尼崎戎神社 – Wikipedia

尼崎戎神社(あまがさきえびすじんじゃ)は、兵庫県尼崎市にある神社。別名倉持戎大宮、または「ちぢみさん(後述)」と呼ばれている
[1]。商売繁昌の神様「尼のえべっさん」として参拝者に親しまれており、毎年1月9日より11日まで十日戎大祭が開催されている。

境内にある「事代主神社」の社号標

創建は醍醐天皇以前の時代であるという伝承が残されている[2]

正和年間に近江坂本の日吉神社に属する一社が尼崎に祀られ、その後別所町と別所村に分社、別所村字内畑(現・尼崎市西本町五丁目)には戎太神宮が建立され氏神として祀られた
[注 1][1]

戎太神宮は、近代には事代主神社(ことしろぬしじんじゃ)を経て現在の社号へ改称。太平洋戦争中の1945年(昭和20年)には、社地が空襲時の家屋疎開用地に指定されたが、終戦により撤去を免れている[1]

年表[編集]

  • 1662年(寛文2年) – この年までに、別所村字内畑へ戎太神宮が建立(分社)され、その後事代主神社と改称される
  • 1873年(明治6年)8月 – 村社に格付けされる
  • 1948年(昭和23年) – 尼崎戎神社へ改称
  • 1953年(昭和28年) – 神田中通三丁目(現在地)へ遷宮
  • 1958年(昭和33年) – 大鳥居を建立、翌年6月完成
  • 2013年(平成25年)1月 – 社務所が新築完成

古代の当神社は海辺に近く、漁業航海を守る海の神様としてえびすと同一視された事代主(ことしろぬし)が主祭神とされた。その後市内の商業・工業が発展してからも、商売繁盛の神様として崇拝されている。

またその昔、菅原道真が九州の大宰府に向けて航海する途中尼崎に立ち寄り、立ち並ぶ老松や砂浜の景観に感銘を受けた「琴の浦」に関する逸話[注 2][3]にちなみ、学問の神様(天神様)として祀られている。

宵戎で賑わう境内(2016年)
  • 1月1日:歳旦祭
  • 1月9日:宵えびす
  • 1月10日:本えびす
  • 1月11日:残りえびす
  • 2月3日:節分祭
  • 4月15日:高宝院稲荷例祭
  • 7月9 – 10日:夏越の祭
  • 10月中旬 – 11月30日:七五三詣
  • 12月31日:除夜祭
拝殿奥の覆屋に納められている本殿

当神社の社地は南北朝以来数々の戦火に巻き込まれ、また災害を被る毎に社勢が衰え、分断や縮小を余儀なくされていったことから、前述の「ちぢみさん」の別称が付いたと言われている[4]

現在の社地は東に向かって狭くなる細長の三角形をしており、拝殿等の建築物は西側に寄せられている。社地のほぼ中央に大鳥居が建てられており、周囲には遊具やベンチ等が設置され、普段は神田公園の名称で開放されている。

本殿
木造・一間社[注 3]流造の檜皮葺。江戸時代末期の建築とも言われている[5]
拝殿
鉄筋コンクリート造・銅板葺で、西に向かって参拝するように建てられている。建物全体は、本殿が納められた奥の覆屋と一体になっている。
末社
拝殿北隣にある天照大神や天神様等を祀る社。
別院社
境内北側にある稲荷神を祀る朱塗りの祠。
社務所
拝殿南隣にある木造・銅板葺の建物で住宅を兼ねる。2013年(平成25年)に竣工した[6]。建物の内部には、ガラス作家の三浦啓子による、えべっさんなどをデザインしたステンドグラスが飾られている[7]
大鳥居
1959年(昭和34年)に竣工した、高さ17m・笠木22m・柱直径1.6mある鉄筋コンクリート造・朱塗りの鳥居。掲げられていた「倉持戎大宮」の扁額は畳3枚分の大きさがあった[3]が、2015年(平成27年)現在、扁額は外されている。
月像石(つきいし)
アポロ11号が月面着陸を果たした1969年(昭和44年)7月20日に和歌山県で発見されたという奇石で、翌年に当神社に納められたもの。以来参拝者が御利益を祈願して、石を撫でて行く風習が広まった。

鉄道[編集]

バス[編集]

  • 阪神バス・阪急バス「阪神尼崎」バス停下車 西へ徒歩約3分
  • 阪神バス「東難波(ひがしなにわ)」バス停下車 南へ徒歩約3分

注釈[編集]

  1. ^ 一方、別所町の分社「初島恵比須」はその後築地町に移り、現在の「初嶋大神宮」になったとされる。
  2. ^ 菅原道真が「ここは殊のほかのよきなり」「松は中の並びたるが如し」と述べたことにちなみ、当神社により「琴の浦」という地名が付けられた伝承が残る。
  3. ^ 正面の柱間が一ヶ所のみの神社本殿。

出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]