Month: April 2022

議長決裁 – Wikipedia

議長決裁(ぎちょうけっさい)は、議会などで採決を行って可否同数となった場合、議長自身がその議案の可決・否決を決めることをいう。 英語では英米で表現が異なる。イギリスでは casting vote(キャスティング・ボート、議長の投じる票)、アメリカでは tie-breaking vote(均衡を破る票)、または単に tie break(タイブレーク)ともいう。 概説[編集] 日本国憲法は国会の議事において可否同数となった場合は、議長の決するところによるとする(日本国憲法第56条第2項)。 憲法56条第2項にいう「議長」とは、役職としての両議院の議長という意味ではなく、会議を主宰し議事進行時に現に議長席にあって議事を整理している者を指すと解されている[1][2][3]。したがって、副議長や仮議長の場合もある[2]。また、委員会の委員長も憲法56条2項の「議長」には含まれると解されている[4]。ただ、一般には委員会の場合は区別のために委員長決裁と呼ばれている。 また、「可否同数」の意味については、賛成投票が反対投票に無効投票や棄権を含めた数と同数であるときであるとする説と、賛成投票が反対投票と同数であるときであるとする説に分かれる[5]。実際には賛成と反対が同票のときをもって「可否同数」とされている[5]。 可否同数となった場合、議長は「可否同数であります。可否同数のときは、憲法第五十六条第二項の規定により、議長が決することになっております。議長は(可/否)と決します。よって、本案は(可決/否決)されました」と宣言する。 憲法56条2項にいう「議事」については選挙を含むとする説と含まないとする説がある[6]。「議事」に選挙を含まないとする説では当然に議長決裁権は行使されることはないことになる[7]。一方、「議事」に選挙を含むとする説をとっても、選挙の性質上、「可否同数」ということを観念できないため憲法56条2項の適用はないとされ、その結果、両説いずれをとっても同じ結論となる[6]。議院規則では選挙で可否同数となった場合についてはくじで決することとしている[7](くじで決することについては議長選挙につき衆議院規則8条2項・参議院規則9条に定めがあり、副議長選挙につき衆議院規則9条2項・参議院規則11条2項、常任委員長選挙につき衆議院規則15条1項・参議院規則16条1項、事務総長選挙につき衆議院規則16条1項・参議院規則17条1項、仮議長選挙につき17条・参議院規則19条、内閣総理大臣指名選挙につき衆議院規則18条3項・参議院規則20条3項でそれぞれ議長選挙の方法が準用されている)。 地方公共団体においても議会の議長には議長決裁権が認められている(地方自治法第116条第1項)。 歴史的には大日本帝国憲法下においても「両議院ノ議事ハ過半数ヲ以テ決ス可否同数ナルトキハ議長ノ決スル所ニ依ル」と定められていた(大日本帝国憲法第47条)。 なお、議決に特別多数を要する事項については議長決裁を認める余地はない[3]。 議長決裁権の本質[編集] 議長決裁権の本質については、議事整理権のある者には表決権とは別に決裁権が認められているとする説(二重表決権説)と議長決裁権とは議長の表決権にほかならないとみる説(そのために通常議長は表決に加わらないとみる)がある[8]。 議事整理権のある者には表決権とは別に決裁権が認められているとする説(二重表決権説)

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西湘パーキングエリア – Wikipedia

下り線の施設(被災前) 下り線の施設裏からの景色は大変良い 下り線は休日の午前中に、箱根や伊豆に行くバイクやスポーツカーが沢山集まる 西湘パーキングエリア(せいしょうパーキングエリア)は、神奈川県小田原市の西湘バイパス上にあるパーキングエリア。 上り線の施設は橘TBのゲート直後にある( 北緯35度17分14.5秒 東経139度14分0.7秒 / 北緯35.287361度 東経139.233528度 / 35.287361; 139.233528 (西湘パーキングエリア(上り線)))。下り線の施設は国府津ICの合流レーンから数100 m先に位置する(北緯35度16分33.7秒 東経139度12分17.1秒 / 北緯35.276028度 東経139.204750度 /

