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May 2018 – Page 2 – Enzyklopädie

Month: May 2018

ジョン・バートラム – Wikipedia

ジョン・バートラム(John Bartram、1699年3月23日 – 1777年9月22日)はアメリカ合衆国の植物学者、園芸家、植物収集家である。 ペンシルバニア入植地にクエーカー教徒に農家に生まれた。自らを単なる農民だと自認し、地元の学校で教育を受けただけであったが、終生、医学や薬用植物に興味を持ち続け、多くの書物を読んだ。自らの農園で興味ある植物を育てたことに始まった植物学への貢献は、北米の植物に興味をもったヨーロッパの植物学者、園芸家と知り合うことによって商業的にも成功した。 アメリカ東部の入植地を訪れ、植物採集を行った。1743年にオンタリオ湖岸を訪れ、見聞記、”Observations on the Inhabitants, Climate, Soil, Rivers, Productions, Animals, and other Matters Worthy of Notice,

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田中和男 – Wikipedia

この項目では、元プロ野球選手について説明しています。編集者については「田中和男 (編集者)」をご覧ください。 田中 和男 基本情報 国籍 日本 出身地 岐阜県 生年月日 (1938-10-31) 1938年10月31日(83歳) 身長体重 176 cm71 kg 選手情報 投球・打席 右投右打 ポジション

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杉山神社 (横浜市西区) – Wikipedia

杉山神社(すぎやまじんじゃ)は神奈川県横浜市西区にある神社。旧戸部村の鎮守で、横浜市内唯一かつ旧武蔵国の式内社である「杉山神社」の論社の一つとされている。旧戸部村に鎮座していたことから、戸部杉山神社とも呼称される。 ※江戸時代までは薬師如来を本地仏としていた。 由緒・歴史[編集] 白雉3年(652年)[注 1]、当地を開拓した杉山の一族が出雲大社の大己貴命の分霊を「塩田の浜」[注 2]に祀ったと伝えられる[2][3]。さらに当社の創建後には、近隣に「杉山」の名が付く神社が多くなったとも伝わる[4]。 江戸時代には「杉山明神社」と称していた。また願成寺を別当寺とし、幕府より朱印地を与えられていた[5]。その後、1873年(明治6年)には村社に列している。なお、現在の本殿は1956年(昭和31年)に再建されたものである。 五社殿(左)と聖徳太子殿(右)※フェンスの外側より撮影 境内の面積は約3,600m2で、以下の境内社や像などが設置されている。なお、境内社のエリアは「風紀衛生防犯上」の理由により閉鎖されているため、参拝を希望する場合は社務所に申し出る必要がある。 境内社 その他 神楽殿:当社駐車場に建てられている。 狛鼠:鼠は大己貴命の使いであることから、2002年(平成14年)に創建1350年を記念して建立された。台座は回転式で、拝殿に向かって右側がオス、左側がメスとなっている(男性は右側、女性は左側の狛鼠を一回転廻してお参りする)。 大黒天像:俳優の黒沢年雄が奉納した。 オスの狛鼠(正面) オスの狛鼠(背中)、「創建千三百五十年記念」とある メスの狛鼠(正面) 祭事・年中行事[編集] 詳細は「神社庁のサイト」を参照。 杉山神社は河川沿いにある場合が多いが、当社は帷子川水系の石崎川沿いに鎮座している。また、境内からは古墳が一基発見されている[1]。

