西郷従道 – Wikipedia

西郷 従道(さいごう じゅうどう / つぐみち[1]、旧字体:西鄕 從道 、天保14年5月4日(1843年6月1日) – 1902年(明治35年)7月18日)は、日本の政治家、海軍軍人[2]。最終階級は元帥海軍大将。栄典は従一位大勲位功二級侯爵。名前は「つぐみち」だが、西郷家では「じゅうどう」が正訓となっている[3][4]。兄の西郷隆盛が「大西郷」と称されるのに対し、従道は「小西郷」と呼ばれている[3]

文部卿(第3代)、陸軍卿(第3代)、農商務卿(第2代)、元老、海軍大臣(初・4代)、内務大臣(第2・14代)、貴族院議員を歴任した。

青年期[編集]

薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限、現在の鹿児島市加治屋町)に、西郷吉兵衛の三男として生まれる(幼名竜助)。剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学んだ。有村俊斎の推薦で薩摩藩主・島津斉彬に出仕し、茶坊主となって竜庵と号する。

文久元年(1861年)9月30日に還俗し、本名を隆興、通称を信吾(慎吾)と改名。斉彬を信奉する精忠組に加入し、尊王攘夷運動に身を投じる。

文久2年(1862年)、勤王倒幕のため京に集結した精忠組内の有馬新七らの一党に参加するも、寺田屋事件で藩から弾圧を受け、従道は年少のため帰藩謹慎処分となる。文久3年(1863年)、薩英戦争が起こると謹慎も解け、西瓜売りを装った決死隊に志願。戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いで貫通銃創の重傷を負うも、各地を転戦した。

維新後[編集]

明治維新後、太政官に名前を登録する際、「隆道」をリュウドウと口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」と記録されてしまった。しかし特に気にせず、「従道」のままで通した[5]。「従道」は諱であり、日常使用するのは通称である「信吾」であった。

1869年(明治2年)、山縣有朋と共に渡欧し軍制を調査。1870年(明治3年)7月晦日、横浜に帰着。同年8月22日に兵部権大丞に任じられ、正六位に叙せられる。

1871年(明治4年)7月、陸軍少将となる。

1873年(明治6年)には兄の隆盛が征韓論をめぐり下野する(明治六年政変)。薩摩藩出身者の多くが従うが、従道は政府に留まった。

1874年(明治7年)に陸軍中将となり、同年の台湾出兵では蕃地事務都督として軍勢を指揮する。

隆盛が1877年(明治10年)に西南戦争を起こした際、従道は隆盛に加担せず、陸軍卿の山縣有朋が政府軍を率いて九州へ出征したため、陸軍卿代理に就任し政府の留守を守った。以後は政府内で薩摩閥の重鎮として君臨した。西南戦争が終わった直後には近衛都督になり、大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)直後の1878年(明治11年)には参議となり、同年末には陸軍卿になった。

明治十四年の政変では、伊藤博文とともに大隈重信邸を訪ね、大隈に辞表提出を促した。

1882年(明治15年)1月11日、黒田清隆が開拓使の長官を辞し、参議・農商務卿兼務のまま黒田の後任となり、同年2月8日に開拓使が廃止されるまで短期間ながら開拓長官を務めた。

1884年(明治17年)の華族令制定に伴い、維新時の偉功によって伯爵を授けられる。

甲申政変後の天津条約 (1885年4月)を結ぶ際には、伊藤博文らとともに、清国へ渡った。

内閣制度発足で初代海軍大臣に任命され、山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢して大いに腕を振るわせて、日本海軍を日清・日露の戦勝に導いた。

西郷は従兄の大山巌と同じく、細かい事務は部下に任せてほとんど口を出さず、失敗の責任は自らが取るという考えを持っており度量が大きかった。軍政能力に長けた山本が、その手腕をいかんなく発揮できたのは、西郷自身の懐の大きい性格のお陰だとも言われている。井上馨から海軍拡張案のことで尋ねられた際、「実はわしもわからん。部下の山本ちゅうのがわかっとるから、そいつを呼んで説明させよう」と言い、井上は山本の説明を受け納得したというエピソードがある。西郷隆盛や大山巌と同じく鷹揚で懐の深い人物であったとされるが、内務大臣在職中に起こった大津事件に際しては犯人の津田三蔵の死刑を強硬に主張し、大審院長の児島惟謙を恫喝するなど大変な圧力をかけた。これは津田を死刑にしなかった場合必ずロシア帝国による日本本土攻撃を招き、その結果日本の敗北・滅亡となる事を危惧した西郷の強い憂国ゆえの勇み足であったといわれている。

