張敖 – Wikipedia

張 敖(ちょう ごう、? – 紀元前182年)は、秦末から前漢初期にかけての人。趙王張耳の子で、高祖劉邦の娘婿。子は楽昌侯張寿・信都侯張侈・南宮侯張偃ら。娘は恵帝の皇后張氏。 父の張耳は大梁の人で、同郷の陳余と共に陳勝らの乱に参加し、総大将の武臣を趙王として自立させた。この報に激怒した陳勝は彼らを処刑しようとしたが、上柱国の蔡賜に宥められて、渋々とこれを認めた。そのときに張敖も成都君に封じられた。 後に武臣が武将の李良に殺害され、父の張耳は陳余とともに趙の王族出身だった趙歇を擁立した。だが、これを聞いた章邯は趙の要害である鉅鹿を包囲し、軍勢を率いた張敖と陳余は様子を見ただけで救助する動きを見せなかった。結局は項羽によって章邯が撃退された。そのため、父の張耳と陳余の関係が悪化した。秦が滅びると項羽によって張耳は常山王に封じられたが、今度は陳余が反旗を翻し、張敖は父張耳とともに国を追われた。張耳は漢王劉邦と旧知の仲であったので、張耳は漢に逃げ、劉邦は彼を厚遇した。張耳は韓信と共に趙王趙歇と陳余を破り、代わりに趙王に立てられた。 高祖5年(紀元前202年)に張耳は死去し、張敖が趙王を継いだ。その年、趙王張敖は楚王韓信・韓王信・淮南王英布・梁王彭越・元の衡山王呉芮と共に漢王劉邦に「皇帝」の尊号を奉った。 張敖は高祖と呂后の娘である魯元公主を娶り、彼女を王后とした。 高祖7年(紀元前200年)、高祖が匈奴に負けて帰る際に趙国に立ち寄った。張敖は高祖に対し子供や婿としての礼で仕えて大変卑屈な態度であり、高祖は彼を罵り、大変驕慢であった。趙国の丞相である貫高や趙午は張耳の客であった人物で、その様子を見て怒り、張敖に高祖の殺害を勧めた。張敖は今の自分があるのは全て高祖の力であるからと拒絶した。貫高らは張敖に黙って計画を進めた。 高祖8年(紀元前199年)、高祖がまた趙国を訪れた際、張敖は自分の側室であった趙姫を高祖に献上した。その趙姫は高祖の子を妊娠し、後に劉長を生んだ。貫高らは柏人という所に暗殺者を配置したが、高祖は柏人に逗留しようとした際に胸騒ぎを感じ「柏人とは「人に迫られる」という意味になる」と言い、逗留をやめることにした。そのまた翌年(紀元前198年)、貫高らの陰謀が発覚し、張敖と趙姫・貫高は逮捕された。呂后が張敖について口を利こうとしたが高祖は聞かなかった。貫高は拷問に屈せず、高祖は彼に感服した。貫高は張敖は陰謀に関与していないと証言したので、高祖は張敖を赦免した。 張敖は王位を失い、同年に列侯の宣平侯に封じられた。また高祖は貫高の件で張耳の客だった者を賢明だと思い、皆を郡守などに任命した。 恵帝4年(紀元前191年)、張敖と魯元公主の間に生まれた娘が恵帝の皇后に立てられた。 呂后元年(紀元前187年)に、魯元公主は死亡した。また同年、張敖と魯元公主の子である張偃が魯王に立てられた。 張敖は呂后6年(紀元前182年)に逝去して、武侯と諡された。 呂后8年(紀元前180年)に、魯王張偃の助けとするため、呂后は張敖の前妻の子である張寿と張侈を列侯に立てた。呂后が死に劉氏と陳平・周勃ら元勲が呂氏一族を滅ぼすと張寿と張侈は廃され、張偃は列侯に戻された。なお、呂氏一族の血筋を引く者で、殺されなかったのは張偃だけであった。 参考文献[編集] 班固著『漢書』巻16高恵高后文功臣表、巻32張敖伝

