Month: November 2017

ブルースペース – Wikipedia

スイレンの池(Google Arts & Culture) ウィスコンシン州フォックス川沿いのダウンタウングリーンベイシティデッキ チャタヌーガの河岸(パノラマ写真) マンハッタン橋からのブルックリン橋公園の眺望 コロンビアメデリーンのクリスマス2004 Playa de la Caleta en Cádiz(パノラマ写真) ボストンロングフェロー橋 都市計画や都市設計におけるブルースペース(Blue space)(ブルーインフラとも言われる)は、陸上の水域や水路で著しく影響を受ける全領域を含んでいる。緑地(公園や庭園など)に関連して高温の都市(ヒートアイランド)から熱に関係する問題のリスクを減らす助けになるかも知れない[1]。相当量の都市の水域は、勿論歴史的な地政学の重要性からロンドンのテムズ川のように多くの都市の地勢の必須の特色として存在している[2]。 入場可能なブルースペースは、チャタヌーガの河岸(チャタヌーガ)やウィスコンシン州グリーンベイのシティデッキ(英語版)、ニューヨーク市のブルックリン橋公園(英語版)のような河岸改築計画に見られるように、近隣を活性化する助けになれ、増大する社会関係を推進でき[3][4]、コロンビアのメデリーンのクリスマス照明(英語版)のような河岸祭を強化した。国際良い建物研究所(IWBI™)が運営するWELLや[5]活動的設計センター(CfAD)が開発し運営するFitwelのような[6]健全な建物(英語版)を推進する設計指針は、居住者の健康を改善する戦略としての水の特色やハーヴァードT.H.チャン保健校(英語版)で開発された「健全な建物の9機関」などの共同作業を求めていて[7]、屋内で自然が感じられたり自然の影響を受けた要素に触れられることも求めている。 魅力的な自然の特色に接近できる近所がジェントリフィケーションの影響を受けやすいために[8]、水域に関係ある社会的利益は、高品質のブルースペースに繋がるのが難しい環境に優しい公正(英語版)領域と共に不公平に分布する可能性がある[9]。 ブルースペースの健康享受[編集]

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ゲオルク・ハインリヒ・メッテニウス – Wikipedia

ゲオルク・ハインリヒ・メッテニウス(Georg Heinrich Mettenius、1823年11月24日 – 1866年8月18日)は、ドイツの植物学者である。シダ植物の専門家である。 フランクフルト・アム・マインの裕福な商人の家に生まれた。1841年にハイデルベルク大学に入学しで医学を学び、1845年に博士号を取得した。フランクフルトに戻り、国家試験に合格し、医師を開業した。フランクフルトの医師でゼンケンベルク博物館(Naturmuseum Senckenberg)の学芸員のゲオルク・フレゼニウスの影響を受け、植物の研究を始め、1846年からヘルゴラント島、ベルリン、ウィーン、アドリア海へ植物調査旅行を行った。1848年にハイデルベルク大学の植物学の教授となり、1850年にフライブルク大学の植物学教授となり、1853年からライプツィヒ大学の植物学教授とライプツィヒ大学の植物園の園長となった。植物学者のアレクサンダー・ブラウンの娘と結婚した。1868年のコレラの流行の犠牲となり没した。 ヘルマン・カールステンによってキク類のメッテニウサ科 (Metteniusaceae)の属名Metteniusaに献名された。 Beiträge zur Kenntniss der Azollen. 1836 De Salvinia. 1845 Azolla nilotica

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経済複雑性指標 – Wikipedia

経済複雑性指標(Economic Complexity Index 以下ECI)は、国家全体など巨大な経済システムの生産力の特徴を測る全体的な指標である。 複雑系経済学で用いられる他の指標と同様に、経済複雑性指標は経済システムをその部分の合計としてではなく全体として捉え説明することが目的である。 経済複雑性指標はある国家の国民が形成するネットワーク「集団population」が蓄積してきた知識を解明することを狙っており、そのような知識は当該国家の工業的構造として表出すると考える。国家の多様性の指標と製品の遍在性ubiquity(偏在性ではない)の指標を組み合わせることにより、ある国家の輸出品の相対的な複雑性を表したのがECIである。似通った指標に、経済ではなく製品の複雑性指標を測る製品複雑性指標Product Complexity Index/PCIがある。 ECIはMITメディアラボのセザー・ヒダルゴとハーバード大学ケネディスクールのリカルド・ハウスマン(英語版)により提唱された。ECIのデータは経済複雑性観測所(英語版)(The Observatory of Economic Complexity)というデータビジュアライゼーションのウェブサイトで入手できる。オリジナルの論文は2009年の米国科学アカデミー紀要上で発表された[1][2]。 日本の輸出 ツリーマップグラフ アンゴラの輸出 ツリーマップグラフ 厳密な数学的定義によればECIは国家間をつなぐ行列の固有ベクトルである。ECIは国家の多様度と輸出品目の遍在性の2点を考慮に入れているため、 その国家がいかに多様であるか、またその国家の産業がいかに洗練されているか の両方を測定することができる。

