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May 2020 – Page 2 – Enzyklopädie

Month: May 2020

生振 – Wikipedia

生振(おやふる)は北海道石狩市にある地名。 生振は四方を石狩川と茨戸川に囲まれている。周辺の地域とは橋で結ばれており、花畔大橋が石狩市新港南、茨戸大橋が同市花川東、生振大橋が札幌市篠路町拓北に通じている。 かつて茨戸川が石狩川の本流だったころ、河道が大きく曲がりくねる場所に位置する生振は、雪解けや豪雨のたびに氾濫に見舞われ、農家を悩ませていた。そこで河道を直線につけかえる捷水路(ショートカット)工事が行われ、一連の石狩川治水工事の完成によって頻発する水害から解放された。 和人の入植以前、この地にはアイヌが居を構えていた。石狩アイヌのエカシ(長老)である豊川アンノランもそのひとりである。 1871年(明治4年)5月、旧米沢藩士の玉木琢蔵によって引率された、宮城県と山形県の移民29戸が入植する。彼らは「玉木団体」と呼ばれ、アンノランの助けを借りながら開拓に着手した。玉木団体の集落を生振村と命名したのは、開拓使の判官岩村通俊である。 1894年(明治27年)4月15日、愛知県団体56戸が入植する。 1902年(明治35年)4月1日、二級町村制の施行により、生振村は周辺の町と合併して石狩町の一部となる。 1918年(大正7年)、石狩川初のショートカット工事、生振新水路の掘削が始まる。工事の進展とともに労働者が転入し、さらに彼らを相手にする店も増えて「生振治水市街地」が形成された。1931年(昭和6年)5月、生振新水路完成。その後も堤防工事が続けられたが、1939年(昭和14年)にすべての工程が完了すると人々が去り、市街地は跡形もなく消えた。 1950 – 60年代(昭和30 – 40年代)の生振は稲作が盛んであり、農繁期には東北地方からの援農を多く受け入れていた。しかし1970年(昭和45年)になると米の生産調整が始まり、農作業の機械化による省力化も相まって、東北からの出稼ぎ労働者を頼むことはなくなった。 参考文献[編集] 編:鈴木トミエ『石狩百話 風が鳴る 河は流れる』共同出版社、1996年9月1日。ISBN 4-87739-009-X。 『石狩の碑 第三輯』石狩市郷土研究会〈いしかり郷土シリーズ〉、2006年2月28日。 外部リンク[編集]