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妻木煕子 – Wikipedia

妻木 煕子(つまき ひろこ、生年不詳 – 天正4年(1576年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の正室。 この節の出典や参考文献は、一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼っています。信頼できる第三者情報源とされる出典の追加が求められています。出典検索?: “妻木煕子” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年3月) 生年不詳ながら、一説に享禄3年(1530年)頃[1][信頼性要検証]、長女として生まれたといわれる。『細川家記』よると、妻木勘解由左衛門範煕の女とあり、細川忠興の室(細川ガラシャ)の母であることから、この所伝は信憑性が高いとされる。 夫婦仲は非常に良かったとされ、「結婚直前に疱瘡にかかり、左頬にその跡が残ってしまった煕子を光秀は気にせずに迎えた」、「弘治2年(1556年)、光秀は長良川の戦いで斎藤道三に与したため、道三の嫡男であるもののこれと対立した斎藤義龍によって明智城が落とされると、光秀は身重の煕子を背負って越前へ逃亡した」などの逸話がある。 本拠を失い浪人した光秀は美濃から越前に移り、朝倉義景に仕えることになるが生活は苦しく、そのような中、連歌会の催しを光秀が担当することになった。酒宴の用意に苦労する光秀をみかねた煕子は、自分の黒髪を売ることで費用を工面したと伝わる。元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が門弟の山田又玄の邸宅でその妻に宛てて詠んだ句「月さびよ、明智が妻の、咄(はなし)せむ」はこの逸話にちなんだもので、芭蕉は丸岡を訪れた際に称念寺に伝わるこの逸話を聞いたと考えられ、「月も静かにひっそりと照らしてくれ、明智が妻の昔話をするほどに」という意味である[5]。 天正4年10月14日、煕子は病気になり、光秀は平癒の祈祷を吉田兼見に依頼している(『兼見卿記』)。10月24日には平癒したので、非在軒という者が銀一枚を持参して礼に行っている。11月2日には、吉田兼見が煕子の病気見舞のために光秀の京都の宿所に行き光秀と面会をしている。 天正4年11月7日(1576年11月27日)(『西教寺過去帳』)[6]または6月7日(7月6日)[7][信頼性要検証]に死去。享年は46または36、42とも言う。光秀が重病となった際の看病疲れが元で病死したという。 戒名は福月真祐大姉。滋賀県大津市の明智氏、妻木氏の菩提寺である西教寺に墓がある。

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スバン・ジャヤ駅 – Wikipedia

スバン・ジャヤ駅(スバン・ジャヤえき、マレー語:Stesen Subang Jaya)はマレーシアセランゴール州スバン・ジャヤにある、マレー鉄道とラピドKLの駅。 KTMコミューター(マレー鉄道)のポート・クラン線(マレー語版)・スカイパーク線(マレー語版)と、ラピドKLのクラナ・ジャヤ線が乗り入れる。KTMコミューターの線路名称上はポート・クラン支線であるが、運転系統上のポート・クラン線およびスカイパーク線として案内される。 マレー鉄道は当駅からスリ・スバン支線が分岐しているが、現在は、貨物列車も含め運行を停止している。 マレー鉄道とラピドKLの駅舎が一体化しており、両ホームも階数は違えど並行して並んでいる。 マレー鉄道[編集] 相対式ホーム2面2線をもつ地上駅である。ホームに面した上下線の間に通過線2線がある。駅舎は南側にあり、下りホームに面している。上りホームへは構内の跨線橋で結ばれている。 のりば[編集] ラピドKL[編集] 島式ホーム1面2線をもつ高架駅である。 のりば[編集] バス路線[編集] フィーダーバス[編集] その他のバス[編集] 駅からケマジュアン・スバン通り(英語版)を渡った先にバス停がある。 路線番号 始発地 行き先 経由

