日下部子麻呂 – Wikipedia

 

凡例

日下部子麻呂

時代 奈良時代
生誕 不明
死没 宝亀4年5月17日(773年6月11日)
別名 古麻呂
官位 従四位上・内豎員外大輔
勲二等
主君 孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇
氏族 日下部宿禰
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日下部 子麻呂(くさかべ の こまろ)は、奈良時代の貴族。名は古麻呂とも記される。姓は宿禰。官位は従四位上・内豎員外大輔。

筑後介在任中の天平10年(738年)に朝廷に献上する鷹を運ぶために、部領使として大宰府から平城京に赴く。

天平勝宝7歳(755年)従五位下に叙爵。天平宝字元年(757年)従五位上・左兵衛督、天平宝字4年(760年)正五位下、天平宝字7年(763年)正五位上に叙任されるなど、孝謙朝末から淳仁朝にかけて順調に昇進する。天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では山城守の官職にあったが、藤原仲麻呂が宇治経由で近江国へ逃走しようとしたところを、先手を打って衛門少尉・佐伯伊多智と共に田原道経由で近江国に入り勢多橋を焼き払い、仲麻呂の東国への退路を遮断した[1]。乱後には従四位上・播磨守に叙任され、乱での功労により天平神護元年(765年)勲二等の叙勲を受け、天平神護2年(766年)には功田20町を与えられた。神護景雲元年(767年)内豎員外大輔に転じた。

宝亀4年(773年)5月17日卒去。最終官位は散位従四位上。

『続日本紀』による。

  • 時期不詳:従六位上
  • 天平10年(738年) 10月4日:見筑後国介[2]
  • 時期不詳:正六位上
  • 天平勝宝7歳(755年) 8月13日:従五位下
  • 天平宝字元年(757年) 5月20日:従五位上。6月16日:左兵衛督
  • 天平宝字4年(760年) 正月4日:正五位下
  • 天平宝字7年(763年) 正月9日:正五位上
  • 天平宝字8年(764年) 正月21日:山城守。9月11日:従四位下。日付不詳:従四位上。11月5日:播磨守
  • 天平神護元年(765年) 正月7日:勲二等
  • 天平神護2年(766年) 2月21日:功田20町
  • 神護景雲元年(767年) 9月17日:内豎員外大輔
  • 宝亀4年(773年) 5月17日:卒去(散位従四位上)
  1. ^ 『続日本紀』天平宝字8年9月18日条
  2. ^ 『大日本古文書』2巻130頁

参考文献[編集]

  • 宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年
  • 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年