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ウースター (オハイオ州) – Wikipedia

ウースター(Wooster [ˈwʊstər]、ウスターとも表記)は、アメリカ合衆国オハイオ州北東部に位置する都市。クリーブランドの南南西約90kmに位置する。ウースター大学の大学町であり、またオハイオ州立大学が農業技術学校(ATI)およびオハイオ農業研究開発センター(OARDC)を置いている。人口は26,119人(2010年国勢調査)[1]。ウースターに郡庁を置くウェイン郡1郡のみで成る小都市圏は114,520人(2010年国勢調査)[1]の人口を抱えている。 ウースターは1808年、ジョン・ビーバー、ウィリアム・ヘンリー、およびジョセフ・ラーウィルの3人の入植者によって創設された。ウースターという町の名は独立戦争の英雄デイビッド・ウースターを讃えてつけられた[2]。その後1811年にウェイン郡の郡庁がウースターに置かれ、1817年10月13日にウースターが町として正式に法人化された。1818年には、ウースターに最初のウェイン郡地方裁判所庁舎が建てられた。なお、現在の庁舎は1878年に建てられたものである[3]。 初期の入植者はメリーランド州、バージニア州、ニュージャージー州、およびニューイングランド諸州から流入してきた。また、ペンシルベニア・ダッチの入植者も大量に流入した。初期にウェイン郡や南隣のホームズ郡に入植し、コミュニティを形成したアーミッシュは、この地の農業の発展に大きく貢献した[3]。 1866年、長老派教会がこの地にウースター大学を創立した。ウースター大学は創立当初から、女子や非白人の学生にも平等な高等教育の機会を与えていた。同学はその4年後、1870年に開校し、4人の女子学生を含む34人の新入生が入学した[4]。加えて1892年には、オハイオ州立大学の起源であるオハイオ農工大学からの伝統を受け継ぐ、オハイオ農業研究開発センターの前身であるオハイオ農業実験所がウースターに移設された[5]。 1880-90年代に入ると、ウースターは周辺の農家が必要とするものを生産するための工業が発展した。1890年時点でのウースターにおける最大の雇用主はアンダーウッド・ウィップ・カンパニーで、当時人口5,901人のこの町で、64人を雇用していた。その他には、ウースターでは家具、革製品、小麦粉、動物のエサ、ライ・ウイスキー、御影石、機械、馬車などが生産されていた。20世紀に入っても、ウースターは地元農家にとって重要な交易の中心地であり続けた[2]。 ウースターは北緯40度48分33秒 西経81度56分14秒 / 北緯40.80917度 西経81.93722度 / 40.80917; -81.93722に位置している。オハイオ州北東部、マンスフィールドとカントンのほぼ中間に位置し、いずれからも約50kmである。州北東部の中心都市であるクリーブランドからは南南西へ約90km、州都コロンバスからは北東へ約145kmである。 アメリカ合衆国国勢調査局によると、ウースター市は総面積42.37km2(16.36mi2)である。そのうち42.24km2(16.31mi2)が陸地で0.13km2(0.05mi2)が水域である。総面積の0.31%が水域となっている。市の標高は304mである。 地質学的には、この地の基岩は頁岩のカヤホガ層の上に、礫岩・砂岩・シルト岩のローガン層が覆いかぶさっている。カヤホガ層・ローガン層はともに石炭紀前半(ミシシッピ紀)に形成された層で、化石に富んでいる[6]。 気候[編集] ウースター 雨温図(説明) 1

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トルン – Wikipedia

この項目では、ポーランドの都市について説明しています。その他の用法については「トルン (曖昧さ回避)」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “トルン” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年12月) トルン(Toruń  [tɔruɲ][ヘルプ/ファイル]、ドイツ語:Thorn)は、ポーランド中北部ヴィスワ川のほとりに位置する工業都市で、クヤヴィ=ポモージェ県の県議会所在地。1998年までは旧トルン県の県都であった。1997年に旧市街が世界遺産に登録された。トルンは、中世からプロイセン領内にあった都市。 トルンはブィドゴシュチュからヴィスワ川を遡り東南東に40kmほどのところにある。2003年にはブィドゴシュチュ医科大学がトルン大学に統合された。 日本語ではトルンの表記の他、トルニと表記されることも多い。 名前の由来[編集] 1226年の記録には「Thorn」として登場し、1466年ごろの文書には「Thorun」、「Turon」、「Toron」、「Turun」、「Thoron」などという名で記述されていて、15世紀以降のポーランド王国支配下後は現在のポーランド語名称「Toruń」となっている。 トルンの名称の起源についてはいくつかの説がある。 十字軍によって樹立されたエルサレム王国に「Toron」という町があり、この名に由来した「Thorn」という町をドイツ騎士団がかつてトルンがあった場所(古トルン)に建設した。 ポーランド語で「道」、「軌道」あるいは「(水の)流れ」を意味する「tor」に由来する。つまり「流れ(沿い)の町」、「ヴィスワのほとりの町」を意味する。