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四夷 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “四夷” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年8月) 四夷(しい)あるいは夷狄(いてき)は、古代中国で中華に対して四方に居住していた異民族に対する総称(蔑称)である。四夷は漢民族(漢人)側から周辺の他民族への呼び名(蔑称)とするのが一般的だが、近年の研究(謝小東の遺伝子調査を含める)の結果、これまで考えられてきた漢民族の定義自体が名目上(中国的正統主義による考え)であった可能性が出てきている。 古代中国において、異民族の支配を含め、中国大陸を制した朝廷が自らのことを「中華」と呼んだ。また、中華の四方に居住し、朝廷に帰順しない周辺民族を と呼び、「四夷」あるいは「夷狄」(いてき)と総称した。 夷狄とは中華思想における支配民族(漢民族や漢人とは限らない)による異民族への蔑称を意味する。夷狄戎蛮(いてきじゅうばん)や戎狄(じゅうてき)、蛮夷(ばんい)とも呼ばれた。 中華(華の中)に対し、夷狄は外世界(華の外)を指す言葉で、未開・野蛮を意味する。したがって19世紀になるまで中華と非中華である夷狄との間に対等な外交や貿易は存在せず、朝貢と呼ばれる従属関係のみが結ばれた。 古代における文明の進化の差異や、朝廷に帰順しない周辺民族から絶えず攻撃や略奪を受けたことから、これらの呼称に蔑んだ意味を込めたが、現代中国では学術的以外これらの言葉は死語になっている。 周辺民族から絶えず攻撃や略奪を受けていたとする解釈は必ずしも適切ではなく、中華を名乗る側(必ずしも漢民族ではない)も、領土拡大を目的に周辺地域への侵略行為を繰り返してきた事実がある。古代漢民族の支配していた「中原」と呼ばれる地域も、現在の中国河南省および山西省南部などを含めた範囲に限られており、農耕民族である彼等が、奪った牧草地を掘り起こすことで砂漠化が促進されたとも言われている。 夷狄と蔑視された非中華の国や民族も独自の文化を築いており、必ずしも中華文明とに優劣があったとは言えない。あくまでも中華側の価値観で見た区別または差別である。 歴史上多くの他民族(夷狄)が進出して王朝を築いたため、実際には中華文明自体が非中華(夷狄)の影響を受けている。 歴史的にも稲作、仏教、鉄器、鐙、胡服から始まる服装など、様々な四夷文化(非中華)が持ち込まれており、文化や宗教価値観(道教含む)などを含めて多くの面で影響を受けているのも事実である。 四夷と中華の支配[編集]

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第304飛行隊 (航空自衛隊) – Wikipedia

第304飛行隊(だい304ひこうたい、JASDF 304th Tactical Fighter Squadron)は、航空自衛隊南西航空方面隊第9航空団隷下の戦闘機部隊である。那覇基地に所属し、F-15J/DJ戦闘機および連絡機としてT-4を運用する。 同航空団隷下の第204飛行隊とともに、南西諸島全域の防空を担う戦闘飛行隊である。 1977年(昭和52年)4月1日のF-86Fを運用する第10飛行隊の閉隊に伴い、同年8月1日、航空自衛隊で4番目のF-4EJ飛行隊として築城基地の第8航空団隷下にて新編された。発足当初、F-86Fから機種転換教育を受けたベテランパイロットが多数編入された精強な飛行隊として活動を開始し、1978年度戦技競技会では部隊発足後わずか9ヶ月ながらも優勝している[1]。 1990年(平成2年)1月20日にF-15を装備する6番目の飛行隊となり、2000年(平成12年)10月6日に新田原基地の第202飛行隊が閉隊して以降は、西部航空方面隊で対領空侵犯措置を実施する唯一のF-15飛行隊となっていた[2]。 南西諸島空域における航空優勢確保や増加するスクランブルに対応するため、2016年(平成28年)1月31日をもって那覇基地に新編された第9航空団隷下に編入となった。 部隊マークは英彦山に棲むと伝えられる、天狗(英彦山豊前坊)がデザインされている。「天狗の如く山河を超え、鎮西の空を飛翔することの象徴」を意味し、発足当時の第8航空団司令のアイデアによるものとされる。築城基地時代は赤い顔の天狗として描かれていたが、那覇基地に移駐後は低視認性(ロービジ)塗装の灰色にされている。また、スペシャルマーキング等で「琉球天狗」と自負している。 5月3日 – 航空総隊射撃及び要撃戦技競技会優勝[3]。 10月 – F-4EJでのホットスクランブル1,000回達成[6]。 1月20日 – F-4EJからF-15J/DJへの機種更新完了[1]。 7月

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岡山村 (愛媛県) – Wikipedia

岡山村(おかやまむら)は愛媛県越智郡にあった村である。 1956年(昭和31年)に大三島町との1町1村が合併、大三島町となり、自治体としては消滅した。大三島町は平成の市町村合併で今治市と越智郡11か町村の合併により今治市となり、現在に至っている。 現在の今治市の北部。大三島の西南部。西に張り出した半島部を中心とする。概ね野々江坂で南と北とに分かれているが、多くの集落は北側に位置している。西には海を隔てて大崎上島と対する。南は同様に大島に対する。西は柏島、肥島などをはさんで関前諸島と対する。 村名の由来 浦戸、口総、宗方の村境にあった山の名にちなむ。 川 口総大川 山 薬師山 島 柏島、肥島、三ツ子島、福島、大横島、小横島 下記以外の歴史については大三島の記事も参照のこと。 口総の低地は文政元年以降の干拓による。 大正年間 タバコ草の栽培が導入され、野々江集落で特に盛んに栽培された。 明治30年代 因島から除虫菊の栽培が導入される 昭和14年 宮浦村への沿岸道路開通 沿革[編集]