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君山銀針 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “君山銀針” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年2月) 君山銀針(くんざんぎんしん)は、中国茶の一種。黄茶を代表する品種。中国十大銘茶のひとつ。 中華人民共和国湖南省岳陽市西部にある洞庭湖の中にある、君山島(zh)で採れる茶葉から作られた物が本物。現在、君山銀針は緑茶タイプと黄茶タイプの2種類があるが、黄茶の方が高級で、年間生産量は1,000 kgにすぎないともされる貴重品である。本物の君山銀針は100グラムで数千円をくだらない。このため5グラムほどの少量から売られている。なお、気候環境の似た君山島周辺でも製造されているが、これらをも君山銀針に含むかは疑問も残る。 君山島は観光地としても知られており、岳陽楼の付近から船で渡ることができる。島内の茶園は無農薬栽培だが、観光地化した環境故、有機認証の取得は出来ず、君山島内で栽培された「本物の君山銀針」は有機認証を有していない。 摘採では一芯+茎の一部が摘まれ、緑茶とは異なるゆっくりとした加熱処理を施された後、「悶黄(メンホワン)」と呼ばれる工程で茶葉のもつ酵素による酸化がゆっくりと行われる。この工程は通常の発酵食品の様な微生物が関与した発酵ではなく、黒茶以外の発酵茶に共通する”酵素による酸化発酵”を施す工程である。俗説では悶黄には微生物が関与するとも言われているが、実際には成分間の非常にゆっくりとした酸化反応であり、これは酵素によって齎されるもの[1]である。これは紅茶も例外ではなく、お茶における発酵を論ずる上では注意が必要な点であろう。中国茶の中で微生物が関与する発酵をしているのは六大茶類の中では黒茶のみである。 さっぱりとした風味の中にわずかに悶黄による香りが感じられる。但し、初めて飲むと薄いと感じる人が多く、君山銀針のデリケートな味を理解するには、ある程度経験が必要である。また、淹れる水の質にも大きく影響される。 淹れ方は耐熱ガラスの器を使い、低めの温度の湯で淹れ、やや長めに蒸らす。透明なガラス器を用いると細長い茶葉に泡が付いて上下する姿を楽しむことができる。ガラス器で淹れる場合、香りを逃がさないように蓋をすることがコツ。

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湯之谷村 – Wikipedia

ゆのたにむら湯之谷村 湯之谷温泉郷 折立温泉 湯之谷村旗 湯之谷村章 廃止日 2004年11月1日 廃止理由 新設合併堀之内町、小出町、湯之谷村、広神村、守門村、入広瀬村→ 魚沼市 現在の自治体 魚沼市 廃止時点のデータ 国 日本 地方 中部地方、北陸地方甲信越地方、信越地方北信越地方、上信越地方広域関東圏 都道府県 新潟県 郡

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田中正彦 – Wikipedia

田中 正彦(たなか まさひこ、1954年10月1日[2] – )は、日本の俳優、声優[2]。大阪府出身[2]。身長177cm、体重68kg[2]。以前は劇団昴に所属していた[3]。T-Project主宰[4]。 大阪府立北淀高等学校卒業[1]。19歳で研究生となり、劇団雲の最終公演、『シーザーとクレオパトラ』で初舞台[5]。 『機動戦士ガンダム』では、DVD版やゲームなどで、急死した塩沢兼人の代役としてマ・クベの声を担当する。 吹き替えでは主にアレック・ボールドウィンを担当。また『プロジェクト・ランウェイ』シリーズのティム・ガンの声も長年担当している。 本多一夫と知り合ったことがきっかけで2011年にT-Projectを設立[4]。2014年4月に劇団昴を退団[5]。 特技は大阪弁、博多弁[1]。 太字はメインキャラクター。 テレビドラマ[編集] 舞台[編集] テレビアニメ[編集] 1977年 1983年 1987年 1990年 1996年 1997年

