鳥は鳥であるために – Wikipedia

『鳥は鳥であるために』(とりはとりであるために)は、野島けんじによる日本のライトノベル。イラストは沖史慈宴が担当している。MF文庫J(メディアファクトリー)より、2004年10月から2005年7月にかけて全4巻が刊行された。 あらすじ[編集] 憑いた人間に不利益を与えるもの、「呪(じゅ)」が存在する世界。「呪」に憑かれた「呪受者」である小笹志朗はある日突然現れたメイドに拉致され、地域の資産家である水星家に連れてこられてしまう。そして、「呪受者」であることを公表されたくなければ、水星の娘に憑いた「呪」を祓うように脅迫される。 自らの「呪」むぅちぃで娘の「呪」を祓った志朗は用済みとばかりに水星家を追い出されてしまうが、帰る途中に水星家の別の娘、小鳩から「人捜しを手伝ってほしい」と頼まれて… 登場人物[編集] 小笹 志朗(おざさ しろう) 主人公。石楠花学院高等部一年生。表面的には明るく振舞っているが、「呪受者」であることを理由に虐げられた経験があるため人との関わりを持つことを恐れている。 小笹 菓(おざさ このみ) 志朗の妹。石楠花学院中等部一年生。自他共に認めるお兄ちゃんっ子。入学一ヶ月で高校生・大学生を含め5回告白されたという可愛らしさを持つ。自身は「呪受者」ではないが、「呪」を見ることができる。感情豊かで行動力がある。当初は小鳩を「志朗を狙う害虫」と認識していたが、事情を聞いてからは一転積極的な協力を申し出る。 水星 小鳩(みずほし こばと) 水星家の娘。石楠花学院高等部一年生。その身には五体の「呪」が宿っており、普段は特殊な手袋で封印している。行方不明になった兄を探しており、そのために「呪受者」としての志朗に協力を願い出る。 呪 いわゆる呪いが形をもったもの。恨みを持って死んだ人間に対応する形で現れる。取り憑かれた人間は「呪」に応じた不利益を被ることになる。「呪」は「呪受者」以外に見ることはできない。また、「呪」以外によって傷つけることもできない。攻属と守属に分類される。 呪受者

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失恋ショコラティエ – Wikipedia

『失恋ショコラティエ』(しつれんショコラティエ)は、水城せとなによる日本の漫画。 『月刊フラワーズ』増刊の『凛花』(小学館)にて3号から10号まで連載された後、『月刊フラワーズ』本誌へと掲載誌が移動となり、同誌2010年11月号から定期連載となった。単行本は、同社のフラワーコミックスαより全9巻。 2014年1月から3月までテレビドラマが放送された。 あらすじ 製菓学校に通う小動爽太は、チョコレートが大好きな憧れの先輩サエコ(高橋紗絵子)に告白し、OKをもらう。バレンタインデーの前日、爽太は精魂込めて作ったボンボン・ショコラをプレゼントするが、サエコは、別の男性と付き合っているからと受取りを拒否する。そもそも付き合っていると思っていたのは爽太だけで、サエコは「(爽太とは)エッチはしていないので付き合ってはいないし、二股にもならない」とのことだった。 傷心の爽太は製菓学校を卒業後フランスに渡り、有名パティスリーのラトゥリエ・ド・ボネールで、菓子作りの研鑽に励む。5年後、爽太はボネールの日本出店を機に帰国し、マスコミからボネール日本店を支える若きショコラティエ、通称・チョコレート王子として紹介される。 ただサエコを振り向かせたい一心で修業に励んできた爽太だったが、帰国後再会したサエコはすでに他の男との結婚が決まっていた。間もなく爽太は独立してショコラ専門店「ショコラヴィ」を開店。サエコも結婚し、互いに新たな道を歩み始めるが、サエコを諦めきれない爽太は客として店を訪れたサエコに対し、彼女が理想とする「悪い男」をあえて演じることでアプローチをかけていく。 そんなある日、爽太はショコラティエ仲間の誕生日パーティで出会ったモデルの加藤えれなと互いの片思いについて語り合い、意気投合する。互いの立場に共感した二人は、お互いに本命の相手がいることを承知の上で、セックスフレンドとして関係を持つようになる。一方、爽太からは幸せな結婚生活を送っていると思われていたサエコは、裏では家庭を顧みない夫に疲弊し、結婚生活への不満を募らせていた。 爽太とえれなは片思い仲間として良好な関係を築いていくが、ある時えれなの本命の恋が破れたことで互いの心境に変化が生じるようになる。爽太はえれなと真剣に付き合うためにサエコへの想いを断ち切ろうとするが、その矢先、夫のDVに耐えかねて家を飛び出したサエコが店に押し掛けてきたことで、今度は彼女と肉体関係を持つようになる。さらに長年密かに爽太を想い続けていた「ショコラヴィ」従業員・井上 薫子の働きかけもあり、やがて爽太の恋は決着の時を迎えることとなる。 登場人物 声はドラマCD版 /ムービーコミック版の順に表記。 小動 爽太(こゆるぎ そうた) 声:下野紘 本作の主人公。25歳。通称:チョコレート王子。実家がケーキ屋で、高校卒業後に製菓学校へ進学。高校1年生の時、1年先輩のサエコに一目惚れし、一途に想い続ける。振られた後も、サエコを振り向かせるためだけにフランスへ修業に行き、帰国後はショコラティエとして自分の店「ショコラヴィ」を持つまでに成長する。サエコの結婚後も気持ちは変わらない。妄想癖の一面があり、サエコの白昼夢を見ることもしばしばある。 サエコを振り向かせるために「悪い男」になることを決心し、その一歩として『自分を改革するため』に加藤えれなと肉体関係を持つ。 高橋