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照の花謙二 – Wikipedia

照の花 謙二(てるのはな けんじ、1941年10月26日 – )は、荒磯部屋、伊勢ヶ濱部屋に所属した元力士。本名は道脇 謙二(みちわき けんじ)。現在の和歌山県海南市出身。173cm、140kg。最高位は東十両6枚目。得意技は左四つ、上手出し投げ。 母の知人が横綱・照國を贔屓にしていて伊勢ヶ濱部屋が和歌山で泊まりつけにしている旅館「米栄楼」を経営していたのが縁で勧誘され、自身は遊びたい一心で相撲は嫌だったので入門を拒んだが、母に「絶対帰って来てはいかん」と言われて入門した。しかし、身長が足りなかったこともあって4年間も新弟子検査に合格できなかった。1956年9月場所に初土俵。明朗で素直な性格であったが、気の小ささから大事な一番を落とすことが多かったので出世は早くなかったが、1964年1月場所に十両昇進。左四つからの上手出し投げを得意とし、押し相撲も取れたが半端相撲のきらいがあり、体重を生かし切れなかった。十両を11場所務めたが入幕はならず、三段目に陥落して初日から休場した1967年5月場所に25歳で廃業。 エピソード[編集] 新十両の初日の土俵入りで東の花道を先頭に立って土俵に向かったが、勘違いして向正面へ歩き出したので、呼出に注意されて東土俵から上がったことがある[1]。 主な成績[編集] 通算成績:259勝247敗12休 勝率.512 十両成績:74勝91敗 勝率.448 現役在位:61場所 十両在位:11場所 場所別成績[編集] 照の花 謙二

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祖国戦争勲章 – Wikipedia

祖国戦争勲章 (そこくせんそうくんしょう、ロシア語: Орден Отечественной войны)は、ソビエト連邦の勲章、旧ソ連地域では大祖国戦争の名称で知られるドイツ・ソビエト戦争時に英雄的な行為を行った、すべての赤軍兵士、治安部隊、パルチザンに授与された。 1942年5月20日に設立され、功績に応じて1等か2等を授与された。戦時中に設立されたソ連の最初の勲章にして、最初に等級をふり分けられたソ連の勲章である。受章理由は法令により性格に定義づけされ、例えば、戦闘機のパイロットとして敵機を3機を撃墜する、重戦車2両の破壊、もしくは中戦車3両の破壊、もしくは軽戦車4両の破壊のいずれか達成する、敵の軍艦を乗っ取る、敵地着陸後に砲火に晒されながらも航空機を修理する、などで1等祖国戦争勲章が授与された。また西側の連合国にも適用され、何人かの連合国軍の指揮官にも与えられた。全部で1等32万4903個以上、2等95万1652個が戦時中に作られた。1985年までの合計数は約137万個にまで達した。[1] 1985年の大祖国戦争勝利40周年の祝典の際に、戦争に参加した全ての生存している退役軍人に1等か2等のいずれかが授与されることになり、1等が約205万4000個、2等が約540万8000個が作成された。[1] 1992年1月の時点の全受章合計数は、1等が248万7098個、2等が668万8497個だった。[1] デザイン[編集] 背景には銀色の直線的な光線があり、それに乗せるように赤いエナメルの五芒星と、交差させたサーベルとライフルがある。背景の銀色の直線的な光線は2等のものであり、1等は金色になっていた。中心の円盤にはОТЕЧЕСТВЕННАЯ ВОЙНА(”祖国戦争”)と書かれた白いエナメルのリングがあり、それに囲まれるように赤い背景に金色の鎌と槌が配置されていた。当初の祖国戦争勲章は金星賞(英語版)のように簡素な赤いリボンを取り付けていたが、1943年6月からはリボンがなくなり直接右胸に着用されることになった。そこまで公式な場ではない時の為に、1等は中央に縞模様の明赤色がある暗赤色の略綬、2等は端に縞模様の明赤色がある暗赤色の略綬を着用することができた。[1] 1985年の記念日に作られた1等は、銀は単一片にされ、金はメッキにされたりとなるべく安上がりにされた。[1] 関連項目[編集] ^ a b c d e Description