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お雇い外国人 – Wikipedia

お雇い(御雇)外国人(おやといがいこくじん)は、幕末から明治にかけて、欧米の技術・学問・制度を導入して「殖産興業」と「富国強兵」を推し進めようとする政府や府県などによって雇用された外国人。当時の日本人の中からは得がたい知識・経験・技術を持った人材で、欧米人以外に若干の中国人やインド人もいた。官庁の上級顧問だけでなく単純技能者もいた。お抱え外国人とも呼ばれることもある。 「御雇外国人」と呼ばれる人々は、日本の近代化に必要な西欧の先進技術や知識を単にもたらしただけではなく、彼らの日本滞在を通して日本人に海外の生活習慣を紹介し、また反対に日本の文化を海外に紹介する役割を果たした。江戸時代初期にはヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスなどの例があり、幕府の外交顧問や技術顧問を務め徳川家康の評価を得て厚遇された。外国人雇用が本格化するのは幕末期で、欧米諸国から開国と通商の圧力が高まり、それに対し幕府は外交政策顧問としてオランダ人フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト、長崎海軍伝習所にオランダからヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケらの教員、さらに横須賀造兵廠にフランスからレオンス・ヴェルニーらの技術者、燈台建設のためにイギリスからリチャード・ブラントンらの技術者を雇用した。 明治政府は幕府が計画していた鉄道網の建設構想を引き継ぐとともに、殖産興業を大々的に推進するために工部省を創設し、そこに大勢の技術系外国人を雇用した。幕末期から外国人は 2から3年契約で雇われ、更新される者もいたが、順次日本人に取って代わられた。イギリス人にとってその植民地で長期間仕事をしたり、あるいは定住したりすることは普通であったが、ヘボンは日本では「雇いYatoi」とは短期雇用という位置づけであると述べている[1]。 御雇外国人の報酬は、当時の日本人の給与体系からするとたしかに高かったが、イギリスのインド植民地の官吏や技術者と同程度であり[2]、それを基準にしたと考えられる。1871年(明治3 – 4年)の時点で太政大臣三条実美の月俸が800円、右大臣岩倉具視が600円であったのに対し、外国人の最高月俸は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1,045円であった。その他グイド・フルベッキやアルベール・シャルル・デュ・ブスケが600円、燈明台掛技師長のヘンリー・ブラントンが500円で雇用されており、1890年(明治23年)までの平均では、月俸180円とされている[3]。 人選は政府間協定や信用のある機関を通して行われ、ほとんど皆真摯に任務を勤めたが、仲間からの推薦や自薦で採用された者のなかには不埒な者もいた[注釈 1]。 こうした御雇外国人はその後、佐賀の乱から西南戦争に続く緊縮財政のために1876年(明治9年)に多くの御雇いが解雇され、さらに工部大学校からの卒業生や、海外留学からの帰国者が出てくると、外国人の雇い入れは次第に少なくなった[5]。 ほとんどは任期を終えるとともに離日したが、母国に戻らずほかの国に仕事を求め定住する者もいた。さらに例外的に、ラフカディオ・ハーンやジョサイア・コンドル、エドウィン・ダンのように日本文化に惹かれて滞在し続け、日本で妻帯しあるいは生涯を終えた人物もいた。エドワード・B・クラークは、イギリス人の両親が日本に滞在していた時に横浜で生まれ、一時期、母国イギリスに留学した時以外は、死ぬまで日本で生活していた。 雇用された分野と異なる分野で、功績を残した人物も多い。アーネスト・フェノロサは、政治学や哲学の教授として招かれたが、日本美術の再評価においても名が知られる。ホーレス・ウィルソンは、英語教師として招かれたが、この時、教育の一環として日本人生徒たちに野球を教えた事から「日本に野球を伝えた人物」として名を残し、野球殿堂入りしている。ウィリアム・ゴーランドは大阪造幣寮の技師として雇われ、その分野でも高い評価を持つが、他に日本の古墳研究や、日本アルプスの命名でも名が残る。 ひと口に「お雇い外国人」とはいうものの、その国籍や技能は多岐に亘り、1868年(慶応4年/明治元年)から1889年(明治22年)までに日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍の者の資料として、『資料 御雇外国人』[6]、『近代日本産業技術の西欧化』[7]があるが、これらの資料から2,690人のお雇い外国人の国籍が確認できる。内訳は、イギリス人1,127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人である。また期間を1900年までとすると、イギリス人4,353人、フランス人1,578人、ドイツ人1,223人、アメリカ人1,213人とされている[8]。 1890年(明治23年)までの雇用先を見ると、最多数のイギリス人の場合は、政府雇用が54.8 %で、特に43.4 %が工部省に雇用されていた。明治政府が雇用したお雇い外国人の50.5 %がイギリス人であった[9]。工部省の明治3年から明治20年までのお雇い外国人総数256人中238人がイギリス人である[10]。大口雇用として、エドモンド・モレルをはじめとする鉄道建設技術者、リチャード・ブラントン他の灯台建設技術者、ヘンリー・ダイアー他の工部大学校教師団、コリン・マクヴェインの測量技術者があげられる。 アメリカ人の場合は54.6 %が民間で、教師が多かった。政府雇用は39.0

