ディオゴ結城 – Wikipedia

ディオゴ結城(ディオゴゆうき、天正2年〈1574年〉 – 寛永13年1月10日〈1636年2月16日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのカトリック司祭、イエズス会士。号は了雪。平島公方足利義種室の祐賀の兄とされる。

天正2年(1574年)阿波国で誕生[1]もしくは河内国で誕生[2]

天正14年(1586年)、摂津国高槻にあった司祭養成学校(セミナリヨ)に入り、勉学を始めたが、天正15年(1587年)に豊臣秀吉の指令でセミナリヨは移転を余儀なくされ、ディオゴは長崎で幽閉された。その後、幽閉先を脱出したディオゴは文禄4年(1595年)に天草でイエズス会に入会。河内浦にあった司祭養成の高等機関(コレジオ)で学び、慶長6年(1601年)に伊東マンショ、中浦ジュリアンと共にマカオに渡り、司祭になるための勉学を続けた。帰国後は畿内を中心に活動し、慶長12年(1607年)には伏見の教会の仕事を任され、この年徳島藩主蜂須賀家政、平島公方足利義種にキリスト教の教えを説いた。

やがて、江戸幕府によってキリスト教が禁制になり、ディオゴは慶長19年(1614年)高山右近らとマニラに追放された。ディオゴはマニラのイエズス会学校で勉学を続け、同地でついに司祭叙階を受けた。元和2年(1616年)、禁教下の日本で活動すべく極秘で長崎に渡り、陸路京へと向かった。こうして再び畿内において司祭として信徒たちを尋ね、秘蹟を授け、教え励ます活動を行うようになった。また、ディオゴはひそかに四国や江戸にまで足を延ばしていたと伝わる。元和5年(1619年)に京で幼児を含めた52名が殉教した「都の大殉教」が起こると、ベント・フェルナンデス神父やミカエル草庵とともに、残った信者らを励ましたり、遺体を葬ったといわれている。

その後、幕府の宣教師捕縛が徹底される中、ディオゴは山中で隠れて暮らしていたが、寛永12年(1635年)阿波国大坂峠で捕縛された。翌寛永13年(1636年)、大坂で穴吊りの刑を受け、3日後に処刑された。

没後の動き[編集]

平成20年(2008年)11月に長崎で「福者」に列せられた(ペトロ岐部と187殉教者)。

2014年8月に発刊された「阿南市の先覚者たち(第一集)」に業績などが収録された[3]

出自について[編集]

那賀川町町史編纂室の調査によると、足利家の史料から新たに発見された家系図によって、ディオゴは室町幕府13代将軍足利義輝の末弟の足利周暠の孫朝能(結城喜太郎)の可能性が高いといわれている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]