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クリスチャン・エイド – Wikipedia

クリスチャン・エイド(英語: Christian Aid)は、イギリスとアイルランドのキリスト教会によって設立された非政府組織(NGO)。プロテスタント、カトリック、正教会の垣根を越えて41の教団が合同で設立しており[1]、南米、カリブ地域、アフリカ、アジアで開発支援を行なっている。 37カ国で100を超える協力団体と共に活動している[2]。イギリスのロンドンに本部があり、イギリス、アイルランドに地区支部がある[3]。毎年5月にイギリス最大の募金活動「クリスチャン・エイド・ウィーク」を開催し、戸口での寄付を呼びかけている。 ベトナム、ラオス、カンボジアで紛争後の復興支援を行う一方で、ウガンダのイディ・アミン政権や、ニカラグアのソモサ聖研、カンボジアのポル・ポト政権などの独裁政権が倒れた後の開発支援も行なっていた[4]。また、ブラジルでは先住民のヤノマミ族の支援も行なっている[5]。 目次 1 沿革 2 財源 3 脚注 4 外部リンク 第二次世界大戦によってヨーロッパで大量に発生した難民を支援するため、1945年に設立された。1950年代にはクリスチャン・エイド・ウィークを開催し始め、引き続きヨーロッパの難民支援を行う。この頃にはパレスチナ難民や朝鮮戦争、国共内戦による難民もヨーロッパにやってきていた。60年代に入るとビアフラ戦争や印パ戦争が発生し、その難民支援も行うようになった。また、アメリカ合衆国の公民権運動を支持し、キング牧師の渡英時には交流を持った。1980年代に入るとエチオピアで飢饉、モザンビークで旱魃が発生した。この際にも、支援金を送るようにロビー活動を行なった[3]。 クリスチャン・エイドの収入は、個人からの寄付やクリスチャン・エイド・ウィークで行われる寄付金、遺産贈与などで成り立っている。 ^ “Our people, partners

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ミヒャエル・ミュラー – Wikipedia

 ドイツの政治家 ミヒャエル・ミュラー Michael Müller 生年月日 (1964-12-09) 1964年12月9日(57歳) 出生地 西ベルリン 所属政党 ドイツ社会民主党 公式サイト michael-mueller-spd.de/ 第14代 ベルリン市長 在任期間 2014年12月11日 – 2021年12月21日 テンプレートを表示

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さつき (企業) – Wikipedia

さつき株式会社SATSUKI CO.,LTD. 種類 株式会社 略称 さつき 本社所在地 日本〒550-0014大阪府大阪市中央区南船場4丁目10番29号 さつきビル[1] 設立 1947年(昭和22年)5月1日創業:1931年5月1日[1] 業種 電気機器 事業内容 家電の部品供給とOEM生産の受託教育用機材の販売省エネルギー関連資材の販売[1] 代表者 祖父江 一郎(取締役社長)[1][2] 資本金 9,500万円[1]

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若い浪剛史 – Wikipedia

若い浪 剛史(わかいなみ たけし、1975年12月19日 – )は、東京都目黒区出身で立浪部屋に所属した元大相撲力士。本名は冨山 剛史(とみやま たけし)。身長181cm、体重127kg。最高位は東幕下2枚目(2003年11月場所)。趣味は映画鑑賞、音楽鑑賞、TVゲーム。 若浪順の甥に当る。力士になる前はリトルリーグやシニアリーグで野球をしていたが、元来素行が悪く、2度目の高校退学を期に父親から、山に篭って僧侶の道に進むか、街に残りたいなら力士になれと諭され、喧嘩無敗だった自分なら1年で横綱になれるだろうと、安易な考えから1992年7月初土俵、怪我も少なく順調に番付を上げていたが、叔父譲りの背筋力398kgと、吊り上げる力に大変秀でていた為、体に似合わぬ大柄な相手と胸を合わす吊りや寄りを主体とした大きな相撲を取り続けた結果、両膝を故障し相撲のスタイルが出足重視の速攻相撲に変わり、2003年9月場所では元幕内経験者で東西の幕下筆頭の隆の鶴伸一、若孜浩気(中尾)にどちらが格上か分からぬ程の相撲振りで勝ち優勝したが、その後は糖尿病を患い低迷し、三段目上位から幕下下位を往復、左腕上腕二頭筋の断裂なども上手を取る相撲に影響し、2010年3月引退。元来気性が荒く2000年の5月場所では、鶴ノ富士智万(福薗)との取り直しの際に、両者呼吸が合わず、待ったの状態で土俵下に突き飛ばされ、怒った若い浪が鶴ノ富士(福薗)の胸を拳で殴り、待ったの際に若い浪が大きく張り手した手を顔に当たる直前に止めるなど、一触即発の喧嘩に発展しそうになり、両者審判員からの厳重注意を受けた事もある。また、休場や不戦敗程勿体無い物は無いと、土俵から車椅子で運ばれた程の大怪我をした翌日も、休場をする事は無かった。主な実績は2003年9月場所の幕下優勝[1]。 通算107場所389勝353敗 幕下優勝1回(2003年9月場所) 場所別成績[編集] 若い浪剛史 一月場所初場所(東京) 三月場所春場所(大阪) 五月場所夏場所(東京) 七月場所名古屋場所(愛知) 九月場所秋場所(東京) 十一月場所九州場所(福岡) 1992年(平成4年) x