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頓所式1型 – Wikipedia

頓所式1型(とんどころしきいちがた)[1]は、日本で初めて飛行した国産ハンググライダー(懸垂式滑空機)。飛行家頓所好勝によって1937年(昭和12年)に製作された。 1915年(大正4年)に長野県下高井郡(現中野市)で生まれた頓所は、尋常小学校の四年生だった大正後期から模型飛行機の製作に没頭していたが、1933年(昭和8年)頃に自宅近在の上田市に飛来したドイツ製グライダーであるゲッピンゲン(英語版)機の影響を受け、グライダーの自作を決意。模型飛行機の製作経験と、ドイツ語の原書を購入した航空機製作の指南書『ゲッチンゲン研究ノート』(Ergebnisse der Aerodynamischen Versuchsanstalt zu Göttingen)を参考としつつ設計を開始し、1935年(昭和10年)末にハンググライダーとして設計がまとまった。機体の製作は自宅2階の使われなくなった蚕室で行い、1937年春に機体を完成させた。 航空局の検査を一回で通過した後、頓所式1型は頓所の操縦によって1937年3月10日に下高井郡延徳村で初飛行に成功。続いて4回ほどの試験滑空を行った。その後、頓所は頓所式1型を母校である旧制須坂中学校に預けた後、立川飛行機勤務を経て航空局航空試験所の検査官となったが、頓所式1型による飛行は継続し、保管場所を須坂中学から霧ヶ峰グライダー研究会(霧研)の格納庫に移した後の1943年(昭和18年)2月11日には、霧ヶ峰にて雪上での飛行実験を行っている。しかし、1945年(昭和20年)の太平洋戦争終戦に伴い、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって発せられた飛行停止命令を受け、頓所式1型は霧研が保有していた他のグライダーとともに焼却処分され、失われた。 戦後、頓所は新たに比較的通常のハンググライダーに近い無尾翼型の頓所式II型 マイウィングを製作し、1976年(昭和51年)に初飛行させた。さらにモーターハンググライダーである頓所式III型の構想もあったが、こちらは設計が固まらないまま、1999年(平成11年)に頓所が死去したことによって終わっている。また、1938年(昭和13年)ごろには頓所式1型を発展させた人力飛行機も計画されていた[2]。 頓所式1型は戦後に普及した主翼のみのハンググライダーとは異なり、主翼のほかに胴体と尾翼を有するソアラー(上級滑空機)に近い形状のものだった。操縦者は上半身のみを機首の風防の中に入れ、胴体から下半身をぶら下げる形で滑空する。機体はスプルース製骨組みに羽布張りで、機体の軽量化のために、主翼取付部のボルトを除き釘などは使用されていない。主翼は左右安定のために翼端に上反角がついた逆ガル翼となっていた。発航にはゴム索を用いる。 機体への「搭乗」は風防上部に設けられたフタから行われ、このフタは飛行中はゴム紐によって自動的に閉まるようになっている。また、機体下部にも足を突き出すためのフタが設けられており、こちらも操縦者が飛行中に足を胴体内に引き込むと自動的に閉まるようになっていた。 全長:3.5 m 全幅:9.0 m 全高:0.9 m(操縦者含まず) 翼面積:9.0 m2

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ディバインゲート – Wikipedia

『ディバインゲート』(英題:Divine Gate、略称:ディバゲ)は、ガンホー・オンライン・エンターテイメントより配信されていたiOS・Android用ゲームアプリ。ジャンルはパネルRPG。基本プレイは無料でアイテム課金がある。2013年9月30日にAndroid版、同年10月10日にiOS版が順次サービス開始。2015年9月23日に450万ダウンロードを突破した[1]。リリース当初の開発はアクワイアが担当した。 2016年1月から3月までテレビアニメ版が放送された(後述)。 2017年9月26日のメジャーアップデート実施により『ディバインゲート零』へリニューアルされ、開発についてもアクワイアからガンホー・オンライン・エンターテイメントの内製へと変更された。 2018年12月11日をもってサービスが終了された。 エナジーパネルと呼ばれる7種のパネルを組み合わせ敵と戦うバトルシステム、マンガとアニメの中間のようなコントラストの効いたスタイリッシュなキャラクターデザインが最大の特徴。キャラクターを中央に寄せ、派手なエフェクトを周りや背景に配置した構図が主流となっている。 1500体以上存在するユニットには全てプロフィールがついており、それぞれの内容やクエストエリアのストーリー紹介を紡いでいくことでストーリーの大きな流れを読み解く構成になっている。 また、他作品とのコラボも盛んであり、これまで20作品以上とコラボレーションしている。 ゲームシステム[編集] クエスト・バトル[編集] 5×5の盤上を、パネルを捲りながら奥扉を目指し進んでいく「クエスト」を進めていくことが主な目的となる。プレイヤーはリーダーユニットを含めた4体+フレンドユニット1体でパーティを組み、扉の奥にいるクエストボスを倒すとクリアとなる。盤上のパネルの中には、扉を開けるための「鍵」、そして様々な敵やトラップが隠されており、中には特殊な条件下でしか出会えない「ゲリラボス」などもいる。 敵とのバトルでは、7種のエナジーパネルを5つの場に組み合わせて出し、そのパネルの組み合わせで様々な攻撃を行っていく。パネルの組み合わせはユニットによって異なるので、よりパネルの組み合わせに親和性のあるユニットをパーティとして組むと戦いやすい。ユニットは「属性(炎、水、風、光、闇、無)」と「種族(人間、竜、神、魔物、妖精、獣、機械)」を持つ。種族については副種族を持つユニットも複数存在する。1000体以上のユニットが居るため、パーティの組み合わせは無限に存在し、自分だけのオリジナルパーティを組む楽しさを味わえる。 再醒進化[編集] 2014年9月末に実装された新進化要素。 「聖石」というユニットを主に進化素材にすることで、現状最高レアリティの☆7に進化させることができる。聖石は毎週日曜に出現する「聖石殿ロストロス」にて入手可能(ただしランク65以下では挑戦できない)。 リンクシステム[編集] 2015年12月10日に追加実装された強化システム。ベースユニットaに別ユニットbを「リンク」させることで、更なる強化が可能になった。強化されるのは体力と攻撃力の他、戦闘時に一定確率でリンクしたユニットbのスキル一種が発動するようになる(リンク開始後クエストをクリアするごとにユニットab間の「親密度」が上昇し、その数値に伴いユニットbのスキル発動率も上昇する)。 さらにユニットそれぞれに「リンクパッシブ」というスキルが用意されており、対象ユニットをリンクしただけでクエスト時に様々な特殊効果が付加される。ただしリンクには複数の素材ユニットとコインが必要であり、またリンクを解除する際にもコインが必要になる。 さらにリンク中はユニットb単体でのクエスト、ユニットbの進化および売却、ユニットbを素材とした強化はできなくなる(ユニットaの売却は可能だが、この場合リンク中のbも併せて売却される)。また同名ユニット同士のリンクもできない。 ベースユニットのレア度によってはリンク時に100万以上のコインが必要になる上、1度リンクを解除してしまうと親密度が0になってしまうためリンクには熟考が必要だが、ユニットbの種族や属性により強化値に差異があり、またリンクパッシブも様々なので、同名ユニットでも組み合わせ次第で性能にかなりの変化が生まれてくる。

