ポール・ラッシュ – Wikipedia

ポール・ラッシュ(Paul Rusch 1897年11月25日 – 1979年12月12日)は、アメリカ合衆国ケンタッキー州出身[1]の牧師。親日家として知られ、日本に多くの業績を残し記念も多く残っている。

インディアナ州フェアマウント英語版で生まれ、ケンタッキー州ルイビルで育った[2]。1923年の関東大震災後の日本のキリスト教青年会拠点を立て直すために1925年に来日[1][2][3]

1926年からは、立教大学の教授として経済学や英語の教育をおこなうとともに、アメリカンフットボールの日本での普及に尽力した(詳細は後述)。また山間高冷地で米作に適さなかった清里高原(山梨県北杜市)での酪農、西洋野菜の栽培促進による開拓支援を行った[1]

1928年から1931年まで、ルドルフ・トイスラーを助け、聖路加国際病院の建設資金の募金活動も行った[1]

1941年の太平洋戦争開戦後もラッシュは日本への残留を希望したが、「敵国人」という立場から認められず、一旦敵性外国人抑留施設「スミレキャンプ」(菫女学院に設置。現在の田園調布雙葉学園[4]。)に収容された[4]後、日米交換船に乗って帰国する[5]。帰国後のラッシュは、滞日体験を買われてアメリカ陸軍情報部(MIS)の語学学校人事課長に就任、日系二世軍人への日本語教育などを担当した[5]。また、米国各地の教会で戦争後の日本救済への支援協力を訴えるため講演活動を行った。戦争終結後の1945年9月10日に再来日してGHQの参謀第2部配下にあった民間諜報局(CIS)に配属され[5][6]、1949年7月に退役するまで日本人戦犯リストの作成や赤狩りに関係した情報収集活動に携わった(詳細は後述)。陸軍在職時の階級は中佐。戦後の立教大学、日本聖公会、聖路加国際病院の再生とともに、アメリカンフットボールや清里の復興にも多大な貢献をした。

1979年、聖路加国際病院にて82歳で逝去、亡くなる直前にはカンタベリー大主教の見舞いも受けた[1]。遺骨は現在、清里聖アンデレ教会納骨堂に安置されている。

日本でのアメリカンフットボールの普及[編集]

ポール・ラッシュの胸像

立教大学在職中の1934年に東京学生アメリカンフットボール連盟を設立した[3]

太平洋戦争中はアメリカンフットボールも敵性スポーツと判断されて中断されたが、戦後の再来日後、1948年に行われた第1回ライスボウルでは始球式のキックを行った[3]

1961年には日本アメリカンフットボール協会から「日本フットボールの父」と称号をもらった[2]。この業績を記念して1984年からライスボウルの最優秀選手にはポールラッシュ杯が贈られるようになった[3]

立教大学のチーム名“ラッシャーズ”はポール・ラッシュにちなんで名付けられた。

GHQでの活動[編集]

前記の通り、太平洋戦争後の1945年から1949年まで、GHQ・G2の民間諜報局(CIS)に所属した。春名幹男の著書によれば、民間諜報局で文書の編集課長をしていた[7]。G2に残された石井ファイル(731部隊隊長だった石井四郎元中将の取調及び免罪工作に関与する文書)には、ラッシュの名前が記された文書が多数残されている。そのことから、春名はラッシュが免罪工作に関わっていたと考えている[7]。このほか春名は、ラッシュが有末精三らを通じて、公職追放者の個人資料収集、戦犯訴追資料として原田熊雄日記(『西園寺公と政局』)の発掘と翻訳(里見弴や吉野源三郎が担当)、吉田茂・白洲次郎・松本重治・片山哲・森戸辰男・福島慎太郎らとの人脈形成などをおこなったとしている[7][8]

ラッシュは外交官の沢田廉三・美喜夫妻が麹町に所有していた邸宅を接収し、ここをCISの拠点「CISハウス」として使用した[8]。CISハウスには戦犯訴追に関する個人情報が集められ、戦犯リストが作成された[8]。ラッシュには寺崎英成をはじめ政府関係者が接触し、「戦犯を作り出すより、頼まれてもみ消す方が多かった」とされる[9]

また、1946年1月以降は「日本共産党に関する情報収集」に当たったとされる[9]。加藤哲郎によると、ラッシュは上司に当たるチャールズ・ウィロビーとともに、中国革命に好意を示すジャーナリストを告発する赤狩りの一環としてアグネス・スメドレーを標的としたゾルゲ事件の調査に携わった[10]。1947年8月にCISが作成した報告書について、加藤哲郎はラッシュが作成を指揮したのではないかと推定している[11]。さらに、1949年にはスメドレーに関する情報収集の一環として、戦前に上海でリヒャルト・ゾルゲと関わりのあった川合貞吉を情報源として尋問した[12]。このあとG2は川合に情報源としての報酬を与え、日本の警察とも連携して保護警備し、G2と日本警察は川合が個人的動機で共産党の内情と伊藤律を誣告した内容をも「活用」することとなった[13]

参考文献[編集]

  • 井尻俊之、白石孝次『1934フットボール元年 父ポール・ラッシュの真実』ベースボール・マガジン社、1994年12月。

    ISBN 4-583-03180-7。

  • 加藤哲郎『ゾルゲ事件 覆された神話』平凡社〈平凡社新書〉、2014年3月。ISBN 978-4-582-85725-2。
  • 春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』上巻、新潮社〈新潮文庫〉、2003年9月。ISBN 4-10-114821-X。
  • 『清里の父ポール・ラッシュ伝 do your best and it must be first class』山梨日日新聞社編、山梨日日新聞社、2004年8月。ISBN 4-89710-500-5。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]