プントランド・ソマリランド紛争 – Wikipedia

ソマリランドとプントランドは国境を争っている。2007年7月1日、紛争地域であるマーヒルが独立を宣言している。

プントランド・ソマリランド紛争(プントランド・ソマリランドふんそう、英: Puntland–Somaliland dispute)は、内戦状態にあるソマリア内の独立地域、ソマリランドとプントランドの間の戦争。争われたのは両国の間にあるスール (Sool、サナーグ (Sanaag、アイン (Cayn(合わせてSSC地域)。

ソマリ族とその支族の分布。かつて列強が引いた国境線とは大きく異なっている。

ソマリアはアジアからインド洋を通ってアフリカに向かう場合のアフリカの入り口に当たるため、古くから交易の中継地として栄えていた。この地域にはソマリ族が住んでおり、ソマリ族は今のソマリアだけでなく、エチオピア東部とケニア東部を含む広い範囲に分布していた。19世紀、この要地にヨーロッパ列強が進出し、1887年にイギリスが現在のソマリランドとSSC地域に当たる地域を保護領とし、続く1888年にはケニアを支配した。さらに1889年にはイタリアが現在のソマリア南部を保護領とし[1]、1936年にはエチオピアがイタリアの支配下となった。その後1941年にエチオピアがイタリアの支配を逃れ、1960年にソマリアが独立、1963年にケニアが独立した。

1969年、クーデターでソマリアを支配したバーレは大ソマリア主義を唱えて本来のソマリ族の居住地域の回復を目指し、1977年に米ソ冷戦の代理の形でエチオピアと戦争をした(オガデン戦争)。ソマリアはこの戦争に敗れ、その後旱魃に襲われ、さらにはもともとソマリアには氏族同士の対立があったため、1980年代にソマリア内戦が勃発する。その後の1991年、北部のソマリランドが国際的に未承認ではあるものの安定地域として独立、次いで1998年にプントランドが事実上独立した。

ソマリランドはソマリアからの完全独立を主張しているが、プントランドはソマリア国内が安定すれば最終的にはソマリアの一地域になることを主張しているという立場の違いがある。この紛争が起こった当時、ソマリア暫定連邦政府の大統領はプントランドの前大統領アブドゥラヒ・ユスフであった。

地域の状況[編集]

サナーグ[編集]

サナーグはSSC地域の北部に当たる。領有権が争われたのはプントランドが独立を宣言した1998年以来のことである[2]

2003年のはじめ、ダロッド族の建てた国プントランドは民族統一主義を掲げ、SSC内のダロッド族が住む地域に武力侵攻した。それに対してソマリランドは、SSC地域は元のイギリス保護領であり、自国領だと主張した。これが武力衝突となり、死傷者も発生した。捕虜も発生したが、これは後に交換されている。

2004年にプントランド大統領のアブドゥラヒ・ユスフがその職を辞してソマリア暫定連邦政府の大統領となったが、当時ソマリア中心部はアルカーイダと関係が深いイスラム法廷会議が支配しており、ソマリア暫定連邦政府はこの紛争に対しても実効力は無かった。2005年、プントランドは外国人投資家にスールとサナーグの油田調査権を売却している[3][4]
。ソマリア暫定連邦政府はイスラム法廷会議をソマリア中心部から追い出した2007年1月にも改めてソマリランドを含むソマリア全土の主権を主張している[5][6]

2007年7月1日、サナーグはマーヒルとしてプントランド及びソマリランドからの独立を宣言した[7]。しかし2009年にプントランドに復帰した。

2020年2月26日、ユーべ英語版から18キロメートルの地点でプントランド軍とソマリランド軍の戦闘が行われている[8]

2021年3月15日、プントランド海軍がラス・コレーから東の海岸一帯で、違法操業をする漁船の取り締まりを行った[9]

2021年3月25日、プントランド軍がダハールの町で行われたデモ隊に実弾を使ったとして、ソマリア連邦政府が非難声明を発表した[10]

スール[編集]

スールはSSC地域の南東部に当たり、ここでもソマリランドとプントランドが主権を争っている。中心都市はラス・アノド。バーレがソマリア大統領だったころ、スールは後のプントランドに当たるニュガール (Nugaal州の一地域であった。1980年代にニュガールから分離した[11]

