ジェローム・ロビンズ – Wikipedia

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ジェローム・ロビンズ
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ジェローム・ロビンズ(「ロビンス」と表記されることが多い/Jerome Robbins, 本名: Jerome Wilson Rabinowitz, 1918年10月11日 – 1998年7月29日)はアメリカ合衆国のバレエ・ダンス振付家、演出家。映画監督。

1918年10月11日にニューヨーク・マンハッタンで生まれる。フレッド・アステアに憧れてダンサーを志し、アントニー・チューダーにダンスを、エリア・カザンに演劇を学ぶ。
1940年アメリカン・バレエ・シアターでソリストとして踊る。
1944年バレエ『ファンシー・フリー』
(Fancy Free音楽レナード・バーンスタイン)で振付家としてデビューするや一躍脚光を浴びる。『ファンシー・フリー』は『オン・ザ・タウン』(On the Town 1944年)としてミュージカル化、『踊る大紐育』(1949年)として映画化された。

1949年にニューヨーク・シティ・バレエ団(NYCB)の副バレエ・マスターに就任。『檻』(1951年)、『牧神の午後』(1953年)など多くの作品を振り付ける。同時にブロードウェイでも仕事をはじめ、『王様と私』(1951年)、『ウエスト・サイド・ストーリー』(1957年)、『屋根の上のバイオリン弾き』(1964年)など多くのヒット作品を手がけトニー賞を受賞している。1961年に『ウエスト・サイド・ストーリー』が映画化された際にはロバート・ワイズと共に監督を務め、アカデミー賞監督賞他9部門を受賞した。

1950年代、米国中に吹き荒れた「赤狩り」の嵐の標的となった末、かつての同志8人を名指し(naming names)した「密告者」であった[1]が、下院非米活動委員会に協力したことでロビンズの名前は傷ついていない。

ジョージ・バランシンの死後ピーター・マーティンズと共にNYCBのバレエ・マスターに就任(1983~1990年)。

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1998年にニューヨークで死亡した。

(※作品はミュージカル)

  • 『ファンシー・フリー』(1944年)
  • 『檻』(1951年)
  • 『王様と私』※(1951年)
  • 『牧神の午後』(1953年)
  • 『ピーター・パン』※(1954年)
  • 『コンサート』(1956年)
  • 『ウエスト・サイド・ストーリー』※(1957年)
  • 『ジプシー』※(1959年)
  • 『屋根の上のバイオリン弾き』※(1964年)
  • 『ダンシズ・アット・ギャザリング』(1969年)
  • 『イン・ザ・ナイト』(1970年)
  • 『レクイエム・カルティクルス』(1972年)
  • 『ウォーターミル』(1972年)
  • 『アザー・ダンシズ』(1976年)
  • 『グラス・ピーシズ』(1983年5月12日、ニューヨーク・ステート・シアター初演)
  • 『ジェローム・ロビンス・ブロードウェイ』※(1991年)
  1. ^ 3年は沈黙を続けたが、バイセクシュアルを暴露すると脅迫されたためである。モンゴメリー・クリフトと関係があったことが知られる。

参考文献[編集]

  • 津野海太郎『ジェローム・ロビンスが死んだ ミュージカルと赤狩り』平凡社 2008年 、のち小学館文庫(副題「なぜ彼は密告者になったのか?」

外部リンク[編集]

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