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鉄のストーブ – Wikipedia

「鉄のストーブ」(てつのストーブ、Der Eisenofen、KHM127)は、グリム童話のひとつ。 あらすじ[編集] 何年も助けられずに森の大きな鉄のストーブの中に閉じ込められる王子がいた。ある日、森で迷子になった王女が長い間さまよい歩いた末に、そのストーブの前にたどり着いた。すると中から「どこへ行くのですか?」と声がした。王女は「父の国へ戻りたいのに、迷ってしまったの」と返事をした。それに対してストーブの声は、王女を今すぐに国へ帰してあげると約束したが、それには、国へ帰った後、再びナイフを持って森に戻り、ナイフでストーブに穴をあけ、その中の王子と結婚しなければならないという条件がついていた。王女はそれを承諾し、王子が付けてくれたお供と一緒に森を抜け、無事国へ帰ることができた。 無事に帰ってきた王女を見て、王様はとても喜んだ。しかし、王女が森での出来事を話したところ、王様は大変ショックを受け、粉屋の娘を王女の代わりに森へ行かせることにした。粉屋の娘は言いつけどおり、ナイフで24時間がかりでストーブを削ったが、穴はあかなかった。次に王様は豚飼いの娘を身代わりに森へ行かせたが、粉屋の娘同様、鉄のストーブに穴をあけることができなかった。泣く泣く王女が森へ行くことになり、王様に別れを告げ、森の鉄のストーブをナイフで削った。すると、小さな穴が開いたので、中をのぞくと、宝石に包まれた美しい若者が見えた。穴が大きくなると、男は中から出てきて、王女を自分の国へ連れていこうとした。王女はもう一度だけ父に会いたいと頼み、王子はそれを承諾したが、父王とは三言より多く話してはいけないという条件を付けて、自分は森で待っていると言った。ところが、王女はその約束を破ってしまった。 王女は王子のもとへ急いだが、約束が破られたことを知っていた王子はもう姿を消していた。王女は9日間探し続けたが、食べ物を持っていなかったのでお腹が減ってしょうがなかった。そして真夜中、遠くに明かりを見つけたので、明かりをめざして歩きはじめた。そこには中に美味しそうな料理並んでいる古い家があり、王女が戸をたたくと、小さなカエルが戸をあけてくれた。カエルたちが王女に「どこへ行くの?」とたずねるので、王女は鉄のストーブの話をした。すると、小さいカエルが王女に箱を差し出し、王子探しの旅に役立つものをくれた。王女はその道具を使って、ついに王子のいる城へたどり着き、女中として働き始めた。しかし、既に王子には妻がいた。カエルから貰った道具の中に、三つくるみが入ってあり、そのくるみは、実は豪華な服になる木の実だった。王子の妻がその服をとても欲しがるので、王女は王子と一晩を共に過ごすことを条件に、それを承諾した。しかし、妻は王子に睡眠薬を飲ませ、王女が話かけても目が覚めないようにした。それが2晩続き、怪しくおもった王子は3日目に、睡眠薬を飲まずに王女と床についた。王女が森の出来事を話すのを聞いて、王子は驚き、「あなたがほんとうの花嫁だ」と言って、2人で城を抜け出し、幸せに暮らした。

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