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岡山市 – Wikipedia

岡山市(おかやまし)は、岡山県の南東部に位置する市。岡山県の県庁所在地及び最大の都市であり、政令指定都市である。 全国的には桃太郎の伝説と吉備団子や西大寺会陽(裸祭り)が有名である。温暖な瀬戸内の気候により育まれたマスカット・オブ・アレキサンドリア、シャインマスカット、ニューピオーネ、桃太郎ぶどう、白桃、愛宕梨(あたご梨)、鴨梨(ヤーリー)など高級フルーツの産地としても有名な都市である。中心部には岡山城や日本三名園の一つである後楽園を擁している。岡山藩池田氏の城下町として栄えた江戸時代以来、地域の中心都市として発展してきた高層ビルの立ち並ぶ中心部と、閑静な田園や中山間地域が広がる郊外部を持っている。 また古くから学都としての趣を持ち、明治期から戦前の昭和期にかけて旧制第六高等学校(中国四国地方唯一のナンバースクール)や旧制岡山医科大学(中国・四国地方で設置された初めての大学)、旧制岡山農業専門学校、岡山農業研究所、旧制岡山師範学校、旧制清心女子専門学校などが開校された。現在でも、市街地中心部に数多くの大学や専門学校が存在し、学都としての性格をより一層強めている。 中四国のクロスポイントとして、1980年代以降、瀬戸大橋の開通やJR線の四国との直通化、山陽自動車道の開通等、交通インフラが急速に整備され、岡山都市圏は周辺都市圏と共に東瀬戸経済圏として成長してきた。 2005年(平成17年)以降、周辺4町と合併したこともあり、人口は70万人を突破した。2009年(平成21年)4月1日には政令指定都市に移行し、北・中・東・南の4行政区が設置された。 広袤(こうぼう)[編集] 岡山市南部空撮(定期航空機より2014年(平成26年)12月6日撮影) 地形[編集] 市中心部を流れる旭川 児島湖と児島湾の衛星写真 市の北部はなだらかな丘が続く吉備高原の一角をなしており、市民の水がめである旭川ダムや岡山空港、および近郊住宅街がある。瀬戸内海に注ぐ旭川と吉井川、2つの一級河川の運搬・堆積作用によって形成された南部の岡山平野に中心市街地が位置しており、さらに平野の南部は江戸時代以降の干拓地であり農地が広がり、穀倉地帯をなしている。その南に児島湾を挟み、瀬戸内海を望む風光明媚な児島半島の丘陵地を成す。 山地[編集] 主な山 高倉山(548m) 金山(499.5m) 本宮高倉山(458m) 金甲山(403m) 龍ノ口山(257m) 芥子山(233m、別名:備前富士) 操山(169m)