1892年(明治25年)には元老として枢密顧問官に任じられる。同年、品川弥二郎とともに国民協会を設立。

1894年(明治27年)に海軍大将となり、1895年(明治28年)8月5日には侯爵に(しょうしゃく)し、貴族院侯爵議員に就任した[6]

1898年(明治31年)に海軍軍人として初めて元帥の称号を受ける。内閣総理大臣候補に再三推されたが、兄・隆盛の逆賊行為を理由に断り続けた(大山巌も同様)。

1902年(明治35年)、胃癌のため目黒の自邸で死去[7]。当初青山霊園に葬られたが、後に多磨霊園に改葬。

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

エピソード[編集]

  • ある会議で、某閣僚がわかりきったことを延々と述べて議論が行き詰まった際のこと。その閣僚が座ろうとした時に、隣席の西郷が椅子を引いたために尻餅をつき皆が大笑いしてしまい、これ以上議論をする空気ではなくなってしまったので、椅子を引かれた当人も苦笑いの内に引き下がり、会議は無事まとまったという。
  • 相手の話をよく聞いて「成程、成程」と相槌を打ったことから「成程大臣」と渾名された。
  • 面影が兄・隆盛に似ているとされ、エドアルド・キヨッソーネが隆盛の肖像画を作成する際、彼の顔写真が参考にされた(首から上は従道を、体の部分は大山巌を参考にしたといわれている)。
  • 静岡県駿東郡楊原村(現・沼津市)に別荘を所有していた(ちなみに、別荘の沖合に存する島を通称 西郷島 という)。
  • 横浜に設けられた日本レース・倶楽部で日本人としてはじめて参加が認められた日本人最初の馬主で、1875年(明治8年)には愛馬ミカンに騎乗して日本人馬主による初勝利をあげた。そのときの風刺漫画が残っている。
  • 西郷農場のあった栃木県大田原市加治屋に、1903年(明治36年)建立の西郷神社に祭られている。
  • 陸軍と海軍の両方で将官や閣僚を経験した人物は、西郷従道のみである(陸軍中将と海軍大将、陸軍卿と海軍大臣)。
  • 従兄の大山巌と、会津出身の山川捨松の結婚が実現できるよう、従道が山川家の説得に尽力した。
  • 松井広吉 「丸顔で眼が太く、鬚や髪の具合までが絵にかいた達磨で、殊に腕には太い鉄の輪をはめておられるので、その羅漢的な風貌など何としてもソックリ達磨だ。候の酒量は四升に上っても平気だと聞いて驚いた。候は征台役依頼の習慣で、毎朝蓐中で嗽いをし、宴会で大酒の場合など、食事をされぬとのことだが、酒量の大なのは余も舌を巻いた」[22]
  • 原田指月 「資性磊落、且つ機智に富み、激しい聴かぬ気の英傑だった」[23]

家族・子孫[編集]

子孫[編集]

萬朝報
  • 1898年(明治31年)9月1日 日刊新聞記事から「侯爵西郷従道は永田町岡田吉右衛門の娘ナカを妾とし、政子・従親・豊二・栄子・不二子の5人を挙ぐ。ナカは新橋の桃太郎とて有名の芸妓なりき。」
従道━┳従理
   ┣政子
   ┣従徳━━━┳従吾━━━従節━┳従洋
   ┣豊彦   ┣古河従純    ┗従英
   ┣上村従義 ┣従竜
   ┣従親   ┣従宏
   ┣豊二   ┣古河従靖
   ┣小松従志 ┗黒木従達
   ┣栄子
   ┣桜子
   ┗不二子

注釈[編集]

  1. ^ 貴族院の事務局に提出された履歴書並びに貴族院要覧に基づく。
  2. ^ 終戦まで海軍省が保管整理し、戦後厚生省に移管されていた旧・海軍軍人の奉職履歴書正本から、同省の協力を得て所要の事項を転記したもの。
  3. ^ 本書は参考文献として他箇所にも随時使用している。

出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

西郷従道が登場する作品[編集]

小説
映画
テレビドラマ

外部リンク[編集]