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デボンテ・ケイコック – Wikipedia

デボンテ・ケイコック(Devontae Calvin Cacok, KAY-kok; 1996年10月8日 – )は、アメリカ合衆国・イリノイ州シカゴ出身のプロバスケットボール選手。NBAのサンアントニオ・スパーズ、NBAGリーグのオースティン・スパーズに2ウェイ契約で所属している。ポジションはパワーフォワード。 幼少期[編集] イリノイ州シカゴでハリーとローズルイの間に生まれ[2]、ジョージア州リバーデイルで育ち、主にサッカーをフォワードとしてプレーしていた。手首を骨折した後、最初に8年生でバスケットボールを始め、サッカーシーズンを終えた。最初は活躍できなかったが、2年生として身長が201cmに急成長した後、高校の代表チームに加わった。アルファレッタ高校のシニアとして、ゲーム平均22ポイント、12リバウンドを達成し、チームを地域のタイトルに導いた[3]。 大学[編集] ノースカロライナ大学ウィルミントン校の新入生として、ベンチスタートで、1試合あたり平均3.3ポイントを記録した[3]。2年生として1試合あたり平均12.2ポイント、9.8リバウンドで、フィールドゴール率(80.0%)を記録し、全国をリードした[3]。主にバスケットから約2フィートの範囲内でシュートし、29–6シーホークスチームで1年に1回のジャンプショットを行うだけで、この非常に高い割合を達成した。40ブロックを記録し、11回のダブルダブルでリーグのリーダーとなった。CAAディフェンシブプレーヤーオブザイヤーに選ばれ、サードチームオールCAAに選ばれた[4]。 シーズン後、UNCウィルミントンは4人のスターターとコーチのケビン・キーツを失い、新しいコーチC.B.マグレースは、ケイコックのプレータイムを拡大し。2018年2月のエロン大学戦では、87-63の勝利で、カコックは17ポイントと21リバウンドを記録した。次の対戦で、チャールストン大学に88-64で敗ぶれたが、29ポイントと17リバウンドを記録した。これらの2つのパフォーマンスにより、CBSスポーツプレーヤーオブザイヤーの栄誉を獲得した[5]。ジュニアとして、ケイコックはディビジョンIをリードし、1試合あたり13.5リバウンドを記録した[6]。CAAで1試合あたり17.8ポイントで8位、フィールドゴール率で58.8%で3位に終わった。ケイコックは22回のダブルダブルでチームを主導した。これは国内で2番目に多いプレーヤーで、オールCAAファーストチームに指名された[7]。ノースカロライナ大学スポーツ情報協会はケイコックを全州のファーストチームに指名した[8]。 シニアシーズンに入ると、ケイコックはオールCAAプレシーズンファーストチームに指名され[9]、シニアとして、ゲームあたり平均15.2ポイントと12.3リバウンド、22回のダブルダブルで全国をリードし、再びファーストチームオールCAAに選ばれた[10]。 大学卒業後、2019年のNBAドラフトには指名されなかったが、ロサンゼルス・レイカーズとExhibit 10(10日間のキャンプ契約)を交わしてNBAサマーリーグに参加した[11][12]。2019年10月21日、カコックはレイカーズにウェイブされたが[13]、その後下部組織であるサウスベイ・レイカーズに招待され契約した[14]。2019年12月11日、ロサンゼルス・レイカーズと2-way契約(傘下のNBAGリーグチームの両方に所属する契約)を結んだ[15]。 2020年8月13日のサクラメント・キングス戦にてNBAデビューを果たし、6本中3本シュートを沈めて6得点と5リバウンドを記録したが、136-122でレイカーズは敗北した[16]。 2021年9月20日にブルックリン・ネッツと契約したが[17]トレーニングキャンプを終えた10月16日、契約解除された[18]。 2021年10月18日、サンアントニオ・スパーズとの2ウェイ契約に署名した[19]。2022年3月4日、ジョー・ウィースキャンプとともに2ウェイ契約から本契約に更新された[20]。 個人成績[編集] NBAレギュラーシーズン[編集]

