、荒木城での戦いの際、荒木城には波多野秀治、赤井忠家、本城惣右衛門とその父が加勢していた。また、明智光秀の配下となった氏綱は、天正7年(1579年)8月の丹波攻略終了までの間に大山城(丹波篠山市大山)に入っていた時期があったらしく、明智方の城を攻撃した惣右衛門らに対し、大山城より200から300の軍勢を送ったとされる。

その後、天正10年(1582年)の本能寺の変に際して、『太閤記』には息子2人が明智秀満に従って大津で討死したとあり[9]、『武家事紀』には父子4人が瀬田で戦死したとある[13][9][注釈 5]。信憑性は落ちるが、『新撰豊臣実録』では氏綱は明智秀満の計らいで坂本城から脱出したとされており[9][10]、死亡時期については諸説ある。

氏綱の子・高兼は山崎の戦い等で戦死したが、その娘が秋田実季の正室・円光院に仕えて実季の子を産んだことで、高兼の息子・高次も秋田家に取り立てられた[1]。氏綱の玄孫(高次の曽孫[15])で陸奥国三春藩の重臣である荒木高村の嫡男は、藩主・秋田輝季の養子となり、三春藩4代藩主・秋田頼季となった[1]

注釈[編集]

  1. ^ 三春町歴史民俗資料館 (2005, p. 20) には氏綱の名は記載されていないが、氏綱の子とされる[1]高兼の兄として山城守高則の名が記されている。
  2. ^ 園部城(船井郡、現在の京都府南丹市)が荒木氏綱の居城とされることがあるが、明智光秀に味方した小畠氏の本拠・宍人の北東3.6kmに位置する園部城でなく、多紀郡(兵庫県丹波篠山市)に所在する荒木城が正しいと指摘される。
  3. ^ 氏綱以前の荒木氏には、波多野秀忠の重臣で山城守を名乗った荒木清長などがいる[5]
  4. ^ 山崎の戦いで戦死[10]
  5. ^ 「慶長17年1月11日志水宗加宛松井康之書簡」(松井康之が死の直前に井上市正(松井紀伊)の武功について書き留めた書状)にも、「彼さるかく(市正と共に武功を挙げた波々伯部家臣)ハ瀬田にて荒木一所二討死」と荒木某が瀬田で戦死した記述がある。引用元は『松井家先祖由来附』(『八代市史 近世史料編Ⅷ』八代市教育委員会、1999年、280-281頁)。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 白峰旬 「「戦功覚書」としての『本城惣右衛門覚書』(その1)―本城惣右衛門は下級武士なのか―」 『別府大学大学院紀要』 22号、2020年。doi:10.32289/gk02206 
  • 高橋成計 『明智光秀の城郭と合戦』 戎光祥出版〈図説 日本の城郭シリーズ13〉、2019年。ISBN 978-4-86403-329-9。 
  • 三春町編 『三春町史 第2巻 近世(通史編2)』 三春町、1984年。 
  • 三春町歴史民俗資料館編 『三春町合併五〇周年記念・平成一七年度春季特別展 春陽の士―奥州三春秋田家御家中―』 三春町歴史民俗資料館、2005年。