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湧水 – Wikipedia

湧水(ゆうすい)は、地下水が地表に自然に出てきたもののことである。湧き水(わきみず)や泉(いずみ)、湧泉(ゆうせん)ともいう[注 1]。大規模な湧水はそのまま川の源流となることもある。 湧出機構[編集] 山間部に降った雨や雪が、地表を流出せず、山滝部から湧き出すもので、地下水の水頭(地下水ポテンシャルと大気圧の平衡する高さ)が地表よりも高く、かつその地下水が地表に出てくる地質条件が満たされている場所において、地下水が湧出し、水が湧き出る(湧泉)。このような地形は、沢の谷頭(こくとう、たにがしら)部、山地と平地(へいち)の境目、台地や河成段丘の崖線沿い、扇状地の末端(扇端部)、火山周辺の溶岩流末端などが多い。また、石灰岩等の炭酸塩岩類の洞窟は地下水による浸食で形成されたものであり、現状においても内部に水流が見られることが多いことから、鍾乳洞(石灰洞)の洞口も湧水地点となることがある。 気象条件・人為作用などにより地下水位が上下することで、湧出量が増減したり、時には枯渇したりする。しかしその変動は、一般的には河川水におけるそれよりも小さく、得られる水量が気象条件によって左右される度合いが少ない、言い換えれば安定した水資源となっている例が多い。 砂漠では湧水によりオアシスが形成されることもある。 湧出の利用と管理[編集] 湧水は地表水に比べると安定した供給が見込まれることから、古くから飲料、洗濯、農業などに広く利用され、地域住民の生活や生業に深く結びついた存在である。 沖縄県のように河川の水資源に乏しい島々では、地域住民が湧水を特に大切に利用、管理してきた。また、開発途上国にあっても、上水道が未整備な地域や安全な水へのアクセスが制限されている地域が広範に残っているために、湧水は井戸とならんで住民にとって大切な生活用水となっている。 湧水の農業用水としての利用も広い範囲で行われている。近年では低位にある河川などの真水をポンプを用いて汲み上げて配水し農業使用する場合が多い。しかし、高位に湧き出る真水は、量さえ確保できれば高低差を利用して容易に配水することができる。そのため、湧水は古くから動力を用いないで済む農業用水として利用されてきた。ただし、高所に降った雨や雪を起源とする湧水は、そのままでは農業用水としては水温が低すぎる場合があり、この場合はわき出た水をいったん池にためて水温を上げるという工夫が必要になることがある。 このように湧水は伝統的に地域コミュニティの住民によって共有資源として利用管理されていた。しかし、上水道や農業用水路の整備、大規模な工業用水など地下水の汲み上げ利用にともなって、湧水の利用、管理は地域住民の手から離れつつあり、そのために住民の参加しなくなった湧水、水源の荒廃が危惧されている。こうした中で地域住民を湧水の利用者、管理者として評価しようという草の根民活論が注目されている。1985年に、当時の環境庁が選定した名水百選、および2008年選定の平成の名水百選は、そのような現状をふまえ、地域の暮らしにとけ込んだ水資源のうち「地域住民等による主体的かつ持続的な水環境の保全活動が行われているもの」[1]を顕彰する目的で選定が行われ、選定対象の大半は湧水であった。 なお、湧水を利用した給水システムを江戸時代に完成し、現在に至るまでその維持活動が活発に行われている地域(名水百選の中では、宗祇水を代表とする岐阜県郡上市(旧八幡町)の水利システム、轟水源を利用した轟泉水道をもつ熊本県宇土市、秋田県美郷町(旧六郷町)の六郷湧水群など)。滋賀県高島市針江区には弥生時代から存在しているといわれる、湧水と井戸を融合させた川端(かばた)システムがある。 各所の湧水で水の持ち帰りを行えるが、あまり大量の水を持ち帰るのは勧められない。 湧水の大半は何の処理もされていない天然の物なので時間が経過すると共に雑菌類が繁殖し飲用に適さなくなるためである。 よって汲んだ場合はできるだけ早く使うのが望ましい。 湧水地は見た目にも美しいため、静岡県清水町の柿田川湧水や鹿児島県湧水町の霧島山麓丸池湧水など、有名な場所も多い。 湧水のさまざまな呼び方[編集] 湧水は地域とその歴史などから、日本では古来からさまざまな呼び方がされている。これらには「清水(しょうず、しみず)」、「お清水(おしょうず)」、「生水(しょうず)」[2][3]、「出水(いでみず、でみず)」、「涌水(ゆうすい、わきみず)」[4][5]、「泉水(せんすい)」、「どっこん水(すい)」[6]などがある。 注釈[編集] ^