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ダイナマイトどんどん – Wikipedia

『ダイナマイトどんどん』は、1978年に大映で製作され、東映が配給した日本映画。143分、カラー、ビスタサイズ。 タイトルは、主人公菅原文太が率いる岡源ダイナマイツの掛け声(「ダイナマイトー!」「どんどーん!」)より。 ストーリー[編集] 舞台は昭和25年。終戦直後、米軍占領下の北九州・小倉。エスカレートする岡源組と橋伝組のヤクザ抗争を解決するため、警察署長の提案で抗争に代えてヤクザ対抗野球大会が(平和的に)開かれることになる。主人公、岡源組の加助は、橋伝組の攻撃を頭を使って抑えるが、痺れを切らした橋伝組は、秘密兵器の銀次を登板させる。彼は女がらみで指を詰めさせられヤクザになった投手であり、彼の投げる魔球に一転岡源組は苦戦を強いられる。 スタッフ[編集] キャスト[編集] 企画[編集] 豊島師範学校時代に野球に打ち込み、後に高校野球部のコーチまで務めた脚本家の井手雅人が、自身が所属していた新東宝の1951年の映画『新遊侠伝』(火野葦平原作・佐伯清監督)の劇中、やくざが野球の試合に目の色を変えるというプロットだけが心に種を残し、静かに醗酵[1]、1975年頃から岡本喜八のための作品を考えていて、この発想と岡本の演出の特徴が重なり、映画のイメージを膨らませた[1]。このため火野葦平が原案としてクレジットされている。井手にとっては25年越しの企画であった。 脚本執筆前のプロット段階だった1975年頃、井手が主役にイメージした菅原文太に人を介して会い映画化を交渉[3]。ヤクザが野球に取り組む話で、「指を詰めたヤクザが金田正一でも投げれないような魔球を投げる」といったエピソードを話すと菅原は新しい任侠映画になり得ると「そりゃ面白いから是非、やらせてもらいたい」と快諾し、菅原が東映に企画を持ち込んだが、岡田茂東映社長の知らない間に企画部がこれを流した[3]。 脚本[編集] 即、映画化はならず、製作が決定しない間に、井手は同郷の監督志望である若い古田求を誘い脚本の共作を始めた[1][3]。終戦直後に北九州でヤクザ同士が野球をやったというのは実話で[3]、火野葦平はそれをネタに『新遊侠伝』を書いたとされているが[3]、本作の脚本は、やくざが野球の試合で決着を付けるというプロットを拝借しただけで、全体はほぼオリジナル脚本である[3][5]。古田求は井手から参考にと長谷川伸の戯曲集を渡された[6]。これに様々なやくざの心理や行動のエキスがいっぱい詰まっており、主人公・遠賀川の加助の人物像は、『沓掛時次郎』の時次郎と『雪の渡り鳥』の鯉名の銀平、さらに『関の弥太っぺ』の箱田の森介を参考に造形した[6]。また橘銀次は『暗闇の丑松』を参考に、お仙はひたすら「いい女」、男の郷愁を誘うような女をイメージした[6]。映画の舞台は北九州だが、古田がイメージしたのは、古田の子どもの頃、1950年代の佐賀[6]。古田の実家は割烹料理屋で、祖父は侠客気質があり、子どもの頃にヤクザ同士の刃傷沙汰を見たことがあった。野球の試合もやはり子どもの頃に見た佐賀商業対龍谷高校のイメージ[6]。こうした幼少期の記憶に甦る佐賀の人たちと長谷川伸の作品の登場人物を合わせて人物を造形した[6]。古田が古湯温泉で脚本の第一稿が書き上げたのは発想後から二年経った1977年夏。第一稿を読んだ井手は「長谷川先生、ありがとうございました」とおどけて頭を下げた[6]。 製作の決定[編集] 第一稿を読んだ菅原が「想像した以上に面白い。是非やろうじゃないか。どこで撮るんだ」という話になり[3]、古田と同じ飲み屋の常連だった大映の佐藤正大が古田からこの話を聞いていて、徳間康快大映社長と武田敦に報告し大映で撮ろうとなった[1][3]。