2003年からこの紛争がおきるまで、スールはプントランドの支配下にあった[12]。また、2006年にソマリア中心部を支配していたイスラム法廷会議もシャリーア(イスラムに基づく法)を共有するなど多少の影響力を持っていたが、軍事的支配は及んでいなかった。

2007年10月15日、ソマリランド軍がラス・アノドに侵攻した。ソマリランド政府によれば、ソマリランド軍はラス・アノド全体を支配し、プントランド軍100人を捕虜とした[13]。以後ラス・アノドはソマリランドが実効支配している。

2020年3月、ラス・アノド東の町、トゥカラクで、ソマリランド軍とプントランド軍の戦闘が行われた。ラス・アノドがソマリランド軍に侵攻されて以来、トゥカラクはソマリランド軍とプントランド軍の最前線の一つとなっている[14]

2020年6月30日、プントランド軍がカリン・ダベイル・ウェイン英語版への侵入を試みたが、ソマリランド軍に撃退されている[15]

アイン[編集]

アイン(Ayn, Cayn)はSSC地域の南西部に当たり、ここでもソマリランドとプントランドが主権を争っている。ブーフードル英語版を中心都市とする。ソマリランドの主張によれば、プントランドがカインと呼ぶ地域は、ソマリランドが1998年に獲得したトゲアー州 (Togdheerの一地域にすぎない[2]

ブーフードルは2020年の時点で、ソマリランド、プントランドのどちらに属しているとも言えず、住民の自治で治められている状況である。2020年に伝染病が流行した際、ソマリランド政府が医療チームを派遣している[16]。ソマリランド政府は、ブーフードルとラス・アノドの中間に位置するウィドウィドの町にも医療物資を送っている[17]

2016年12月、ウィドウィドとラス・アノドの中間に位置するカラベイド英語版の町で氏族同士の争いがあり、その調停会議がソマリランドが管理するラス・アノドの町で行われている[18]

武力衝突[編集]

2007年10月、ソマリランドはスールの中心都市、ラス・アノドを占拠するためにアドヒカデーイェ (Adhicadeeye) の基地から軍を繰り出し、戦闘となった。当時プントランドは財政的に苦しく、ソマリアの首都モガディシュにも軍を派遣していたために出だしで遅れを取った。ラス・アノドを支配したソマリランドは、スールの行政府をこの地においた。

この戦闘で、10名から20名が死亡したとされる。「ソマリランドはラス・アノド全域を支配し、プントランド兵100名を捕虜とした。ソマリランドはプントランドに対し、軍を出してきたらプントランド本国にも侵攻すると警告した」と伝えられた[19]

別の情報によれば、ソマリランド軍はプントランドにも進入し、プントランドの首都ガローウェの西90キロメートルの位置まで侵攻したとしている。ソマリランド防衛長官のアブディラヒ・アリ(Abdillahi Ali)は、ソマリランド軍がガローウェに通じる道を制圧したと発表した。ソマリランドはラス・アノドから東に25キロメートル軍を進める[20]。ラス・アノドとガローウェの距離は、約120キロメートルある。

2008年1月13日、ソマリランドの支配に反抗する部族がダバンザール (Dhabansar) で民兵を組織して、ラス・アノドのソマリランド基地を襲撃した。ソマリランドは軍を繰り出し、ラス・アノド南西の村から侵攻した。戦いは早朝に始まり、ソマリランド軍は大佐のデイル・アブディ (Deyr Abdi) など20名を捕らえ、10名ほどを殺傷した[21]。同月15日、プントランドの大統領ヘルジ (Mohamud Muse Hersiはラス・アノドを近々奪還すると宣言する[22]

ノースランド[編集]

ソマリア南部は一時アルカーイダと関係が深いイスラム法廷会議に支配されており、アメリカ合衆国にとってもこの地域の安定化は重大であった。そこで2008年4月16日、アメリカ合衆国にSSC地域から有識者が集まり[23]、2008年5月にスールとカインを合わせてノースランドとして独立が宣言されている。ただしその首都はソマリランドが支配するラス・アノドにあり、実際の政権は及んでいない。

参考文献[編集]

関連項目[編集]