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阪神百貨店 – Wikipedia

阪神百貨店(はんしんひゃっかてん)は、エイチ・ツー・オー リテイリング株式会社傘下の株式会社阪急阪神百貨店が運営する日本の百貨店[2]。 また、株式会社阪神百貨店(英語: The Hanshin Department Store, Ltd.)は、2008年(平成20年)9月30日までこれを運営していた企業である(法人としては解散[3])。 歴史・概要[編集] ターミナルデパート設立への序章[編集] 1925年4月に阪神急行電鉄梅田停留場(現在の阪急大阪梅田駅)構内にあった(後の阪急百貨店うめだ本店へと繋がる)白木屋出張所を契約満了を理由に退去した白木屋の代替の店舗として1926年10月1日に当時の阪神電気鉄道梅田停留場構内に白木屋阪神出張店を開業[4]させたのが阪神によるターミナルデパート(=ターミナル駅直結の百貨店)の始まりである。 大正時代の終わり頃から大阪市高速電気軌道第1号線(現在のOsaka Metro御堂筋線)の新設計画に合わせて現在地付近への延伸と駅の移転を含む大阪市の構想への対応を求められていた阪神電気鉄道は、その延伸費用の回収のために1929年に大阪市に百貨店用地の分譲を求め[5]、そのテナントとして南海鉄道難波停車場に進出していた髙島屋[6]と1930年にビルの賃貸の予約の覚書を交わし[5]、直営ではなくテナントの招致によるターミナルデパートの開設を当初は計画し[5]、その計画に基いて1931年12月には建物の設計まで終えた[6]。 その後、1933年3月には阪神電気鉄道梅田停留場構内の店舗を直営の阪神マートを開業して直営によるターミナルデパート経営の第一歩に踏み出し[7]、1937年1月22日に阪神電気鉄道の役員会で「阪神ビルの百貨店は資本金2百万円の株式会社阪神百貨店を新設し阪神傍系の別会社として経営する」と決定し、その日のうちに創立総会を開いて株式会社阪神百貨店を新設し、一般から公募せずに全株式を阪神電気鉄道が引き受ける完全子会社とすることで事実上直営化する方向へ方針転換をした[6]。 そして同年3月に計画地のうち御堂筋沿いの角地を取得したが[6]、1月の百貨店新設の発表に猛反発した阪神急行電鉄が一日平均1.8万人の乗客で混雑する梅田駅の混雑緩和を目的に昭和初期から計画していた南側への新駅開設に必要だとして[6]、ビルの建設予定地の西半分に当たる約2,000坪を地主から密かに買収してしまった[6][8]ため、大阪市や中央政界・中央官庁などを巻き込んでその土地の取得を巡って阪神急行電鉄と激しい紛争を繰り広げることになったが、1938年5月19日に大阪市の決定で無事構想通りの用地取得に成功した[6]。 しかし、この間に戦時体制の一環として鉄材の節約を理由に同年7月に百貨店などの高層建築の中止命令が出され[9]、百貨店法による許可も受けていなかった[9]ため構想の実現が不可能になり、1940年5月26日[10]に地上8階の予定が縮小されて地上4階地下2階として建設された梅田阪神ビルディング(後の大阪神ビルの東側部分)の地下1階に[11]阪神マートを移転させて規模を大幅に縮小して開業する[10]ことを余儀なくされた。 中央が阪神百貨店 大阪駅ホームより1955年(昭和30年)頃 拡張工事と百貨店の開業[編集] 第二次世界大戦後に再び構想の実現に取り組み、その一環として梅田阪神ビル(当時)北側地下道の両側に1951年に全国名菓名物街を開業し[5]、11月1日に売り場を1階まで拡張した際に屋号を阪神百貨店と改め[11]、1952年には1階に京阪神の甘辛の一流店を集めて阪神甘辛のれん街を開設する[11]など、この頃から専門店を誘致した委託部門優先をしていた[11]。 そして1957年4月に改めて2代目の株式会社阪神百貨店を設立し[5]、同年6月1日に念願の百貨店の開業[10]に漕ぎ着けた際にも、阪神電気鉄道梅田停留場から直接入店できる出入り口を設置[5]してターミナルデパートの強みをフル活用しつつ、取引先のノウハウを活用する委託優先・専門店招致の方針を掲げて後発によるノウハウの不足を補う方針で営業を開始した[11]。

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