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石橋文化センター – Wikipedia

石橋文化センター(いしばしぶんかセンター)は、福岡県久留米市野中町にある総合文化施設。美術館、図書館、ホールなどを備える。公益財団法人久留米文化振興会が運営している。 1956年(昭和31年)4月、久留米市で創業した大手タイヤメーカー・ブリヂストンタイヤ(現・ブリヂストン)の創立25周年を記念して、ブリヂストン創業者の石橋正二郎が久留米市に寄贈する形で開園。2006年(平成18年)、開園50周年。2016年(平成28年)、石橋財団撤退により久留米市美術館となる。 久留米市立中央図書館 久留米市の公立美術館。 久留米市立中央図書館 久留米市内で最も大きい図書館である。1978年(昭和53年)に、以前あった体育館跡に建設された。 久留米市の文化振興を願って1960年代に建設された。久留米市内の合唱コンクールや演劇会などは大抵ここで開かれる。 久留米出身の画家・坂本繁二郎の旧アトリエ(八女市)を移築保存している。 楽水亭(休憩所・売店・喫茶) みどりのリズム 清水多嘉示作の正面入口前にあるブロンズ像。 開園当初は、体育館、プール、動物園などの施設もあったが、現在はすべて閉鎖された。 交通アクセス[編集] JR久留米駅より西鉄バス(1・7・8・9・20・22・25系統)で約15分、西鉄久留米駅より同約5分。「文化センター前」下車。 外部リンク[編集] 座標: 北緯33度18分47.8秒 東経130度31分48.4秒 / 北緯33.313278度

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山本幸久 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “山本幸久” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年4月) 山本 幸久(やまもと ゆきひさ、1966年[1] – )は、東京都八王子市出身[2]の日本の小説家である。 少年時代は漫画やSFのファンで、中学2年生のときに星新一ショートショート・コンテストに応募して入賞した。中央大学文学部卒業後、内装会社勤務を経て編集プロダクションに勤務し、大手出版社の漫画編集部に出向した。当時はやまだないとなどの担当をしていた[1]。 2002年、妻のすすめで書いた小説「アカコとヒトミと」が世田谷文学賞にて3席を受賞する[3]。その時の作品を原型にして書いた「アカコとヒトミと」(のちに『笑う招き猫』に改題)で、2003年に第16回小説すばる新人賞受賞し作家デビューした。2006年、『笑う招き猫』で第2回酒飲み書店員大賞受賞[4]。 作品リスト[編集] 単著[編集] 笑う招き猫(2004年1月 集英社

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