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上野景文 – Wikipedia

上野 景文(うえの かげふみ、1948年2月18日[1] – )は、日本の外交官。グアテマラ駐箚駐箚特命全権大使、バチカン駐箚特命全権大使を歴任した。退官後は杏林大学客員教授。「文明論考家」を称する[2]。 目次 1 経歴・人物 2 著書 2.1 単著 3 同期 4 脚注 5 外部リンク 経歴・人物[編集] 東京都出身[1]。1970年(昭和45年)東京大学教養学部を卒業して、外務省に入省する。1973年(昭和48年)ケンブリッジ大学経済学部を卒業する。ニューヨーク、在シンガポール日本国大使館参事官、パリの経済協力開発機構(OECD)日本政府代表部公使などの在外公館勤務や、兵庫県商工部商業貿易課長、外務省大臣官房在外公館課在外公館警備室長、国際交流基金総務部長兼日本研究部長を経て、1997年(平成9年)スペイン公使、1999年(平成11年)メルボルン総領事、2001年(平成13年)から2004年(平成16年)までグアテマラ駐箚駐箚特命全権大使。2004年ケンブリッジ経済学部修士課程を修了。財団法人国際研修協力機構常務理事を経て、2006年(平成18年)から2010年(平成22年)バチカン駐箚特命全権大使を歴任した。退官後は2011年(平成23年)4月より杏林大学外国語学部客員教授として教壇に立っている。一般社団法人日本シンガポール協会顧問[3][4][5][6]。

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若湊義正 – Wikipedia

若湊 義正(わかみなと よしまさ、1888年3月14日 – 1941年11月12日)は、高砂部屋に所属した元力士。4代富士ヶ根。本名は北条 義(旧姓岡本)。現在の栃木県栃木市出身。167cm、96kg。最高位は西小結[1]。得意技は押し、右四つ、寄り。 1905年5月場所初土俵、その後一時病気で帰京し、大坂相撲の朝日山部屋で修業した後再び東上。広い肩幅、重い腰を利した右差しからの寄りで、1913年1月場所に新入幕、「若湊」と改名した後の1919年1月新鋭常ノ花を破るなど5勝5敗、翌1919年5月場所に小結昇進。1922年1月場所限りで引退し、4代富士ヶ根を襲名[1]。弟子は冨士ヶ嶽孝一郎を育てた[2]。協会内では理事を務め、金庫番となった[3]。 主な成績[編集] 通算成績:68勝83敗13休8分12預 勝率.450 幕内成績:63勝78敗13休6分10預 勝率.447 現役在位:19場所 幕内在位:17場所 三役在位:1場所(小結1場所) 場所別成績[編集] 若湊 義正 春場所 夏場所

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メスよ輝け!! – Wikipedia

『メスよ輝け!!』(メスよかがやけ!!)は、原作:高山路爛、作画:やまだ哲太による日本の漫画作品。『ビジネスジャンプ』(集英社)にて1989年より4年間連載された。 2005年1月20日、原作者の高山が本名の大鐘稔彦名義で、本作を『孤高のメス-外科医 当麻鉄彦』として小説化、上下巻を栄光出版社から発表した。2007年には大幅加筆され、幻冬舎より6分冊で文庫化された。その後続編が『孤高のメス 神の手にはあらず』(全4巻)として2009年に、さらに『孤高のメス 遙かなる峰』(全1巻)が2014年に、それぞれ幻冬舎文庫から刊行された。 『孤高のメス』のタイトルで2010年に映画化。同タイトルで2019年1月13日から3月3日までWOWOWにて連続ドラマ化[1]。 孤高の外科医・当麻鉄彦が、滋賀県にある(という設定の)民間病院で、大学病院医局とその関連病院たる民間病院との間等で様々な圧力・確執・しがらみと闘いつつ、患者の生命を外科的技術で救っていく。手術シーンや、大学と関連病院との関係をリアルに描き、単行本は70万部以上を売り上げた。 作品の中で渡瀬医師が行うパンペリ(腹膜炎)術中の門脈切断による患者死亡という医療ミスは、作者が研修していたS病院で実際に起こった事例であると、当時の上司であるT医師が語っていた。 登場人物[編集] 甦生記念病院関係[編集] 当麻鉄彦(とうま てつひこ) 甦生記念病院外科医長。熊本県阿蘇郡小国町北里出身(医学者・北里柴三郎もこの地の出身)。京都・国立K大学(小説版では国立西日本大学)医学部卒業。地方病院での研修半ばで東京に出て、J大(小説上は関東医大)消化器病センター・羽島富雄教授に師事。J大で6年修業の後単身遊学。その後甦生記念病院第一外科医長に着任。(漫画上で)日本初の脳死肝移植を成功させた。しかしその後当時所属していた肝移植研究会から事情聴取を受け、研究会を除名された。除名後甦生記念病院を退職し、後述の王文慶の求めに応じて台湾・博愛記念医院へ独り赴いた。 矢野文男(やの ふみお) 甦生記念病院外科医師。福井県出身。北陸医科大学卒業後、研修を経て甦生記念病院外科に赴任。当麻が持つ高い外科技術に影響され、矢野自身もまた技術を磨いている。 島田光治(しまだ こうじ) 甦生記念病院院長。循環器内科を担当する。当麻の研修医時代の先輩であり、当麻を温かく見守ってきた。 野本六郎(のもと

