春日向山古墳 – Wikipedia

春日向山古墳(かすがむかいやまこふん)は、大阪府南河内郡太子町大字春日にある古墳。形状は方墳。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「河内磯長原陵(こうちのしながのはらのみささぎ)」として第31代用明天皇の陵に治定されている。

大阪府南東部、二上山山麓の磯長谷において、春日集落の南西端の台地上に築造された大型方墳である。現在は宮内庁治定の天皇陵として同庁の管理下にあるため、これまでに本格的な調査はなされていないが、2012年(平成24年)2月に学会立ち入り調査が実施されている[2]

墳形は方形で、南方に面する。墳丘は3段築成と推測され、東西65メートル、南北60メートル、高さ10メートルを測る[4]。墳丘周囲には空壕(幅7メートル)が巡らされており[4]、壕の外堤(土塁)まで含めた古墳全長は東西100メートル、南北90メートルにもおよぶ。墳丘表面で埴輪は認められていない。主体部の埋葬施設は明らかでないが、享保10年(1725年)の古文書(春日の吉村家蔵文書)では横穴式石室の可能性を示唆する記述があるほか、『廟陵記』にも「大石有之」として巨石(横穴式石室の部材か)の露出が記される。

この春日向山古墳は、古墳時代終末期の7世紀前半頃の築造と推定される。古墳形態としては石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村、蘇我馬子墓か)との関連が指摘される(同一プランの築造か)[4]。被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第31代用明天皇(587年?崩御)の陵に治定されている。磯長谷では用明天皇陵のほか敏達・推古・孝徳天皇陵と聖徳太子墓が伝わっており、これらは「梅鉢御陵」と総称される。

春日向山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第31代用明天皇の陵に治定している[7][8][9]。用明天皇について、『日本書紀』では用明天皇2年(587年?)4月[原 1]に崩御し、同年7月[原 2]に「磐余池上陵」に葬られたのち[10]、推古天皇元年(593年)[原 3]に「河内磯長陵」に改葬されたとする[11]。また『古事記』では「御陵在石寸掖上、後遷科長中陵也」と見える(掖上は池上の誤写か[10])。『延喜式』諸陵寮[原 4]では用明天皇陵は遠陵の「河内磯長原陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西2町・南北3町で守戸3烟を毎年あてるとする。その後、元治元年(1864年)に修補および拝所設置が実施されたのち、1899年(明治32年)には御在所修理が実施されている。

本古墳が用明天皇陵であれば、天皇陵としては最初の方形墳に位置づけられる。なお、初葬地の「磐余池上陵」については明らかでないが[10]、一説には奈良県桜井市阿部付近に推定される。

原典

  1. ^ 『日本書紀』用明天皇2年(587年?)4月癸丑(9日)条。
  2. ^ 『日本書紀』用明天皇2年(587年?)7月甲午(21日)条。
  3. ^ 『日本書紀』推古天皇元年(593年)9月条。
  4. ^ 『延喜式』巻21(治部省)諸陵寮条。

出典

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]