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桜場コハル – Wikipedia

桜場 コハル(さくらば コハル)は、日本の男性漫画家。 経歴[編集] 講談社発行の漫画雑誌『週刊ヤングマガジン』2002年第9号で掲載された『にんじんなんて大嫌い』でデビュー。 数回の読切掲載を経て、『別冊ヤングマガジン』2002年第31号より『今日の5の2』の連載を開始。2002年49号を以って連載は終了したが、ヤング系雑誌では稀な「小学生」をテーマにしたことから徐々に話題を集め、OVA発売時には20万部を超えるヒットを記録した。 その後、『週刊ヤングマガジン』2004年第14号より『みなみけ』の隔週連載を開始。2007年10月、自身の作品では初のテレビアニメ化となる『みなみけ』『みなみけ〜おかわり〜』がテレビ東京系列にて放送される。 2008年10月よりテレビアニメ『今日の5の2』、2009年1月より『みなみけ おかえり』がテレビ東京系列にて続けて放送。 2009年9月、『別冊少年マガジン』創刊号より『そんな未来はウソである』の連載を開始。 2013年1月よりテレビアニメ第4期となる『みなみけ ただいま』が独立局で放送された。 作品リスト[編集] 連載[編集] 読切[編集] にんじんなんて大嫌い(『週刊ヤングマガジン』・2002年9号、みなみけ3巻特装版スペシャルブックレットに収録) うそカゼ(『別冊ヤングマガジン』・2002年29号、みなみけ3巻特装版スペシャルブックレットに収録) 今日の5の2 放課後の天使たち(『週刊ヤングマガジン』・2002年18号、単行本未収録) 今日のテニス部(『ヤングマガジン増刊

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久米 (那覇市) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “久米” 那覇市 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年2月) 久米(くめ)は、沖縄県那覇市の地名。1丁目と2丁目がある。郵便番号は900-0033。 北側は若狭、東側は松山、久茂地、南側は泉崎、東町、西、西側は辻に隣接する。北東端には松山通り、南東端には国道58号、南西端には西消防署通り、北西端には上之蔵大通り(沖縄県道43号線)が通る。中央部を久米大通り(沖縄県道47号線)が通り、久米大通りの西側が1丁目、東側が2丁目である。 久茂地にある沖縄都市モノレール県庁前駅やパレットくもじ(リウボウデパート)、泉崎にある沖縄都市モノレール旭橋駅、那覇バスターミナル、沖縄県庁、那覇市役所まで概ね500m-1kmの距離であり、那覇市の中心部に近い地域である。 この地区はかつては3つの川(安里川、久茂地川、国場川)と海に囲まれた浮島で、そこに14世紀後半に中国大陸からの移民(以下、渡来人)が住み着いて集落を作り、久米村と呼ばれた。その渡来人たちは久米三十六姓と呼ばれ、中国との貿易や当時の東南アジア諸国との貿易を行い、琉球王国の大交易時代を支えた。中国の貿易政策の変更のあおりをうけて一旦は衰退したが、1609年の薩摩藩による琉球進攻後、再び中国貿易が推進されてこの地域が復興した。琉球王国の政治家であり教育家として知られる程順則はこの地区の出身である。[1] 久米1丁目[編集] 久米2丁目[編集] バス[編集] 那覇バスの市内線・与根線の停留所がある。北端部の久米大通りと松山通りの交差点周辺に「久米孔子廟前」バス停、東側の松山通り上の那覇商業高校付近に「商業高校前」バス停、南側の久米大通り上に「久米」バス停、西端の上之蔵大通りと久米大通りが交差する久米(南)交差点周辺に「西武門」バス停。 那覇バスターミナル・県庁北口バス停などから琉球バス交通・沖縄バス・那覇バス・東陽バスの市外線や、やんばる急行バスも利用可能。 道路[編集] 関連項目[編集]

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明治座 – Wikipedia

株式会社明治座Meijiza Co., Ltd. 明治座定紋「丸に大和桜」 種類 株式会社 本社所在地 日本〒103-0007東京都中央区日本橋浜町2丁目31番1号 設立 1950年(昭和25年)5月 業種 サービス業 法人番号 7010001058757 事業内容 演劇興行事業 代表者 三田芳裕(代表取締役社長) 資本金 2億円

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