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マクミンビル (オレゴン州) – Wikipedia

マクミンビル(McMinnville)はヤムヒル郡の郡庁所在地であり、同郡最大の都市である。オレゴン・ジオグラフィック・ネームズによると、名称は開拓者のウィリアム・T・ニュービーの出身地テネシー州マクミンビルに由来する。2010年国勢調査によると、人口は32,187人[2]。 また、ヤムヒル川の支流がウィラメットバレーで合流する地点に位置し、Schnitzer Steel Industries子会社のカスケード・スティール社、リンフィールド・カレッジなどが本拠地としている。 マックミンビルの創設者 ウィリアム・ニュービー 街の創設者であるウィリアム・T・ニュービーは1843年の大移住に参加し、当時オレゴン・カントリーと呼ばれていた地域の中で現在のマクミンビルに移住。1844年に土地所有宣言をした。そして1853年には現在3番街のある場所に製粉所を建設した。1856年5月5日[6]、彼は街を創設し、出身地のテネシー州マクミンビルから「マクミンビル」と名付けた[7]。また、地元にリンフィールド・カレッジが創設される際には、自らの土地をキャンパスのために寄付した[7]。 マクミンビルは1876年に自治体化し、1882年には市に昇格した。そして、1886年の議決によりラファイエットからヤムヒル郡庁が移転してきた。 マクミンビルは太平洋に面するリンカーンシティからは87km、ポートランドからは60km、州都のあるセイラムからは42km離れた位置にある。 アメリカ合衆国国勢調査局によると、市の面積は27.40km²であり、水面積率は0%である[8]。 エバーグリーン航空宇宙博物館 オレゴン国際航空ショーの開催地が2019年からマクミンビル市営空港に変更になった。この航空ショーは航空産業の振興と、空軍・退役軍人の顕彰のために実施されている。また、航空ショーは地元の協力を得ながら開催されており、1988年から累計300万米ドルの寄付がマクミンビルだけでなくワシントン郡ヒルズボロやオレゴン州を通じても行われている。 1960年代前期にはケルトン・ペリー、チャック・コルビン、ウィラード・カッシングなどがゴルフ場開発に乗り出した。そして、キャプテン・フランシス・マイケルブックを説得して彼の牧場を買い上げた。彼は土地を提供する際に自分の名前をゴルフ場につけることを条件として提示したため、ゴルフ場の名前は「マイケルブック・カントリークラブ」となった[9]。 1968年から、Schnitzer Steel Industriesの子会社カスケード・スティール社がマクミンビルに本社工場を構えている。カスケード社はリサイクルメタルを高付加価値の鉄製品に加工している。具体的には、アーク炉を利用して鉄筋や鉄筋コイル、ワイヤーなどを製造している[10]。 2016年にはマクミンビルの農協が別の農協であるオーガニック・バレーを買収した。オーガニック・バレーは全米最大の有機野菜生産者であり、オレゴン州とワシントン州の72名の事業者が加盟している[11][12]。 1993年からはゴールデンバレー・ブルワリー・アンド・パブ社がマクミンビルに本社を置いている。ゴールデンバレー社ではアンガス牛の畜産を行なっている[13]。また、マクミンビルのグラナリー歴史地区に位置するへーター・アレン醸造はピルスナー部門で世界トップのブルワリーである[14]。マクミンビルではビール醸造が盛んであり、合計でクラフトビールのブルワリーが6つ、グルテンフリーのブルワリーが2つある。 オレゴン相互保険本社 1990年代以降、マクミンビル周辺のブドウ畑のほとんどがウィラメット・ヴァレーAVAに含まれるようになり、マクミンビルはオレゴン・ワインの中心地と呼ばれるようになった。2005年1月には下部組織のマクミンビルAVAが設立され、14のワイナリーが合計2.12km²のブドウ畑を管理している[15]。