しかし菅原は東映の専属俳優のため[3]、勝手に大映の映画に出演できない[3]。このため、菅原が当時はフリーのプロデューサーで[7]、一応東映のゼネラルマネージャーという肩書だった俊藤浩滋にプロデューサー担当を頼み[3]、徳間大映社長と岡田茂東映社長とで話し合いが持たれ[3]、大映で製作、東映で配給が決まった[1][3]。監督の岡本喜八も最初からの構想で、菅原も「かねがね一度機会があれば組んでみたいと思っていた」と賛成した[3]。 1978年7月27日、後楽園ホールで製作発表会見[8]。同所で会見が行われたのは、これに先立ち、朝9時から後楽園球場で東京映画記者会とスタッフ・役者チームが野球の親善試合を行ったためで、北大路欣也の欠場が響き、記者会チームが22対2と圧勝した[9]。会見には、徳間大映社長、岡田東映社長、俊藤プロデューサー、岡本監督、菅原、フランキー堺、金子信雄、宮下順子、小島秀哉らが出席。徳間大映社長は「本作を再スタート大映映画第一弾として製作する」と述べ[10]、「大映の内部整理に一年かかったが、今年からドンドン製作を進める。今はこれだけ野球に人気が集まっているんだから、この映画だって絶対当たる」と強気の発言[9]。これに対して岡田東映社長は「ウチで作るという話もあったが…」と煮え切らない態度[9]。岡本監督は「昔の愚連隊タッチで大真面目な喜劇を作りたい」と静かな闘志を燃やし、菅原は「脚本を読んで傑作だと直感した。健さんと勝負や」とぶち上げた。封切りを高倉健主演の角川映画『野性の証明』と同じ、1978年10月7日にぶつけると発表した[9]。東映は本作『ダイナマイトどんどん』を主力劇場で、『野性の証明』を東映洋画系で公開するため、どちらに転んでも損はしない[9]。 スポーツ映画[編集] アメリカでは『がんばれ!ベアーズ』や『ロンゲスト・ヤード』『スラップ・ショット』など、スポーツを素材にした映画がたくさん作られ[11]、『ロッキー』のような大ヒット映画も生まれたが[12]、日本では映画黄金期の1960年代までは作られていたスポーツ映画も1977年の『ドカベン』『野球狂の詩』『ボクサー』と全て興行が失敗し[12]、定着しないジャンルと見られていた[12][13][14]。スポーツ映画は特に東映の岡田東映社長が新路線開拓にしたいと1976年に『ラグビー野郎』を製作したが[11][15]、大コケに終わった[11]。しかし東映はこのスポーツ映画を何とかヒットさせたいという企図があり[16]、1977年に日本で撮影が行われた『がんばれ!ベアーズ 大旋風』(『がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征-』)も東映が受注し[17]、菅原の持ち込み企画だった[18][19]『ボクサー』の製作を決めたのもスポーツ映画をヒットさせて路線化できないかと考えたことが理由の一つだった[16][19][20]。 本作も岡本監督自ら「平たく言えば『がんばれ!ベアーズ』のやくざ版、任侠映画の大パロディ映画」、菅原は「これまでのどんな映画ジャンルにもないユニークな作品になる」などと述べ[21]、プレスシートにも「単なるスポーツ映画ではなく、ルールを超えて男の意地をぶっつけ合う面白さは、評判を呼んだ『ロンゲスト・ヤード』『スラップ・ショット』等に比肩される、折りからの野球ブームも、近年まれな大きい期待が集まっている一篇」などとアメリカのスポーツ映画と比較する論調が多かった。当時はまだヤクザ映画のパロディはあまり作られていなかった。 キャスティング[編集]

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