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ヘンリー・ユズル・スギモト – Wikipedia

ヘンリー・ユズル・スギモト(Henry Yuzuru Sugimoto 日本名:杉本謙、1900年3月12日 – 1990年5月8日)は日本出身の画家、絵画教師及び第二次世界大戦における日系人の強制収容の経験者である。1952年にアメリカの市民権を取得した[1]。 日本での少年時代(- 1910年代)[編集] 和歌山県海草郡湊村(現・和歌山県和歌山市湊)に生まれる[2]。スギモトの父親はスギモトが生まれてすぐに渡米し、母親も9年後に渡米したため、スギモトとその弟は母方の祖父母に養育された[1]。母方の祖父は武家の出であり、絵画を多数所有しており、スギモトは幼いころからそれを模写し絵画に親しんでいた[3]。 画家修業(1920年代)[編集] 1919年、スギモトは和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)4年生修了後、ヘンリーに改名し、カリフォルニア州ハンフォードで両親とともに暮らすこととなった[2]。1924年にハンフォード・ユニオン高校を卒業した後[2]、カリフォルニア大学バークレー校に短期間在籍し、カリフォルニア美術工芸大学(現・カリフォルニア美術大学)に転学、油絵を学び、1928年にBachelor of Fine Artsの学位を得て優等で卒業した[3]。スギモトはカリフォルニア・スクール・オブ・ファインアーツ(現・サンフランシスコ芸術大学)で研究を続けていたが、同年、パリのアカデミー・コラロッシ(現・アカデミー・シャルパンティエ)で学ぶため、渡仏した[1][2]。フランスにおいて、スギモトは日本人画家らと親交を持つようになり、この中には藤田嗣治もいた[2]。スギモトはアカデミーを退学し、風景画作成のためにフランスの郊外に転居した。このような風景画のひとつは、1931年の展サロン・ドートンヌにおいて展示された[3]。 若手画家としてのキャリア(1930年代)[編集] スギモトは両親の求めに応じ、1932年にフランスからカリフォルニアに戻った[2]。スギモトは、サンフランシスコのカリフォルニア・パレス・オブ・ザ・リージョン・オブ・オナー美術館(現・カリフォルニア・リージョン・オブ・オナー美術館)で個展を開催した。個展は好評を博し、規模を拡大し期間を延長して行われた[4] 。この個展はスギモトのプロフェッショナルとしてのキャリア発展の基礎となり、これ以降スギモトはベイエリア[要曖昧さ回避]を中心に多数の展覧会に出品し、また美術関連の協会員に推挙されるようになる[2]。1937年には、日本でも二科展の第24回展に入選し、1938年にはメキシコでも個展を行った[2]。 私生活では、1934年に長年交際していたスージー・タガワと結婚し、ハンフォードに転居、洗濯屋として働きつつ美術の授業を行い生計を立てることとなった[3]。1936年には長女が誕生している[1]。 強制収容(1940年代前半)[編集] 1941年12月の真珠湾攻撃の後、アメリカが日本に宣戦布告を行った際、スギモトはハンフォードに居住していた。大統領令9066号は、陸軍司令官が西海岸から「あらゆるすべての者」を退去させることを認めており、この命令によって、スギモトは妻子とともにフレズノ集合所に移送された[2][5]。スギモトは1942年10月にジェローム強制収容所に移され、1944年6月にはローワー強制収容所に移され、そこで1945年8月まで過ごした[1]。収容所に到着した直後から、杉本はシーツ、枕カバー、その他のスクラップ材料に絵を描き始めた。収容所での生活を批判的に描写したものが没収されることを恐れ、収容所での初期の作品は管理者には隠されていた。しかし、WRA職員に励まされ(プロパガンダ映画においてスギモトを撮影するまでに至った)、スギモトは公に絵を描き始め、収容期間を通じて約100枚の油絵、水彩画、スケッチを制作した。スギモトは他の被収容者に美術を教え、1944年2月、収容所近くのヘンドリックス・カレッジにおいて、収容所内で制作した作品の一部を展示することができた[3]。 戦後(1940年代後半 – 1960年代)[編集] スギモトは1945年に収容所から解放された。スギモトはすぐに、戦前に描き上げていた約100点の絵画を回収するためサンフランシスコに戻ったが、絵画はスギモトが強制収容のため不在にしている間に競売にかけられていた。絵画の販売代金を回収することができなかったため、スギモトはニューヨークに移住し、絵を描き続け、またテキスタイルデザイナーや挿絵画家として働いたが[3]、生活は苦しく、スージーがタイピストとして働き生活を支えていた[6]。この間に、スギモトは日本のキリスト教宣教師の賀川豊彦及び日系アメリカ人の作家ヨシコ・ウチダの本に挿絵を描いた[3]。

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